少子化に関する思惑―出産ではなく流産をやめた社会―

少子化の議論を見ていると胸がキュッと締められる思いがある。何だろうな、これ、と思って少し考えると、やっぱり子どもは作りたくないと思っている自分への自己嫌悪だし、そうした考え方が「防ぐべきもの」という前提でほとんどの議論が進んでいることに因るのだと思う。文明繁栄という人類的には最大の課題に関して、非協力的な人間としてのレッテルがついて回ることに対しての絶望みたいなものは少なからず心のどこかにある。


僕みたいな考えの人間からすると、逆に、なんでみんなはそんなに子どもを生めるの、というふうに思ったりするわけだし、こういうテーマを考えるならどこから考えたらいいんだろうね。なぜ人は生むのかを考えるべきなのか、それともなぜ人は生まなくなったのかを考えるべきなのか。生物として当然の行為がここまでややこしくなったの、本当に、知能ってやつを恨むしかないんだろうか。


じゃあ自分が何で生みたくないのってことを考えても、そこには本当にいろんな思いがある。ずっと親族を自殺で亡くした人とばかり話してきたから、そうした人たちが自分の目にはもはやマイノリティとして映らず、いつでも転がり落ちれる不幸の谷としてすぐ横にそびえている感覚があるから、そんな道を子孫を連れて歩けないよ、みたいな心の叫びはずっと内包しているのだろう。さらに大学後半のコロナも大きかったりするのかな。辛いことを考えまくった割にはそれと対照の発散的な行動もとことん封じられて(部活動の引退試合が消えたり、ゼミの出席もなくなったり)、自分の心の底にはずっと、「奪われた者」としての感覚がしこりとして残っている。高3のときには友人を奪われ、最後の一年はやはりきつかったな。大学のときにはコロナでしょ。なんというか、笑いながら卒業したことがないというか。だから自分は今もその実感なしにヤングアダルトとなり、それで次はじゃあ子供を作って育てる責任です、といわれても、どうもピンとこないのだ。エリクソンがいうところの発達段階的なものにおいて、今の自分がどこにいるのかも分からない。ライフステージ的な概念が自分とはどこか縁の遠い存在に思うのだ。周りの人間が美しい景色の中でマラソンをしているのを横目に、無一色の壁を目の前にランニングマシーンの上で足を動かしている感覚が確かにある。自分が今蹴り出した一歩が何のためにあるのか分からない。そんな人間が、次の世代のマラソントレーナーにはなれないよ。だって自分は、最もかけがえのない存在には、流れゆく美しい景色を教えてあげたい。でも自分が知ってるのは、目の前の壁の色だけなんだから。嘘でもいいから、答えが欲しい。その答えの無い世界を子孫に還元できる気がどうしてもしないのである。


こうして淡々と書いたのは、自分の視点だけのミクロな話なのだけれど、じゃあこういうものを社会感情としてマクロに捉えたらどういう解釈ができるんだろうか。そう思うと、僕たちの世代は社会の細胞として自由を教育されすぎた、そのことに他ならかったりするんじゃないだろうか。


