『明け方の若者たち』から見る、社会の中間集団の解体について

優れた作品にまた出会ってしまったらしい。


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若者の「マジックアワー」として、カツセマサヒコさんが書き下ろした小説の実写化で、原作は読んでいないのだけれど、AmazonPrimeで配信されていたのをきっかけに見た。これってあれじゃん、と思う。『明け方の若者』を描いているようでいて、実は『若者の明け方』を描いているんだろうなあ、と、そんなふうに見えてしまった。そしてそれが、あのときの悶え苦しんだ時間が「明け方」だったのだと気がつくのは空が相当明るくなってからなんだろうし、それを実際に肌で感じ取ったからこそカツセさんはこういう話が書けるのだろう。


感じたことが山ほどあるからどれから書いていいのか分からないのだけれど、やはり一番に書くべきは、2000年代初頭の、職務の意識に対する無秩序性だったのではないか、と考えてしまった。秩序があると思えば秩序がなく、秩序がないと思えば秩序がある、そんなあまりに細い平均台を必死にバランスをとりながら歩かされた時代背景が垣間見えてしまったのだ。いわゆる「サラリーマン」という立場の意味合いが変わってきたのは1990年周辺ではないかと思う。70 年代頃までは、仕事や会社のために私生活や家庭を顧みず、ひたすら仕事に打ち込む仕事人間が男性の美徳とされていたように思うが、80 年代に入ると、それが疑問視され始める。例えば会社中心の生き方に対して否定的なニュアンスを含む「会社人間」という言葉が広まるようになったのもこの頃だ。社畜という表現が流行り出したのもこの頃とみて間違いない。そのあたりの時代を皮切りに、成人はサラリーマンを積極的に選択するものではなく消極的に選択するものと捉えだす。人が会社を飼うのではなく、会社が人を飼うようになった。なぜかといえば、会社が社会の中間集団としての機能を失ったからに他ならない。両親のいる家に帰れば安心してしまうように、平成生まれの我々でも想像できる集団への配属欲求を、会社が時代的に満たさなくなった。美徳としての労働を失った代わりに何が残ったかといえば、自己実現などという曖昧な個人主義の内面化を促進する甘美なスローガンだけであり、手段としての労働が、充足としての労働へと形を変えてしまった。『明け方の若者たち』はまさにそういう話なんじゃないだろうか。主人公は凡そ1990年生まれだろうと思うけれど、これまでのことを踏まえれば、主人公は、サラリーマンが社会的な灯台を見失った時代に生まれてきた子供であることを頭の片隅に置いておかないといけないわけだ。それをさらに主人公目線で主観的に咀嚼するのなら、自分が生まれてきた時には既に労働の美徳観が消えており、自己実現というものを積極的に上が求めてくるにもかかわらず、では上司が与えてくる仕事の中身は何かといえば、何の変哲もない無機質な労働を繰り返す日々であり、それがまさに「傾けてハンコを押せ」という上司の指示を北村匠海が理解できないシーンに現れている。そうした日々に埋没した主人公はいつしか他部署の労働者が指が千切れたとき興奮するようにまでなり、それがつまるところ、入社して見せつけられた数多の秩序への絶望の最中にさした光だったのかもしれない。幼少期から慣れ親しんだ教育観と、社会に出てからの労働観のギャップ、それはまさに、幼少期は同世代と絡む横のつながりが主なものであるのに対し、社会人の生活が世代の離れた人間とのコミュニケーションなしには成り立たない縦の繋がりを主成分にすることによる価値観のジェネレーションギャップそのものだ。こういうことを考えていると、1990年代後半に自殺率がぐんと上昇したのには不謹慎ながらも大きく首を振れてしまう。北村匠海が何回も告げる「こんなはずじゃなかった」という言葉こそがそれを不足なく表現してしまっているじゃないか。そういうものをなるべく視界の外に追いやるためには、冒頭のシーンのように「俺たちは勝ち組だ」と言い聞かす飲み会的なものが有効なんだろうけど、それはそれでやはりどこか現実に対して盲目というもので、見れば見るほど何もかも違う、そんな世代特有の地獄を覗かせてもらえたような気がしてならない。


