首相襲撃から見る、地図を失った社会と信頼問題

今回の参議院選挙はしっかり参加しようと考え、情報収集などをもとに投票先まで決めていたのですが、その二日前にあのような悲惨な事件が起きてしまい、直後のSNSでは「#投票は香典じゃない」などのタグが出回るさまで、なんとも選挙に対する心持ちというものが一気に分からなくなってしまいました。結果から話すと、家に届いた投票券を紛失するという(おそらく他の不必要なものと共に捨ててしまった)無様な失態で投票をしなかったのですが、起こったことが起こったことであるだけに、かつてにないほど政治というものを考えるようになりました。


結論から話すと、今回の事件は、世代継承に関する信頼問題なのではないか、というように考えています。ロシアの戦争をはじめ、あまりに自分たちの世代には実感の湧かない事ばかりが起き、言葉にならないひっ迫感だけが残る中で思考だけが整っていないのですが、これからの世代に加わっていく以上、自分の言葉で残すことは重要であると思い、記事を書くに至りました。

社会への信頼に関して


若者の政治への無関心が叫ばれて久しく、自分も今年で24になるものの、今まで投票に積極的に参加したことはありませんでした(参加表明の気持ちだけは示した方が良いかと思い白紙で投票をしたことはあるのですが、どこどこの政党に期待してというような前向きな気持ちでそれを行ったことはありません)。その内実は蓋を開ければ他人への期待感情の薄さ、であり、自分の生活に関して困窮している感覚もなければ、それを誰かに変えてほしいという欲望も存在しなかった、それに尽きます。


このような状況を打開しようと、若者に対して投票を行うように呼び掛ける声は多く、記憶に残るもので言えばたかまつなな氏のPVなど*1、若者に対し「お前らが選挙に行かないせいで年寄りが得ばかりしている」的なメッセージでその焦燥感を駆り立てようとするものなどが見受けられ、しかしそれも、どうも世代間分裂を助長するだけのもののようにも思え、若者への意識改革には誰もが手を焼いている、そんなように見受けられる状況が続いていました。


実際に無関心な若者の代表格ともいえるくらいの位置に自分がいるため、このように客観的に偉そうに書くような身分でないことは重々承知ですが、しかし、外界のコミュニティに対して何らかの期待をする、そのような経験が自分にはごっそりと欠落しており、いざ選挙と言われても実感が湧かなかったのは正直なところです。小学校時代は学習塾、中高は学校(都外から都の中高一貫に通った)、大学は体育会の部活動と、一貫して内なるコミュニティに閉ざされてきたような人生で、では小学校の頃に受けた教育はなんだったかと思って思い返すと、「知らない大人にはついて行ってはいけない」とか「大人が本気を出すとこんなに簡単に小学生の体は持ち運ばれてしまう」とか、そういうものを見せられたばかりで、僕らが助けを呼ぶために使えと教えられたものは、引っ張って大音量を流す防犯ベルであり、手にしていたガラ携の追跡機能であり、少なくとも近くにいる生身の大人を頼れといった教育は皆無だったと言えます。そうしたものから、まさに「人を見たら泥棒と思え」のような内なるコミュニティしか信頼しない閉鎖的な感覚を骨の髄まで幼少期から染みつかせており、その感覚から選挙を現実的に捉えるのはやはり困難である、それだけは絶対的な事実として自分の中にあります。


またさらに、こうした外界との境界線を確立するのに貢献した存在として、アドラー心理学の存在は挙げておかないといけない重要な要素であるように思います。『嫌われる勇気』がベストセラーになったのは記憶に新しいですが、あそこに書かれているのはつまり「自分の課題と他者の課題は区別しろ」「誰かが怒っていることとあなたの行動価値には本来関係がない」ということであり、言い換えれば「あなたの実存在という内なるコミュニティのみを信じれば気が休まる」というような意味を持ったのではないでしょうか。あなたが苦しいのは他人に期待するからで、期待をしなければ楽になるという元も子もないことが書いてある啓発本があそこまでのベストセラーになったのは、昭和後期の雑然とした雰囲気を失い、内外のコミュニティの境界が強まった社会において心理的安寧を人々がそれだけ求めていたということを示すのでしょうし、実際それを読んで感銘を受けた自分は、人に期待をせずに心理的に楽になるという処世術を確立させてしまった、とも言えます。


さて、少し話は逸れたのですが、こうした話は実に多くの人にあてはまるものだとも思います。今までの自分の記事でも、平成中期から人々が社会的な道標を失ったように見える、ということは幾度となく書きましたが、そうした風流の中で、人々は外界とのコミュニティを切断し、内なるコミュニティに閉じこもる中でそれでも対処できない外界の出来事に対しては法的に対処する方法を獲得しました。女性への発言はハラスメントとして処理され、いじめは犯罪として裁判の判決にも影響を及ぼし、「それでも耐え抜くことが強さ」といったような、ざっくばらんとした接続詞は今や見る影もありません。内界で満足することを覚えた人たちが外界に求めることは当然「自分たちの内界に手を出さないこと」になるため、その結果として「今まで通り何もしない自民党」が勝ち続ける、それはこうした社会背景から考えるに当然のことだと頷くしかないのではないでしょうか。今回の選挙も自民党の圧勝となりましたが、首相が撃たれても「このままではいけない」「何かの変革を」と考える人間の少なさを物語っているように思え(浅学による見当違いかもしれませんが)、変わらないことを望み続ける人々は、何を判断するべきなのか分かっていないのではないか、そんなことを思います。当然その中に自分も位置しており、投票や選挙というワードが実にしっくりこないのであります。