少子化と自由は相性が悪い、というのは誰でも容易に思いつくことだとは思う。3人子どもを生んだ家庭があっても、子供がいない家庭が2つくっつくだけで出生率は1になる。自由を大もとにした統計からは外れ値の存在を無に帰する暴力性を感じる。人間は誰しも違うといっても生物的には同一なのだから、洗脳を放棄して自由を教育すれば、それは当然あらかた予想のできる統計データしか生み出さない。それが今の日本社会での出生率1.3という"模範解答"なのだ。ではそれをもう少しましにしようと思うとして、それって、育児休暇とか、保育制度とか、はたしてそういうものが重要なファクターかといわれればそうではない気がしてならない。ではどこに目を向けるべきかと思えば、我々日本国民が出産ではなく流産を拒否するようになった原因ではなかろうか。出産後の環境だけで言えば、時代を踏むごとに改善されてはいる。それは事実だとしても、ここまで出生率が伸びない現実を前に、ではもっと育児環境の整備を、と考えるのは正しいのだろうか。もちろん、たとえばひろゆき氏が言うように「子ども家庭に1000万」みたいなことが実現すればそれで子どもを生みやすくなる人は確実にいるから出生率は伸びるんだろうけど、それでも1.6とかが天井ではないだろうか。少なくとも僕が生みたくない原因は1000万では解決されない。僕が恐れているのは、自分と同じような人生を子供に歩ませるのだとしたらそれは何としてでも防ぎたいという、思想相続の方の話なのだ。そちらの方が、反出生主義との議論との相性ははるかに良い気がしてならない。「お金がない!貧しい!子供ほしいのに!」みたいな世帯はそれでいいかもしれないが、僕たちのように、生むことの福利的な悪を論じてしまうようなタイプの人間には、思想相続が不可能であるリスクを取るということがどうも愚かなことに見えて仕方なく映っている、そのことを重要なファクターとして述べるほうが適切ではないか。


人間という生き物が他の生き物と最も異なるところは、文化相続によって快感を得られてしまうという点にある。自分が良かれと思ってしたことが誰かに喜ばれると嬉しく、そうして嬉しい思いをした経験を、言葉という媒体に載せてネットなどの電波で送信できる。人間とはまさに、性欲という遺伝子相続の欲を最小限に抑え込んだ代わりに文化相続の欲で繁栄することを選択した生き物であることは間違いない。だから人間はその食物連鎖の一つ上に「思想」という生き物を用意するのであり、思想に選ばれなかった人々、つまりマイノリティのような希少種から順に思想相続の不能により淘汰される。それが自殺として近代で現れているのだろう。我々にとって重要な課題は「自分の出す思想の手紙を受け取ってくれる人がいるかどうか」であり、では自分の子供にどのような人間像を求めるかといえば、人を助け、それにより誰にも愛される人間、だろう。子どもの孤独を願う親はいない。そう考えるとき、1990年の周辺で顕著であった出生率の低下は、子供を孤独から救う社会的な方法を見失ったことによる、これが一つの説明方法だったりするのではないだろうか。その「子供を孤独から救う社会的な方法」というものが、平成初期頃までは「我慢して続ければ報われる」的な考え方だったのではないか、と自分は考える。今の50~60代の時代の人間は、まさにそれで報われたのだろう。終身雇用がしっかりとしており、忍耐により職務をこなすことで結婚、マイホームやマイカー、そんなライフサイクルを着実にこなしていった世代のように自分には見える。しかしそれは平成中期には瓦解したように思う。忍耐は悪かのように叫ばれ、パワハラ、転職、さらには可能性の実現、そうした、自分がそこにいなかった場合の未知の選択肢を追求する曖昧なスローガンが打ち出された風潮は、自分の受けてきた教育を振り返っても「自由」「平和」「責任」そうした言葉と繋がるイメージと結びつくのに難くない。自由を教育され、世論からもそうしたことを幾度となく感じてきた我々の世代には、出産というものが、リスクでしかないように映ってしまう。我慢と忍耐でそのリスクをヘッジできる時代は跡形もないのだ。だから僕たち日本人は「○○のような家庭像」というような幸せのイデオロギーを追求して子どもを生むしかない。しかしそれが何とリスクのある行為なのかは歴史を学べば一目瞭然ではなかったか。米兵を殺して帰国した日本兵も戦争が終われば戦犯だし、幸せのイデオロギーが永続しないことを知識人は知っている。自分の子供が社会に淘汰されるような特性を持ったとき、その責任は親に降りかかる、それが今の日本では二次的な"流産"であるかのように捉えられているのではないだろうか。出生前診断なんかがまさにその例だと思う。技術の発達により、生まれるべき命と生まれないべき命を選別できるようにすらなった。我々は常に幸せのイデオロギーに背かない命を選別するのに必死すぎやしないか。そんな世で生めないよ。自分の子供が将来、世論に背を向かれる人間である責任を自分は取れない。それに終始するしかない苦しみはどこで消化すればよいのかを教えてほしいのだ。


