映画『Plan75』の感想

先日、『Plan75』を見た。


happinet-phantom.com



諸々、感想を書く。登場人物の名前があやふやなので、登場人物名ではなく役者名で書く。

『Plan75』の制度自体に関して


映画を見進めるたびに、これはPlan75という制度があれば国民は幸せになる、という意思の人間によって作られたわけではないのはすぐに分かった。ラストシーンで倍賞千恵子が施設から逃げ出すのには、結局のところ機械による意図的な死への反抗的なメッセージが含まれていそうだし、磯村勇斗が叔父の遺体を回収するきっかけになった上司の隠蔽も、実際に制度化された現実で起こりそうなことで生々しい。また、ステファニーが磯村の叔父の遺体の回収を手伝ったきっかけになった夢には、娘がPlan75の安楽死用のベッドに腰かける姿が描かれ、それによりステファニーは衝動的に磯村に協力したと解釈している。75を過ぎれば自由に死んで構わない、という制度の裏に、その死を選ぶ人間にも大切に思ってくれる誰かがいるのだ、というようなメッセージを多くの人が受け取るところだろう。


しかしどうも、生きてほしいと願っている人がいるのだから自分で死ぬ権利は封鎖すべきだ、というような安直な解答で終わるべきでないということもまた、明白な事実ではあると思ってしまうのだ。


Plan75はまさに、自己決定権に関わる議論なのである。当制度は、日本の文化の中ではもはや、「死を選ぶ制度」ではなく「死を選ばせる制度」として作用することが問題なのであり、決して、自己決定権と呼ばれて然るべきもので死を選ぶ制度自体が悪であるということにはならない。あくまで日本の教育からはその取扱いに難があるというだけだ。いわゆる安楽死ハラスメントというものが横行するのは目に見えていて、「え、あなた、労働もできないのに生きるのですか」という視線の中で死ぬことを自己決定権とは呼ばないというのが日本という国の最終決断なのである。逆にスイスを初めとして安楽死が合法化されている国では意中を隠し相手の意向に沿うように選択を行う文化が日本より幾分か根付いていないためにそうした制度を決行できる。


そう考えると、Plan75のような自ら死ぬ制度のない国は、死をふるいとして選別してきた、そう言い換えることができたりするんじゃないだろうか。どういうことなのかもう少し噛み砕いて説明する。


近日、おもしろい意見を見たことがあって、「ツーブロックを禁止する校則は何のためにあるのか」という問いに対し、「ツーブロック禁止校則は、ツーブロックの禁止を主眼としているのではなく、ツーブロック禁止校則があるというくらいの理由でツーブロックにはしないようなバイタリティの低い個体を見極めることを主な目的としている」と答えるものだった。ツーブロックにすること自体に個性としての優劣がないのを誰もが理解しつつ、しかしそれを禁止されたくらいでやめるのであれば、統合と管理の重要な教育現場において画一から外れる行為をとらないでおいてね、と、そういうことであるというのだ。それでもどうしてもツーブロックにしたいというのであれば第三者が止めることはできないわけで、しかしそれでも、ツーブロックにしてもよいと口に出すことがタブーであり規則は規則と片づけられるように、安楽死を認めないということは、安楽死が禁止にもかかわらずそれでも死を選ぶ者の本気度を、ざるの穴に通すように選別してきたことを意味する。安楽死を認めるのであれば、「え、それ、死ぬほどの苦痛ではなくない」というような人が勘違いして死を選ぶリスクが当然増え、それは即ち、ざるの網目の間隔を広げる行為に等しく、そのような状況が進めば労働力が減る状況は容易に想定できるし、国家がそんな制度を自ら作り出すはずがない。安楽死禁止という網目の細かいざるは、それでも死を選ぶほどに手段がない者という水分を濾すことができるのに対し、安楽死合法という網目の粗いざるは、前者のざるでは濾されなかったような固体まで通してしまい、ふとざるの上を見れば、国家を支える貴重な労働力が明白に減少しているという状況が発生するというわけだ。


