『パラサイト』と嗅覚から始まるゾーニングについて

AmazonPrimeで『パラサイト』が見れるようになっていた。


www.parasite-mv.jp



かなり面白かった。社会風刺みたいな映画と思って見たのだけれど、もちろんその要素がありながらコメディみたいでもあった。そりゃあ現実世界であんなことが起きれば悲劇だし、でもそれを見ながら「なんでやねん」と冷静に突っ込めてしまうところも多々あったりする。


あらすじ的には簡単で、半地下で暮らす貧困層が、裕福な家庭とツテを持って、家庭教師、運転手、家政婦なんかとして徐々に一家に侵入してゆく。それこそがまさにタイトルの「寄生」というところであり、ではその寄生から何を感じ取ったのかと言えば大きく二つで、貧困層は嗅覚として遠ざけられてきた事実と、さらには、貧富の差というものがそもそも虚構だったのではないか、という、主にそこの話になる。


まずは前者で、嗅覚による差別というメッセージがこの映画には大きく含まれているような気がした。半地下の家族が寄生する際に、もちろん自分たちが家族であるということは宿主(以下、半地下と対比して全地上とする)には内密にしておくわけだが、全地上家庭の息子が「何となくみんなから同じ匂いがする」と感づくシーンが初の嗅覚の伏線であったように思う。それ以降は、全地上の父親が半地下の父の車に乗る際にその臭いに顔をしかめるシーンが現れ、最終的に全地下(ずっとあの地下に隠れていた夫妻を敢えてそう書く)の夫が誕生日パーティで暴れた際に半地下の父が全地上の父を刺殺したのだって、全地上の父がその場の臭いに鼻をつまんだのがきっかけであるように描かれている。半地下の家族は、各々に、教育や車の運転というある種の"才能"を持ち合わせながらも、長年の生活で染みついてしまった匂いだけはどうしても変えられずそれにより悲劇を招いたというのが実に皮肉らしい。全地上の息子に臭いを指摘された日の夜、「柔軟剤を変えようか」と半地下の父が提案していたように、まさに自分たちの臭いが「貧困層の臭い」であることに自身が気がついていないというのも、なんとも滑稽なシーンのように映った。鼻で感じる類の臭いもそうでありながら、たたずまい的な何かを全体的に総括するその人間なりの"匂い"みたいなものは変えられなかったりする。


この嗅覚シーンは『パラサイト』という映画的にも力を入れた伏線ではあったと思うのだが、しかし自分がこれほどに嗅覚シーンに敏感になったのは、まさにこの日本でもそうした現場を目撃していたことに他ならなかったりするんじゃないだろうか。具体的にはタバコとホームレス、この二つは日本において「臭い」として遠ざけられているんじゃないだろうか。まさに流行の言葉を使うのなら、正義の皮を被ったゾーニング行為の格好の的となる対象として存在してきたのではないだろうか、というのを思うのだ。


タバコはこの数十年でその値段は倍以上になり、高額な税がかけられることで喫煙者自体の数は相当減少した。国立がん研究センターの統計によれば*1、喫煙者数の数はこの30年で約半分にもなっている(喫煙"率"の統計なので国民の母数まで考えるべきだが、凡そこのくらいの比率とみて間違いない)。では、肺がん患者の数はどうかと思って見てみると、この30年で倍以上の数になっているのが分かる*2。もちろん癌の機序とかには詳しくないのだが、これを見れば、喫煙を遠ざけることがいかに肺がんリスクと相関がないのかということは素人目にも分かってしまう。ではなぜここまでタバコは遠ざけられてきたのだろう。それこそがまさに「臭い」なんじゃないだろうか。それは副流煙の物理的な「臭い」というのもそうなのだけれど、それ以上に「これだけタバコを吸う人間が嫌われている世だというのに、それでも吸う奴」という、生身の人間の特質としての「匂い」でもあるんじゃないの、ということを最近よく思うわけだ。この、臭いと匂いの連結による連想が、我々に危険な論法を許してきたのではないか。まさに「タバコを吸う奴が危ない」と言ってしまうように。ホームレスで言えばDaigoの炎上が記憶に新しかったりするわけだけれど、別にDaigoが個人的に「ホームレスっていらないよね、臭いし」と個人的に思うのは勝手なのだ。では何が問題なのかと言えば、ネットを介した著名人の発言がそうした物理的な「臭い」の感想を述べることで、拡散されたその情報を受け取る人たちがホームレスというただの特性に対しての「匂い」の定着に協力してしまうというところだったのではないか。