だから例えばアフリカで見られる出産なんかは対照的なものだろう。あそこは出生率が5とかのレベルだけれど、僕たちからしたら相当不思議な感覚が伴うかもしれない。なぜそんなに貧しい暮らしを強要することが目に見えているのにそんなにポンポンと産み落とすのだろう、と。しかし日本との最も大きな違いは、労働者のほとんどが第一次産業の従事者であることなのだろう。そうした地域では子供の存在が最も手近な労働力になる。彼らは自分たちの生活を守るために、言い方を躊躇わなければ自らの手足として子どもを生んでいる。聞こえは悪いのかもしれないけれど、でもこれって実に健やかな出産ではないだろうか。親を助けるために生まれてきた。その役割が生来決まっており、もちろんそれが決まりすぎていることによる弊害は山ほどあるのだけど、僕だって、誰かを助けることを決められて生まれてきたのならどれだけ幸せだっただろうかみたいなことを考えてしまうことはたまにあるのだ。だからこそ日本なんかでは「親ガチャ」という表現が流行ったりするのではないだろうか。「親ガチャ」という表現はありながら「国ガチャ」とは誰も言わないように、子供は親が育てるものだという意識しかないからその親の「不規則性」を憂うしかないのである。アフリカみたいに誰を助けるみたいな役割が決まっていれば親に選ばれる運命を嘆く必要はそこまでない。しかし日本でそうならないのは、生まれたこと自体が「価値観の充足」という面が大きいのに加え、子供は親が育てるものと決まりきっているからに他ならない。アフリカではまさに、第一次産業の風土に生まれたという、国が子どもを生む社会だからこそ、日本人目線では「国土ガチャ」みたいなもののように映るはずだ。


ではこの少子化の現実をどうやって、みたいなことを考える気力はない、というのが正直なところではある。少子化を解決するべき課題として捉えていないのが自分の現状だし、むしろ自分の思想は緩やかに反出生主義の方面に傾いているから、今後もそんなことをブログに残しつつ現実世界ではひっそりと生きるのだろう、とも思う。ただ一つあるのは、短期的な策として考えるのなら、子どもを生むのを義務にするくらいしかないんじゃないか。子どもを生むのも生まないのも自由だからこその少子化なのだ。自由と言って何かを行う責任を親に押し付ける風潮を解決しない限り前には進まない。令和のなんとなくの生きずらさはそこにある。今の世界はまるで、黒ひげ危機一髪みたいなのだ。生まれる前に障害の診断ができるし、そうやって日常生活の支障をどんどんサイバーが取り除く。何もかもが便利になる。でも、だからこそ、剣を刺すのが余計怖くなるじゃん。昔までは黒ひげに直接剣を刺していたよ。でもその痛みあってこその人生だし、その痛みに耐えればいつか報われると教えてくれたわけだけれど、今は誰もそれを知らない。刺した剣で黒ひげが飛ばないことを祈りながらみんなが生きている。そして、運悪く飛ばしてしまった人を見た誰かが、この世がおかしいのだと叫んでいる。だからそれを見た誰かが、余計に剣を刺すのが怖くなる。その繰り返しじゃない、今の世って。だから出生率を上げるんだったら、「宙に舞う黒ひげ」という名の流産を最大限許容するしかない。その流産を政府や国がどれだけカバーするかではないですか、と思うのだ。出産より流産のカバー。育児休暇も保育制度も、その名にふさわしいだろうか。そんなものがないとしても、人々が平等に社会に自由と責任を差し渡しさえすればことは済んだりする、と歴史は言っている。技術を捨てろ、昭和に戻れ、それが答えだったりしないだろうか。でもそんなことが不可能とも誰もが知っているから、そんな世で、自分は、剣など持たずに暮らしたいのである。