坂口恭平氏の『精神病は存在しない』という言説について

僕が尊敬してやまない人の一人です。坂口恭平




彼はおそらく、いのちの電話と称して自らの電話番号をネットに公開し、自殺念慮のある人間の話を聞いている、そんな活動の人として有名だろう。彼自身が躁うつ病であることを公言しており、彼の毎日のツイートを見ていても、その気分の波、的なものがあるのだろうと察するに難くない。しかしそれでも彼の信念は「辛いことをやらない」というその一点だけにあるように思い、ツイートに公開される田舎の様子、さらにはキャンバスに描かれる美しい水彩画は、都会で揉まれる誰もがふと憧れてしまうような類のものだろう。


そんな彼がこうした発言をしたのは、結構思い切ったな、と思ったのが正直なところだった。彼の主張はつまるところ、「楽しいことだけしていれば病まないよね」というところに集約されるのだろう。楽しいことをしていないことが病めるあなたの原因なのに、それに何とか病、何とか病、と次々に名前を付けて、大事なことを見逃しているんじゃないの、というのはあまりに正しい。人は楽しいことだけをしていれば病まない。当たり前だ。しかしそれが正しさとしては受け入れられても善いこととして受け入れがたいのは、万人の娯楽は共存し得ず、複数人の娯楽は共同生活の中で誰かのために控えておくということが必要になるからである。その「控える」ということの大小の調節の難しさがまさに現代では精神病や神経症という形で表れているのに他ならない。


だからこの「精神病は存在しない」言説に関して、僕は、「ああ、頷いてしまいたい」というのが正直な感想なのである。君は楽しいことをしていないからそうなる、というのは凡そ崩しようのない理論だろうし、しかしその正しさはあまりに正しすぎるから困る、なんてことを思ったりした。


これには自分の経験があまりに絡むことだから、ちょっと話を横に飛ばして、その話でもしようか、と思う。僕はもう、大方、定職に就くのは諦めた。心の不調というのはあまりに突然のタイミングでやってくるし、それの予防的なモノも見つからない。だから日雇い的な仕事のほうが幾分も心の負担が少なくて済むわけだけれど、過去にやめた派遣の仕事(短期契約のもので、三か月くらいは同じところで働くことが求められた)だって電気コードを背中に貼った翌日にやむなく精神科に行ったら診断書を書いてくれたから辞められた、というところがある。じゃあ何で君はそこまで自分を追い詰めたの、と言われれば答えは一つで、「自分の今の状態を、分かりやすく他人が受け取れるような社会的な容器がなかったから」という理由に他ならなかったんだと思う。例えば僕が白血病にでもなっていれば、僕は堂々と「白血病です。休ませて」と言えるんだろうし、でも「心のストレスで、なんか世界がモノクロ映画みたいに感じられるんです」というのは、どうしても社会的に理解度が落ちる。理解度が落ちるというのは即ち「それ、自己責任では」という他者の視点が自分の中に内在化することに他ならない。そりゃしゃーない、と思ってくれるかどうかが、僕たちのようなメンタル雑魚には重要になってくるのだ。これを他の言葉で言い換えるのなら、自分の傷のどれだけを社会がともに引き受けてくれるか、みたいな話だったんじゃないだろうか。鬱を始めとする心身の不調というのは、だいたい、社会がその責任を取ってくれない病名なのではないだろうか。例えば地震のような自然災害をはじめ、さっき例に出したような白血病とかは、社会が責任を取ってくれるニュアンスを常に含む。共同体として人々が暮らす以上、致し方のないことに関してその事故を抱擁することで文明の発達が潤滑になることを人々は知っているから、未だに被災地のボランティアみたいなものは消えないわけだし、社会の誰かが動くことでその事故はカバーされていく。そうした社会の動力の根源って、蓋を開けてしまえば「それってしょうがないから助けてあげるよ」でしかなかったんじゃないか。生活習慣病なんかは良い例のように思う。酒とたばこと栄養価の偏りがすごい食事ばかりして、それで受ける医療って保険でいいの?みたいなことは数年前からやっているわけで、そうした「自己責任論の内在化」みたいなものがより顕著になるだろうこの先の時代で、僕たちのようなメンタル雑魚が、「それ仕方ないよ」という、自己責任論の議論から最も遠い所へ僕たちを連れて行ってくれる場所が「精神科」という場所に他ならない、僕の感覚からしてしまえばそうなのである。実際に自分の体のなかで何が起きているのかとか、セロトニンが足りてないとか、この薬は特薬だから本当に危険なときに飲んで、とか、そんなことが僕という命を考えるうえでやっぱり二の次になってしまっていた節は否めない。僕の命と明日からの生活において常に重要だったのは、自分のメンタル所作が「社会的な事故」として世論に愛されることだったんだよ。白血病と同じくらいしょうがないことだよって慰めてもらうこと。それさえ許してくれればどこの誰が精神科なんていくだろうかって話なのだ。抑うつ状態の診断書とかは、仕事避けのお札みたいにしか思っていなかった、蓋を開けてみれば。