本質はそんなところにはないというのは考えてすぐに分かるところである。タバコもホームレスも、個人がその臭いを理由に遠ざけるというのが至極真っ当であることは責められない。しかしいつだって、問題はその先だったのだ。それを臭いとして遠ざける個人が集まった集団において、遠ざけられた被害者は、臭いではなく匂いとして処理されるようになる。クサい、ではなく、これだけの大勢に嫌われながらもその特性を固守する人間としてキツい、という人間感情によって処理させられることが常に問題なのであって、形のないゾーニングとはこうして生まれてきたのではないか。その一部始終を『パラサイト』がカメラに抑えたのだと思う。臭いを指摘されて柔軟剤に意識が向かった半地下の父が、最終的には、臭いを指摘されて全地上の父を殺した。それが、あのシーンにおいて半地下の父は臭いではなく匂いを指摘されてしまったと捉えるより他にないような気はするのである。


我々はモラルをどのように論じたらいいのだろうか。今の世で「タバコを吸わないべきだ」と言うことは、一見モラルに則った発言のように思われるのかもしれないけど、しかしある対象を全面的に禁止しようとすることが本当にモラルなのだろうか。これに関して、呂布カルマというラッパーの発言でその通りだと思ったことがあったのでそれに言及しながら述べておくと、入れ墨はモラルに反するものではない、と呂布カルマは述べていた。刺青が入っているにもかかわらず銭湯に入浴させろと押しかけることがモラル違反なのであり、それはタンクトップにサンダルで高級レストランに入り込もうとして入店を断られているのと同じだ、と。ではだからと言ってタンクトップを着ることやサンダルを履くこと自体がモラル違反だと指摘する人などどこにもいないように、我々がすべきなのは「ドレスコード」の議論ではないだろうか。タンクトップやサンダルに対しては誰も批判をしないながらも、タバコや刺青に関してはそれを「ドレス」として批判できてしまうところにもっと暴力的な恐ろしさを感じ取っておくべきだと考える。我々はどの特質においても、それを「ドレスコード」として批判する権利がある。刺青を入れながら肌を露出する場に入ることも、満員電車でタバコを吸うことも、その全てを名指しで非難して構わない。しかしそれを、行為として、ドレスとして批判した瞬間にそれは虚構にしかならない。それを頭において議論しない限り、タバコで肺がんリスクが云々というような洗脳にも近いデータを指摘できる人はどんどん減っていくばかりではなかろうか。


ちなみにここで「虚構」と述べたけれど、その皮肉さまで『パラサイト』では表現されていたように思う。それこそがまさに、半地下の息子が友人からもらった石である。あれは友人からもらった宝物のような顔をしながら、洪水で家が水没しかけた際に(水が必ず下に流れるというのも貧富の差を表現する演出だった)、その石が水に浮いたことで視聴者はそれが偽物であったと気がつくわけだけれど、それが偽物であったおかげで、全地下の夫にその石で頭を殴られながらも半地下の息子は一命をとりとめたわけだ。言わば「虚構を信じたおかげで救われた」という演出に他ならず、今まで述べたようなタバコや刺青を匂いとして遠ざけるゾーニングが虚構ではありながらも、それを信じ続けることで命が保証されてしまうという現実への皮肉さがたっぷり込められているような気がしてならなかったのだ。


虚構コンテンツを信仰することに関して何かを言う気はない。全てが本音、全てが真実になってしまえばそちらの方が苦しい世界になるのは見えている。しかし、虚構を真実と思い込まずに生きることにこそ知性としての豊かさはある。我々がするべきは、虚構を我が物顔で他人に押し付けることではなく、それが真実ではないと知りながらも虚構を信じることでしか報われない人間としての弱さをたっぷり愛しておくことだけなのではないか。人間の醜さへの最大限の許容と愛嬌なしに、この映画は咀嚼できないような気がする。