世代継承と信頼関係に関して


さて、ここまでざっくり、選挙と信頼関係の話をしたのですが、そうした内外のコミュニティ関係がより顕著に問題となるのが「少子化問題」なのではないでしょうか。今回の参議院選挙に関しても、少子化に関して声をあげる人は少なくなく、保育環境やれ子育て給付金やれ様々な声があがるのを見ましたが、そのどれを見ても自分の意見は「そうじゃない」という一点に尽きました。以前に比べれば育休も保育制度も整っているに関わらずここまで出生率が伸び悩むのは、まさに親子という関係が外界とのコミュニティを切断しているから、その一点に尽きるのではないでしょうか。子どもを生んだことで給付金がどれだけおりようと、育児中に有休がもらえようと、その策はどれも「親に問題が起きてしまえば無に帰する」ことなのです。僕たちをはじめとする今の世代が「親ガチャ」といった言葉で親との関係の無差別性から救われようとするのは、親以外に自分に手を差し伸べる人がいないことを知っているからであり、どんなに育児環境が整っても子供が増えないのは、親が外界を信頼し自分の子供を託すことができないでいるから、それに尽きると思うのです。かつて存在した、近所の若者の縁談をセットするおばあちゃんなるものは絶滅危惧種となり、まさに”町で人を育てる”文化というものが消え去りました。たまたまそこに居合わせた人間同士で愛するという隣人主義を人々が放棄した結果、子どもを生む責任が全て親にのしかかり、それでいて平和な日本の教育は「命は何よりも重い」「どの命にも優劣はなく平等だ」と語ります。命の質量がいかに尊大かを説けば説くほど、「そんな重いものを親だけでは抱えきれない」と考える人が増えるのは当然です。重いからこそ分散して運ぶのであり、しかし、今まで散々述べたような内なるコミュニティに閉じる社会ではそれが可能にならないから、いつまでも同じ結果を抱えることになる、それが結論だと思うのです。


そして、そうした社会の犠牲者こそが、首相襲撃の容疑者なのではないでしょうか。先ほど『その策はどれも「親に問題が起きてしまえば無に帰する」ことなのです』と述べましたが、それこそ容疑者に重なるというものです。統一教会にのめり込む母の存在が事件の発端となったわけですが、しかしそれはあくまで表層の話であり、社会的な問題として見るのであれば、宗教団体にのめりこんだ母を持つ子供に孤独を抱えさせ続けてしまった故と捉えるべきです。まさに容疑者視点、育休しかり金しかり、親に問題が起きれば無に帰することばかりやっているから、そんなことでは救い切れない孤独を暴発させるに至ったと思えてなりません。子どもを育むうえで理想の社会は「親が育てなくてもよい社会」なのであり、もちろんそれが度を過ぎれば無責任な親ばかりが増えて破綻するわけですが、しかし今の社会は確実に親に過大な負担をかけるものであることは間違いなく、今回の事件はそうした世間の流れからして仕方のない事件ではないかとも思うのです。少子化を防ぐという点に立つときにまず社会が払拭するべきなのは親だけが子供を育てるという頑固なイデオロギーであり、そして、子供が頼れるのは内なるコミュニティだけであるという閉塞的な価値観、なのではないでしょうか。外界を信じない社会から外界を信じない子供が生まれてくるのはごく自然で、親に問題が起きたときにその所在を殺すという短絡的な思考につながることは、決して個人の責任論として片づけるべきでないのは確かです。


こうした流れをみていると、個人主義の悪面ばかりが露見されているように感じるのです。まさに今の人々は「地図を持たない旅人」なのではないでしょうか。職業観においても家庭観においても、かつてあった目標を見据えての全体的な道しるべを見失い、他の誰が何を言っているかなど関係なしに自分なりに満足して進むことに重きを置く方向へと人々は舵を切りました。その結果、産業が人々に施すのは充足感の提供であり、厚い寝袋、暑寒を遮るテント、疲労を軽減するスーツなどが人々に安価で提供できるようになったのはそれだけ切り取れば”よいこと”なのですが、しかしどれだけ重装備になろうとも、「自分はお前とあちらに行きたい/行くべきだ」というニュアンスの、所謂「べき論」での当為を語れなくなったのではないでしょうか。少子化解決を初めとし、今回の容疑者のような存在を減らすという目的に立つのであれば、これ以上人々に重装備を負担させることが先決とは思えず、どれだけ裸一貫であろうとも、地図を持ちながら「目指すべきはあちらだ」と声をかけること、それ以外にないのです。たとえば命の電話と称し希死念慮を持つ人の話を聞き続ける坂口恭平氏などはその筆頭なのでしょう。どれだけ人々に気楽に旅をさせようと、目指すところがなければ人々は簡単に混乱に陥る、その事実に、いい加減、気がつくべきではないでしょうか。いかなる政策も親と子供という最小単位においてしかその効力を発揮せず、そのどちらかでも問題が起きれば破綻する現実から視点を広げ、例え世界が暗転したとしても進む方向だけは分かっているという光の存在さえできれば、少なくとも、首相を撃つほどの心理には到達しません。それほどの孤独を各々に抱えさせる時代であるということは誰もが胸に刻んでおくべきだし、この風潮がなくならない限り似たような事件が今後起きることは間違いがないと思います。そうした人間の矛先が自分の大切な人間であることも考えたとき、選挙に行かないといけないのかもしれない、そうした逼迫感を与えられているような気がするのは、今までの自分の人生から考えるに、本当に本当に皮肉なことだ、と思います。