生きたことへと返事を書く

ここ数か月ほど、陰湿とした気分が続いていた。3月に一編の小説を新人賞に応募してからは創作意欲がめっきり薄れ、何を書いていいのかも分からなくなって、ブログだけは5月中旬まで続いていたけど、それもめっきり書かなくなってしまい、もう応募することのなさそうな自作をぽつりと記事に投稿したのがちょうど10日くらい前になる。この二年間くらいで、ここまで文章を書かないのは初めてだった。


文章を書かない代わりに、色々なことを考えてはいた。仕事以外の余暇の時間がきつすぎて、ゲームと運動で何とか時間を忘れてはいたけれど、それでもふと、その隙間の時間に問わずに済ませたいことを問うてしまい、何か深い闇奥に迎え入れられそうな気分になることが多々あった。ただ憂鬱だったのは、一つのことなのだと思う。それは、この先も文章を書きたいと思ってはいる、しかし、では、いったいこの先誰が自分の手紙に返事をくれるのだろうか、そのことだけだった。


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そう、手紙なのだ。


この感覚は今までになかったものなので、それがふと芽生えた最近には斬新な高揚感があった。


文章を書くということは、その媒体が小説であろうとブログであろうと、誰か読んでくれる人を想定し、その人に伝えたい何かがあるからそれを原動力に人は筆を動かす。しかし思えばあまりに遠回りなことなのだ。人々に何かを伝えたいという目的に則るのに、文章という目的が割に合わない。今風で言うならYoutubeTikTok、強いて妥協してもTwitter、そうした価値観の転換しきったSNSの電波に載せるほうがはるかに効率的だ。しかし自分がそれをやるというのはどうも想像がつかない。コミュニケーションなんて万以上の方式がある。それは音楽でも芸術でも何でもよく、人は千差万別だからこそ表現が存在し、それにも関わらず、拡散効率の悪い手段を選んでは、誰からも返事が来ないことを恐れ嘆く。自分で自分を殴って痛いと叫ぶかのように。別に、言いたいことが伝わるのなら手段なんてなんでもいいのだ。TikTokなんかは一回り下の世代の武器だから自分には手も出ないし、そんなポップで中身のなさそうなツールを使ってもねえ、と媒体を批判するのも野暮で、そういう若者向けのものは自分のスタイルに似合わないという食わず嫌いの偏屈な価値観が、そっちの方こそが、自分を殺しにかかっているのかもしれない。


でもそれはそうとして受け入れるしかないのは、この文章は、今もこうして書いている一文字一文字は、そして今まで書いてきた何十万という文字たちは、何万人に見せびらかすものではない、たった一人のために書いてきた手紙だからなのだ。小さい頃、何枚も刷った年賀状に、宛先ごとにメッセージを変えてはあの人にはなんて書こうかと悩んだあのときのように、誰かに届けたい一言を心の中に持っているからだ。文章力もその言葉の力強さも、そんなことに自信はなくとも、そのエネルギーだけは持っている気がするからだ。書いたものを写真に撮ってどこかにアップすればそれでいいというものではない。拡散ではなく、それを届けたいはずの一人に思いを込めるとき、自然と人は筆をとってきたのではないだろうか。しかし唯一残念なことがあるとするのなら、そのハガキの裏に書く宛先というものがどこなのか、それだけを知りあぐねていることである。住所も名前も知らない。知らないというか、もうこの世にはいないということだとも思う。あのとき死んだ彼、とか、一瞬の気の迷いで命を落としていた可能性のある自分、とか、そうした、自分の頭の中に残っている可能性に向けて手紙を書いている感覚だ。


だから当然、返事だってこない。


ここで自分が返事、と言っているのは、自分が書いたものに対して「私はこう思った」という感想が返ってくること、というのとは少しニュアンスが違う。もちろんそれだってほとんど無に等しい。でも本当にたまに、TwitterのDMなんかで、自分の文章に救われたと言ってくれる人がいて、それには本当に感無量だし、そんな言葉を送ってくれる人がいる中で「なかなか返事をくれない」と嘆くのも失敬だと思う。僕がここで言う手紙の返事とは、いわゆる、解答、的な意味合いのニュアンスなのだ。