しかしPlan75のようなものが実施されたときに真逆のことが起こる、それが映画内で緻密に描かれていたように思うのである。まさに映画の中盤くらいで、倍賞千恵子が、ホテルの仕事を退任した後に、各所で新しい仕事や住居を探す場面があるわけだけれど、あの場面が訴えんとしていたことは、"Plan75が『生』をふるいにかける"ということではなかっただろうか。安楽死禁止という細かいざるが解決見込みのない死を選別したように、Plan75という細かいざるが、解決見込みのない生を選別しているということを思ってしまったのだ。Plan75は75歳になったら死んでもいいということを伝えるものではなく、そんな規則があるくらいで死ぬのであれば早く消えてね、そうした話なのではないだろうか。


ちょっとややこしくなってきたので、図を書きまして。



安楽死に関しては上図のようになる。安楽死を違法とすることでざるは粗くなり、安楽死が違法であるというだけで生きてくれるバイタリティの低い個体を漏らさない役割を持つ。


しかし、死に対して網目が細かいということは生きることに対し網目が粗いということを意味もする。それを図にするのなら以下のようになるのだ。




Plan75は生きることへのハードルを上げた。それは生活難度が上昇したという意味合いではなく、映画内でまさに倍賞千恵子の友人たちが「孫のためなら」とか「もうそろそろいいかな」などと言ってそちらの方に流れていたシーンから明らかなように、誰かのためなら、みんなと一緒なら、という条件付きで死ぬハードルを下げにかかられていることに他ならない。そうして生きることに対して粗くなったざる、それでも濾されたのが倍賞千恵子なのではないだろうか。僕たちは「ふと自ら死んではいけない」という価値観の中で普段から生活するため、死に対し細かく、生に対し粗いざるの中を日々生きている。だから、死が許容された世界でそれでも生を願う、つまり生に対しバイタリティの高い個体を選別することがないのだ。倍賞千恵子を見てそんなことを思った。彼女は本気で生きたいと願っているのだ、と。僕たちの生活は普段から裕福すぎて、死なないことが前提になっている節すらあるから、生を選別しない、それゆえ、他人の命が自らそれを鼓舞し輝こうとする姿を目にすることが極端に減っているのではないだろうか。それを倍賞千恵子が演じたような気がしてならない。僕たちが普段の生活で感じない対人感情を揺さぶられた感覚があったのだ。


だから総じていうのならこの映画は『生のふるいで濾された人々』の物語なのであり、それの善悪ではなく、ふるいで濾されることの価値転換の仮想現実を感じさせる作品なのではないか。僕たちはPlan75という制度の善悪という議題から一度は離れてみてもいいのかもしれない。死んではいけない状況で死なないことに、集団での安全保障に準する重みを感じて安心し満足する人間はいていいし、死んでもいい状況で死なない個体と触れ合うことで生の輝きを重んじ、したたかに見つめる価値観もあっていい。その善悪から距離を置き、ふるいにかけられることの美しさを覚えておくことだ。映画内での倍賞千恵子はそうだろうし、現実世界で―例えば東海大学安楽死事件のように―善意により死という形で患者を苦痛から解放したことも、それほどの粗いざるを通る苦痛の中で一つの信念を持ったことの美しさをどれだけ我々は覚えているだろう。重要なテーマはいつだってそこなのではないか。


いまPlan75の制度の善悪から離れたわけだが、むしろ悪とはっきり断罪するべきは、それに対する教唆の手段の方なのである。例えば、映画内で「合同火葬サービス」みたいなものがあったけれど、ああいうものは本当に気持ち悪くてしかたない。みんなと一緒なら死ぬの怖くないんちゃうの、そう言っているのに変わりなく、死を選ぶということに対しその自己決定権に一切の敬虔を感じない、ごく卑劣な宣伝文句である。あとは、「生まれるときは選べないから死ぬときは選びたいわ」というおばあちゃんの動画が待合室に流れていたのも気持ち悪い。共感を煽るためにわざわざ年配の役者を使い、死を選ぶ人の心の負担を減らそうという耳障りの良い説明でそれを美化するのは実に不謹慎とは思わないだろうか。高齢化の進む日本においてこのような制度が実現するのは近い未来のことかもしれないし、自分はやはりこうした制度には反対の立場をとる方の人間なわけだが、しかしもしこのような制度が採択されるとして、自己の決定により死ぬことを認めるというのなら、その決定には大いなる尊厳があってしかるべきだ。合同火葬サービスもPR動画もその冒涜に思えてならない。その教唆に関して万人の矜持が一定に確立しない限り、この制度は人類には早すぎる、その一点だけは確固たる主張として自分の中にあるのだ。