そんな生活の中で、明日も同じように"カギカッコつきの社会人"として生きるために探した愛が、たまたま既婚者の女性だったところがこの話のミソなんだろうけど、今まで書いたような理論的な話を恋愛に当てはめるのはなんとなく野暮な気がするし、そういう話を書くほどの経験もないからそっちは放っておく。恋愛が文学と相性がいいのはやはり、文学が複雑なものを複雑なまま理解しようとする試みそのものだからなのだろうな、と思う。咀嚼して分かりやすく書く文章とはそもそも相性が悪いので。感情は感情で説明するのが一番だったりする。そういうのは挿入歌として引用されていた、きのこ帝国や奥田民生サンボマスターなんかが美しい声で歌ってくれているので。


さて少し話を戻すと、ではそうした「灯台を失った労働観」の中を、我々はどうサバイブしたらいいの、みたいなことを考えておかないといけないような気はする。僕は就職をしていないから自分の話として書くにはあまりに浅学なのだけれど、しかし時代の傾向としてその処理方法を心に持っておきたい欲はある。僕は世代で言えば、この映画の主人公の約10年後に生まれてきた世代だ。生まれてきた頃から「いじめ」的なものはメディアの大きな関心ごとだったし、目的があるのならその人を傷つけることもやむを得ない、的な価値観には触れさせられなかったのが自分たちの世代だ。例えばサッカーの試合をするにしても、相手チームに勝て、というような指導をされることはなく、あなたのベストを尽くしなさい、勝ち負けよりも大事なものがあるよ、という主旨の教育がほとんどだったと思う。過去に自分が勤めた派遣会社然り、大学を出て学生の身分を捨てた後の自分の労働環境を振り返っても、何が何でもノルマを達成しろ、みたいな昭和的な上司の方がむしろ希少種のように思う。それが自分が恵まれていると言ってしまえばそうだけれど、会社内でだって、ことあるごとにハラスメントを名付けられ加害者扱いされることへの恐怖、みたいな時代背景はあるんだろうなと思う。


だから僕たちが考えるべきは常に次の一点のみじゃないんだろうか。


ベストを尽くすってなんだよ、と。


俺がベストだって言ったらお前らはそれを信じてくれんのかよ、とか、こんなんじゃベストを尽くしたと申すには恥ずかしいとか、そうした相対的価値観に悩まされることの方が断然多くなってくるはずだ。「ベスト」という、千差万別であってしかるべきものを、共同体として行動する以上おおかたは統制しておかないといけないことで思想的に苦しむ人間があまりに増えすぎちゃったんじゃないの、と思えてしまうわけだ。マリオカートで少し先を走るゴーストが全然その速度を落とさなかったらそりゃあ絶望してくるよって話で、三周を走りきる、とか、そういう具体的な目標がどうでもよくなって、常に目の前の理想の自分を追いかけ続ける地獄に片足突っ込み始めたのが平成と令和の特徴だったりするんじゃないかな。それはこの先どんどん加速するとも思う。多様性とかそういう言葉ばかり耳には届くのに、蓋を開ければ現実は生まれと才能の出来レースだったりするわけだし。会社に勤めていれば安泰、働いていることが美しい、そんな50年くらい前までの強固な中間集団に所属していた世代がどんどん生きた化石になってしまうから、新しい時代を生きるパイオニア的な存在がまさに今の30歳くらいの年の人々なのだろう。


ではそうした時代を生きるヒトとして何を考えておけばいいの、と自分は思ったとき、自分が今出せる答えが一つだけあるように思う。それは、常に自分という実存が交換されうることへの諦念、じゃないだろうか。


