『さよなら絵梨』から見るドラマツルギーについて

すごい漫画を紹介してもらったので紹介する。


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ジャンプラから出ている『さよなら絵梨』というマンガ。主人公の優太が撮る動画のコマを基本に進む構成だが、何と言ってもこの作品の特徴は、読者視点の設定を常に揺さぶってくるという点にあると思う。それが現実だと思ったら実は優太の撮っていた撮影のワンシーンでした、みたいなことを何回も何回も繰り返し、キャラクターの台詞なんかが本心の言葉なのかそれとも演技なのか、その確信が徐々に朧げになりながらでないと読み進められないこの作品から感じるのは、「あのね、お前らの見てる世界ってさ」という、少し不気味な含意なのである。


ジャンプラ発祥のマンガとして最近有名になっている『タコピーの原罪』についても、同じようなことが言えたのではないかと思う。主人公のしずかちゃんはいじめられていて自殺を考えるが、宇宙から来たタコピーの辞書ではいじめを解読できないため、とりあえずしずかちゃんが悲しんでいるという理由で宇宙から持ってきた秘密道具を使ってしずかちゃんを助けようとするわけだが、しずかちゃんの首吊りの道具を貸してしまったり、しずかちゃんのいじめ主犯格を殺してから蘇生させてややこしくさせてしまったりと、ことは全て悪い方向に進む。まさにあれは『暗黒版のドラえもん』みたいなもので、あの作品から自分が感じ取ったのは、「幸の世界」から「不幸の世界」は解読できないという、一種の諦念のようなものではなかったかと思う。そんな話にハッピーエンドはない。いや、ハッピーかアンハッピーかの境界線を撤去してくる、と言った方が適切かもしれない。僕たちが常に信じている善意というものが、まさにその受け取り手にとってはタコピーのような疑似的な"宇宙人"となっていることを疑わずしてあの作品を読み進めることはもはや不可能なのである。


しかし『タコピーの原罪』においてまだ幸いだったのは、被害者立場の人間への無頓着さを「宇宙人」として第三者的に描いたことだったのではないか。その立場を、我々読者自身にしてしまったのがこの『さよなら絵梨』だったりする。僕たちはそれが現実世界なのか架空世界なのか分からない設定で読み進め、読者自身がタコピーのように優太に何かしてやりたいと思いながらも、それが現実なのか優太の演技なのか分からないから、そもそも何をしてやればいいのかすら分からない。そういう雲隠れした感情を抱えないといけないのだ。そこでまさに自分が感じ取ったのが、ああこれは、ドラマツルギーの話なんだろうな、ということだった。


ドラマツルギーというのは確かゴフマンだったかの社会学者の言葉で、直訳するのなら社会的演技、という言葉になる。僕のような浅学な人間が説明しても何のメリットもないから、魂を売ってwikiから引用したのが次である。

ドラマツルギーパースペクティブ(演劇的観察法)とは、人間の行動の原因ではなく行動の文脈を調査するもので、他の社会学の理論から分かれたいくつかの社会学の方法論の中の1つである。
(略)
 ドラマツルギーのモデルの中で、それが劇場公演の一部であるかのように、社会的相互作用は分析される。人々は、パフォーマンスを通して彼らの個人的な特徴と彼らの意図を他人に伝えなければならない俳優である。ステージ上のように、特定の印象を他者に与えるために、人々は日常生活において舞台装置、服装、言葉、および非言語行動を支配する。オーディエンスが誰もいない時に、人々は「舞台裏」行動に従事する。例えば、レストランの給仕人は、顧客の前で一定の仕方で振る舞っているようであるが、キッチンではもっとずっとカジュアルなのかもしれない。顧客の前で見苦しくみえるようなことを彼らがキッチンでするということもありうることである。
 他者との相互作用の前に、人は個人が成りたいと思う典型的な役割または印象のほかにも、もう一つ別にそれを準備する。劇場ではこれらの役割は「役柄破り」 ("Breaking Character") と呼ばれるものに属し、それを見ることを想定していない何者かによってパフォーマンスが遮られてしまう舞台裏では、都合の悪い邪魔が起こるかもしれない。
 さらに、パフォーマンスのとるべき筋道を決めるにあたって、オーディエンスの方もいくつかの個人的パフォーマンスのために一定の役回りをどのように演じるのかという様々な手本がある(つまり、たとえ誰かが話す時につまずいたり暴言を吐くようなことをしても、そんな想定外な多くのパフォーマンスの欠陥を、我々はいかに典型的に無視しているのかというような)。
 ゴッフマンは、彼の著作の『日常生活における自己呈示』で、社会心理学社会学の用語中に「ドラマツルギー」を初めて導入した。この本は、俳優が役柄を描写するのと類似した方法で私達が日常生活でパフォーマンスに従事している多くの相互作用について探究している。