僕のこの人生の解答はどこだろうか。


こういうことを言うとだいたい、「みんな解答のない人生を生きているんだ」とか「みんな自分なりの解答を探すために生きているんだ」とか言う人が現れるわけだけれど、もう本当に、うるせえ黙れ、と思う。そういうことを言う人ほど、所属する会社から固定給をもらっているし、年金を払って老後の生活を見据えているし、子供にはいい大学に行ってほしいと願っているし、生きているうちに孫の顔を見たいと思っている。解答というぼんやりとしたイデオロギーに無頓着であればあるほどそれを雄弁に語るその姿勢が受け付けない。そういうものが恨めしいのだ。給料も、貯蓄も、学歴も、子孫繁栄も、全部が立派な解答じゃないか。それがあることで日本という裕福な国の幸福のイデオロギーにすっぽりとはまり、誰の大きな反感も買わずに、生死を彷徨う議論なしに穏便に暮らすことができる。それを解答と呼ばずに何と呼ぶのだろうか。そういう類の解答というものが、自分の人生にはあまり当てはまらないようで辟易することがあるのだ。もちろん私生活全てに返事が来ないなどと嘆くつもりはない。数少ない仕事の雇用先の環境は優しいし、仕事から帰るとお疲れさまと声をかけてくれる人がいるし、毎日健康に食事ができている。それは人生の解答として過不足のないことばかりだけれど、でもそれでも、人生の大枠として、何かに呪われるように書き続けるこの行為に限っては解答が見えてこない。書き続ければ報われると思ってやるようなことではないし、書くことは固定給でやるような単調な作業でもなければ、むしろ、これだけやって死ねれば満足だくらいの自暴自棄な気持ちが確かにある。


書き続けて何があるんだよ、もっと言えば、こんなこと、考え続けて何があるんだよ、その魔力に引き込まれることが多すぎて困る。死ぬことを考え続ければそれは当然、人はいつか死ぬ、に辿り着くのだし、だとしたら今の一切合切は全て無に帰するという諦念に結びつくのは容易なことだ。それでも考えない人生の中でそれを考えたときの可能性がちらつく方がきついから考えるわけで、「いやなことやめて生きられるよ」みたいな、近年散見される、ひろゆきとかプロ奢られヤー*1的な考えもどうもしっくりこない。

復讐から始まって 終わりはいったいなんだろう
償い切れない過去だって 決して君を許さないよ

きのこ帝国『夜が明けたら』


考えることは復讐みたいだ。何にかって、それはやはり生まれたことに対してなのだと思う。それは決して、「おい両親、何で生んだんだこの野郎」みたいな安直で薄っぺらい怒りのようなものではなく、生まれることと生むことをメタ的に捉え、生きていることを否定的かつ懐疑的に咀嚼しなおしているような感覚だ。それはやっぱり、生まれたことに対しての復讐だな、と思うし、きのこ帝国が歌うとおり、償い切れない過去に許してもらうがために救済を請う行為でもないのだ。


じゃあさ、と思うのだ。これは名曲だ。復讐から始まって、終わりはいったい何なのですか、と。僕たちは、復讐に終わりが来ないことを知っている。本当は何も考えたくない。考えるのはそれが理不尽だからだ。あまりに理不尽で仕方のないことだから、その理不尽なことでも敢えてそれに取り組む理由を探し、さらに継承するために必死に考えているのだ。できるかぎり、考えたくない。考えない人生は、恋人の好きなところを聞かれて「全部」と答えるバカに似ている。一緒にいて心地が良すぎるから一緒にいる理由なんて考えたことが一度もなく、それをふと聞かれたときも、その全体の大枠を返答するしかない、ということ。僕は、自分の人生においても、そっちが良かった。生きていてよかったことを聞かれて、そんなことは考えたことがなかったなと、「ゼンブ」と間抜けな声で返事をしてみたい。

それでもやるしかないとか それもエゴだって話
今まで傷つけた分だけ いつかの誰かを救えるわけがないだろう


その通りだ。生きていることに復讐をしようとし、しかしその復讐にも終わりが見えてこずに"ガソリン切れ"になって、そしてちょうど文字をめっきり書かなくなってしまったこの3か月くらいが、そういう時期だったのだ。人の集中力は90分、なんて話をよく聞くけれど、そんな脳内が僕の人生みたいだ。よっしゃ生きていることに復讐だと躍起になり、しかしその集中力が持つ90分が、自分の人生で言うところの、文章を本格的に書き始めてからのこの約2年間なのだと思う。惨めだ。解答がないことに馬鹿馬鹿しくなり、終わりが見えないことをただ嘆く。嘆いたとて報われないのに、救われないのに、誰かを救うこともできないのに。


人生に、返事が欲しい。


誰かが、宛先も分からずにただ已むに已まれず書いたそれだというのならば、僕はそれを、切に読みたい。

でも、でも、でも、でも
夜が明けたら
夜が明けたら
許されるようなそんな気がして
生きていたいと 涙が出たのです


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*1:めっちゃネガティブ要素でここでは引用してしまったけれど、彼らは頭の回転がいいし人生を考えるうえでとても重要な知見を与えてくれる人物であることには変わりないです