ベストを尽くせという考え方は、あまりにこの価値観に対して寡黙である。というのも、ベストを尽くせということは即ちその存在がオンリーワンであることを主張するものであって、どこかのSMAPの曲みたいだけど、ナンバーワンになるために無能から有能へ人材を交換することを禁忌とする印象がある。だから我々は常に、自分という宇宙から見れば点のような存在が誰かにとって代替可能なものであるという事実を最も恐れているのではなかろうか。それに対し、いやそんなことはない、と真顔で反論することなどできない。カズレーザーが「アップル社はジョブズが消えてもなお進化している。ジョブズでも大丈夫ならそこのお前でもまあ大丈夫」みたいなことを言っていて、そういうことなのだ。どんな偉人であろうとも、少し珍しく稀有な役割を引き受けた凡人なのであり、それはもちろん僕たちの視座からは到底追いつかないような破格な人材に映るわけだけれど、しかしそれがいなかったらいなかったで、何とか補いつつも他の人間は生活を続ける。それが何万人もの精神に影響を与えるということはまずないし、ひとりの存在が消えたところで何年何人もその日常が破壊されることはまずない。その諦念だけはリアリストとして持っておくべきではなかろうか。働いていることが美徳、という思考停止の灯台を見失った以上、美徳でもないことをわざわざしているお前、という客観的な立場を埋め合わせるため、自分は他の誰にも代わられない人材だ!と思い込むことで救済されてきたのが我々ではなかったか。いや、資本主義そのものではなかったか。自己実現や唯一無二、至高体験、そうした言葉は全て資本主義の功利である。例えばYoutuberなんかが最たる例で、日々疲れた人が見てほっと息をつけるような、そんな自分だけの動画を作りたい、みたいなことで金を稼げるだなんて社会主義からしてみれば理解不能な世界だ。人々が金を払ってそれを手に入れたいと思うものを作り上げられればそれでいい、というのが今の世で言う美徳なのだから、そりゃあそこではナンバーワンよりオンリーワンが目指されてしかるべきだ。でもそんな理屈が、ごく普通の会社で働く秩序の中ではあまりに無意味だから困るのだ。だからその無意味さに絶望しておくフェーズが人生の中のどこかで絶対に必要じゃないですか、と思うわけだ。常に自分は代替可能なのだ、という諦念だけ持っておくこと。自分は誰にも代わられないと思って自信がつくのならそれでも全然いいと思うのだけれど、でも、その嘘の麻酔が切れたときには深い深い絶望が待ってるよ。心の隅まで自分がオンリーワンだと盲信して生きたってしょうもないんだ、それはそれで。


ここまで書いたけど、いやいや、と冷静なツッコミが入ることも分かっている。どうしてそんな絶望する事ばかり囁いてくるのだ、と。お前のやることは誰かが代わりにやる、そんな現実ばかり突き付けて誰が得をするんだと言われれば僕もそれにはかしこまるしかない。誰かがやることでも自分がやろうとするから偉いんだとか、そんな綺麗な上っ面で自分を塗装する気もない。自分のやることなんて誰でもいい、それはずっとそのままだよ、でも、だからこそ、その寄り道が美しくなったりするんじゃないの、とは思うからだ。もっと言えば、『明け方の若者たち』がそういうことを伝え続けていたんじゃないの、と思うからだ。映画中盤の、フジロックフェスの代わりの小旅行とかがまさにそうだったのではないか。常に社会の歯車として回り続ける日々を忘れられる日を何とか楽しむ、それしかないわけだし、せいぜい昔からの付き合いの友人とかと「朝日、昇ってくんなよ!」なんて叫びながら一緒に駆けまわって、その時間の捉え方をこの映画が教えてくれたような気はする。じゃあその「明け方」としてのハッピーアワーは、単なる労働の埋め合わせと悲観的に捉えるだけじゃなくて、そうしたハッピーアワーこそが、人々の生活を支える無機質な労働を可能にしてくれるのだ、と。万人の生活を支えるために今日もどこかで無機質に手を動かし続ける人々が誰しも持つハッピーアワーが、今まさに君が生きている頃の年代なんだよと、そう教えてもらえれば、若者としても嬉しかったりするんじゃないだろうか。僕は少なくともこの映画を見終えて嬉しく思った。絶望の合間の息継ぎの時間を与えてもらったような気はしたのだ。

僕らに足りないのはいつだって 才能じゃなくて愛情なんだけどな

僕らは美しい

明日もヒトでいれるために愛を探す

明日もヒトで入れるために愛を集めてる


ヤングアダルト』マカロニえんぴつ


もちろんまだまだ若造の僕に、今のその時期が明け方なのだと言われてもピンとこないし、きっと義務感に駆られてこれを書いている翌日にでもなればしょうもないと思えてしまうくらいのことだけれど、でもそうしたことが案外重要なことである我々の生活自体は、心のどこかで愛しておければ良いんじゃないかな。そんなことを思ったわけだ。



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