簡単に要約するのであれば、我々の行動はすべて、教室や職場といった用意された舞台の上での役柄保持のための演技であるという分析ができるという話なのだ。それを日本語では「役柄」と翻訳されるわけだけれど、この訳は実に秀逸だったと思う。それは「役割」とは似て非なるものなのだ。思えば自分が自殺研究について最も力を入れたのもそこだった、と振り返られる。「その人は○○を担う人間だった」という役割的、かつ原因的な考え方を極力排除し、「その人は○○を担うことが、その環境(舞台)上における最も整合性の高い演技方法だった」という視点で分析することにこそゴフマンの真意は隠れている。例えば、戦時の自殺率の圧倒的低下を説明するにあたり、「日本人が米兵を殺す手段を担った」と役割的に考えるのではなく「米兵を殺すという社会的演技がその時代の聴衆(世論)を最も焚きつけられた」と考えることで、その演技の難易を語ることで分析した方がより正確なものになるということでもある。役割の喪失に対して人は直接苦しまない、人が最も苦しむのは舞台上に引き出されたにもかかわらずその配役がないことなのだ、というのがゴフマンの主張だった。90年代後半に離婚率が上昇して男性の自殺率が増えて女性の自殺率が低下したデータがあるが、あれも、役割的に捉えて「異性パートナーを失ったから」なんて言ってみても真実は見えてこず、離婚により独身という負の演技を手に入れたのが男性で(今はそうでもないように思うが、『結婚できない男』というドラマがあったように、独身は負のレッテルが張られる時代にあった)、離婚により父長性の家庭モデルから逃げ出し社会進出するという正の演技を手に入れたのが女性だったのだ。


さてこんなところを長々と話しても仕方ないので話を戻すと、『さよなら絵梨』において重要だったのは、それが「優太の撮影するシーン」なのかそれとも「現実の話なのか」というその境目を撤去してきたことだったわけだけれど、それはつまり、実は蓋を開ければこの世の全てが映画のワンシーンなんじゃないの、というメッセージだったりするんじゃないだろうか。僕たちは常に他人の顔色を窺い、建前を使い分けることを強要され、そんな生活の中で謳われる自由は、神の作った地球という映画の中の創作物に過ぎない、みたいなことを感じたのだ。母が闘病生活を送る病院を爆破する設定にした優太は同級生から叩かれるし、でも、それが映画だと分かってホッとする読者がいるわけだ。でもそれにホッとしてるお前って何なの?という視点も同時にこの作品は押し付けてくる。それが演技だと分かってほっとしているようだけど、じゃあ現実世界、どこまでが演技か考えたことあんの?的な。それを淡々と繰り返してくるのだ。そのうちに読者は演技と演技でないものの区別を見間違う。だからこそ、最後に、絵梨がいた建物を爆破するコマでこの漫画が閉じられるのはある意味"よかった"わけだ。僕たちはこの漫画を読み終えるころには、それが演技なのかそうでないのかという議論とは別の何かを心に抱えている。それは何というか、もうそんなこと言ったら我々の生活も全部演技なんだしさ、みたいな、演技とそうでないものを区別する探究心の喪失感、なのだ。


だから中でも自分が最も「そこだ」と思ったのは以下のシーンだ。



絵梨と優太の父の会話を優太が撮影するシーンだ(絵梨と父の顔が手ブレしているので撮影シーンとみて良いと思われる)。ここで絵梨が言及しているのは「母の闘病を爆破シーンで終わらせた映画」なのだけれど、それに対して父が「作り手も傷つくのがフェアだ」と述べるのは、決して「息子の映画に対しての感想は是非両面を受け入れよう」的な小さい話ではないんじゃないか。自分たちは常に社会的に演技(ドラマツルギー)しており、その演技は全部が創作物であり、その創作物こそ誰かを踏み台にしてじゃないと成り立たないんじゃなかったの、ということを暗に言っているような気がしてならないのだ。それを受け入れるということが即ち、作品冒頭で母の病院が爆破されるシーンを見るときと最終ページで絵梨の建物が爆破されるシーンを見るときの心情の違い、を説明したはずだ。それはまさに、読者自身が、常に他人の行動を演技として観察したときに見える世界の違いというものを知るということに他ならないのである。そして儚くも、それこそが現実なのだと教えられたことにも等しいのである。