コロナ禍における人々のキャラクター【映画『キャラクター』を見て】

最近いろいろと立て込んでいたのだけれど、少しだけ余裕ができたので久しぶりに映画でも見ようと思い、AmazonPrimeを漁っていたら一つのサスペンスが目について面白そうだと思って鑑賞させてもらった。


character-movie.jp


※ネタバレが結構致命的な作品なので、見てみたい人は読み進めないでください


タイトル通り人間の「キャラクター」なるものに焦点があてられた映画ではあるけれど、リアリティに迫る風刺的な作品というよりは、エンターテイメントに振り切った作品なので真っ向勝負のサスペンスとして楽しむのがベストなのだとは思う。が、どうしても、至る所に散りばめられた描写から、人間のキャラクターなるものに対する視線は幾度となく感じ取らされた。


サスペンス漫画家を目指す山城(菅田将暉)はリアリティに迫る悪役が描けないことに悩んでおり、しかしある夜に一家殺害事件の現場と犯人の目撃することで彼の描く絵にもリアリティが宿る。瞬く間に山城の書く漫画はヒット作となり、しかし作中の殺人を両角(Fukase)が模倣する。殺人を触発する作品は書けないと山城は連載を断念するが、両角を捕まえるために両角と自分の一騎打ちのシーンを最終回とし、最後は山城が両角を刺殺する。


このストーリーにおいて「キャラクター」という言葉が意味するところは即ち、山城と両角の対比、にあるのだと思われる。飲み屋のおっちゃんに両角の姿が見えていなかったりしたので、初めは両角が山城の中の二重人格の片方なのでは、なんて思ったりもしたが、どうもそうではなかったらしい。山城と両角はれっきとした実の存在であり、どちらも「作られた四人家族」に対しての内なるエネルギーを秘めていた。それを創作物の中で殺し続ける山城と、現実の中で殺し続ける両角。山城にとっては両角が創作物の中におけるキャラクターなのに対し、両角にとっては山城こそが自分に何かの啓示を与えるキャラクターであり続けたのだろう。そしてそのキャラクター同士はその間に境界を引けない実に曖昧なものだ、というのは本作品の重要なメッセージの一つだろう。最終シーンで両角が覆いかぶさる予定が山城が覆いかぶさっていること然り、あれだけ強烈なキャラクターとして描かれていたはずの両角が最後に「僕は誰」と自我のない幼児のような顔で尋ねること然り。常に、作品を見る我々に対し、「あなたたちがキャラクターとして記憶したそれってさ」的な、そこを揺さぶられている感じが常にあったのだ。


作中の感想はこれくらいにしておいて、どうも最近のコロナウイルス第七波(と呼ばれているもの)を見ていても、このキャラクター的視点は面白い考え方なのではないか、なんてことを思ったりしたのである。


僕たち人間はそもそも、自分と縁のない話に対しては共感感情を最小限に抑え込まれている。例えば医療従事者とは無縁だが飲食店でのバイトをしていた自分には、いかにこの状況で飲食業界だけが犠牲になることがおかしいか、的な言論ばかりを耳にしてきた。しかしもし自分が医療従事者であれば話は別だろう。いかに病床が逼迫しているかの議論を多く目にし、飲食業界への感想としては「補助金もらえるんでしょ、いいじゃないそれで」くらいの感覚でそれを済ませただろう。つまるところ、自分が普段の生活で経験する世界ばかりが現実として取り上げられ、生身を持って経験しない他の分野に関しては、創作物を見るときのような心地で眺めるしかない、こればかりはそうだとしか言えないことである。だから自分のような立場の人間は「飲食ばかり邪魔しないで。コロナだって重症化リスクはほとんどないんだから過度な制限は経済を殺す」的な意見の方にどうしても寄っていってしまう。言い換えればつまり、自分の生活との関わりの強い飲食業界という現実で生きるために、医療業界という創作物の中で描かれている従事者や高齢者というキャラクターを殺して生きている、そう見ることはできてしまうだろう。


もちろん、それで「自らの身の保身だけに走ること」がないように注意を払う義務はある。飲食業界が成り立つために高齢者は死んでよいみたいな話をする限りはいたちごっこなので、いかに「自分を守り、あなたたちも守る」的な方向へと導くかが重要なのかな、とは思う。言ってみれば最大多数の最大幸福、みたいなものが民には受け入れられやすいのだろう。しかし、どれだけ突き詰めようとも、自分の置かれた状況において発言する言葉は、各々のポジショントークにしかなりえない、それは一つ残念な現実なのではないだろうか。人が良すぎて悪役が書けないと言われてきた山城が創作物の中でなんとか四人家族を殺そうとするのは、現実で殺人をするということに馴染みのない人間なりのポジショントークだろう。そうしたポジショントークをうけ、両角が現実で四人家族を殺し続け、山城に対し「あなたも創作物の中で人を殺し続けてるじゃん、僕と何が違うの!」と言い放ったのは、まさに、そういうことなのではないか*1。現実において、医療業界の従事者が病床率等を守るためのポジショントークから人々の行動を制限し、馴染みのない飲食業界などからそのターゲットにしてしまうことで、感染拡大防止という大義が果たされるものの、医療現場の目にはリアリティを持って映らない飲食業界という創作物の中で人を殺しているじゃないか、そういう反論が飛んでくる。その縮図みたいな感じで自分は映画を見させられたのだ。自分の現実を守るため、実感の湧かないどこかの世界という創作物の中で殺しをするしかないということが、一つ、浮き彫りになってきているのではないか、と思うのだ。


こういう話をすると、トロッコ問題みたいなものが嫌でも連想される。自分の正義を守るために、どの線路を仮想世界と認識して、いかに心理的負担を抑えて線路のレバーを握るのか、みたいな話なのだろう。自分の生きる世界と無縁の線路の先へとトロッコが進むためのレバーほど、ストレスなく握りやすい。そのポジショントークとしての残酷さは、いつだって人間が抱えていくものであるはずだ。


そして、江原氏のNoteを最近読ませてもらっていたのだけれど、*2そこに書かれているのは、今の日本人はそのレバーを政治家に握らせている、その考えには大きく頷けてしまうところが多い。選挙に行かない若者たちの行動も、自分たちがレバーを握っているわけではないと思うことでその心理的負担を避けることだとして説明することは凡そ間違いではないと思うし、そうすればそうするほど、政治を野放しで非難できる快感がついて回る。


だからこそ、今憶えておくべきは、我々が、政治という創作物の中で人殺しをして(させて)いるということなのではなかろうか。連載を中止して両角を非難する山城こそが、今の世界で「マスクなしはモラル違反」「政治が機能していない」と非難する我々だろう。そして、それに対して繰り出される「お前も創作物のなかで人殺しをしているじゃん」という反論は、実は最も的を得たものなのかもしれない。創作物の中で殺しを行い何かの欲を満たす山城に、我々はきっと重なるところが多くある。それをキャラクターとしてより鮮明に描き、そのキャラクターに命が宿るときに何かが爆発するのだろう。創作物の模倣として現実世界で殺しを続ける両角こそが、実世界で何かの決断をしなければならない(レバーを握らないといけない)者の悲痛の心の叫びの代弁者であることは否めない。


PS

小栗旬はあっさり死んだのに高畑充希はあれだけ刺されて生き残り双子を生んだのが衝撃だった

*1:なぜ両者が四人家族に執念を持つのかの説明は割愛

*2:note.com