それを坂口恭平が上記の言説で非難してくれるのは、本当にありがたい。もちろん仕事をやめるのに必要なら診断書とか貰わないといけないのかもしれないけど、でも、それより先に、楽しいことするのが先でしょう、と言ってくれる存在はまだまだ稀有だ。免罪符としてしか効用のない病院は本当に病院なのだろうか、というのは僕だって疑問に思う。坂口恭平が「人間以外の動物は自分で病院に行かない」と述べるのだってまさにその通りなのだ。でも、それでも、じゃあ精神病なんてありません、あなたが楽しいことやろう、精神科なんていくよりも前にね……と、そう言われることに100%の情でイエスといえないのは、坂口恭平の存在が社会の存在と同等ではないから、という事実に因る。一個人に自分のメンタルの諸悪の根源をどれだけ説かれ、実際にそれが真実だとしても、今も必死に自分のメンタルの無力さに悩む人々の最重要課題は「明日元気になること」ではなく「明日仕事をやめること」だからじゃないだろうか。例えば今の仕事で鬱になるくらい自分を追い込んでいて、坂口恭平の言葉に押されて自信の健康を考えて休職しようと考えた人がいたとする。この人が最も誰かに考えて欲しいのは、仕事をやめて楽しいことをすれば健康が戻るという事実ではなく、明日仕事を休むことを伝えて誰にどんな顔をされるか、そこで自分が本当に社会に受け入れられていなかったと突き付けられることへの恐怖の方だったのではないか。


僕たちは事実として「高速道路に乗ればもっと楽に目的地に着く」ということを知っている。しかしそれでも高速道路に乗ることを躊躇ってしまうのは、高速道路の入り口にどっしりと構える料金所で自分がどんな対価を要求されるのかを知らないという恐怖があるからなのだ。そこで払わせられる金銭は、「上司の嫌味な顔」かもしれないし、「同僚からの雑魚レッテル」かもしれないし、さらには「そんな自分が許せなく情けないという自己嫌悪」かもしれない。そこまでして、そんな自らを貶める対価を払ってまで高速道路に乗りたいか、と問うてしまうから常に我々は苦しいのだ。そしてそんな料金所を幾分かは楽に通る手段として診断書が存在した、その事実はそこにあるままだ。もちろん自分たちは、高速道路で坂口恭平のように手を振って待ってくれる人がいることを知っている。その道路からは今まで見たことのないような景色があることも知っている。しかしくどく述べるけど、孤独な現代人の悩みは常に、料金所を手をつないでともに通ってくれる人がいないこと、そのことだけだったのだ。そんな事実を目の前にして、高速道路にいる側の人間から「診断書なんていう料金所通過パスをもらいにいく必要なんてないよ」と言ってしまうことの僅かな暴力性に怯む、正直なところ心の一部としてそんなものを僕は抱えてしまうのである。


だから今の自分だってそんなところ、なのだ。定職に就かないということがこれからどんどん肩身の狭い立ち位置になることは間違いないのだけれど、でもそれでも、定職に就いてしまい、様々な保険を自動的にかけられ、集団の一部としての生活を余儀なくされる生活が続いてしまえば、ただただ高価な要求をしてくる料金所の作成をすることにしか繋がらないと分かったからこその自分の収入源としての日切りの仕事、だったりする。そんな日々に絶望してもいるから、その絶望の端くれをこうしてブログに書き続けなければならないし、そうしたことで呼吸を続ける生き方を、ではどうやって愛していったらいいの、みたいなことを考える時間として20代を費やしている感覚はある。


坂口恭平氏の言うとおり、精神病なんてないと考えるのは一つの手だ。医師資格を持っている人たちからは賛否の声は出るだろうし、そうした考え方こそが、本当に"遺伝子的"に精神病に悩む人々をふるいにかけなければならない思考であるという一面もあるだろう。しかしそれでも、坂口恭平の考え方は世論そのものではない。君が楽しいことしたらいいんだ、悪いのは君じゃない、という世論こそが坂口恭平の目指す社会という高速道路の料金所そのものになってくれればいいわけだが、そんな時代が来る気は今のところしないし、むしろそんな料金所ができたところで、忍耐と鍛錬で強くなった社会のメリットを剥奪するわけでもあるのだから、素直に頷いてはいけないのも事実だ。パソコンに向かい合う医師の話を淡々と聞き、処方箋を出されて服薬するだけの無機質な生活にいくら嫌気がさしても、そんな単調で無意味なものを社会に残しておかないといけない側面もあることが、厄介な世界が作り出される諸悪の原因という、そんな儚い現実だけが残されるだけなのだが。