人の好みを判断するうえでの「麻酔コンテンツ」と「覚醒コンテンツ」

人からもらった造語なのだけれど、「麻酔コンテンツ」と「覚醒コンテンツ」というのは面白いコンテンツ分類だなあと思って、そのことをぼんやりと書いてみたいなあ、と思った。


ちょっとしたエピソードから話すと、いつしかの記事で紹介した、バイトの後輩のA、と話していたときなのだけれど*1、傷跡が残り赤くなった手首をそっと見せてくれたことがあって、そのときに自分はこう告げた。「あんま自分は自分の体を傷つけたことがないから分かんないけど」と。そしたら、そのAに「は?」みたいな顔をされた。いやいや、あなたもそうでしょ、みたいな顔をしてた。確かに、言われると本当にそうで、自分も過去には本気で死にたいと思ったことがあったって話は以前にしていたから、しかも、それを実行する手段まで考え最も後遺症の残らない自殺方法の結論まで出して実践したわけだから、そんな人間に「僕は自分のことを傷つけたことがない」みたいなことを言われたのは、さぞかし意外で、意味すら分からなかったのだろう。


自分ですら自分に驚いたくらいだ。僕はあのとき、自分を傷つけるという意識ではなかったことが浮き彫りになったことは違いない。これこそ、麻酔型と覚醒型の違いだったのではないだろうか。


Aでいうところのリストカット的な行為は、自らの肉体を傷つける行為でありながら、その自らの肉体の破滅を一切願っていない。むしろその逆で、自らの肉体を傷つけ、流れる血液を視覚することの代償として一時的な心理の安寧を得る行為に他ならない。痛みを感じているという点で麻酔という言葉のイメージとはかけ離れるが、しかし、何もせずに生きるということがあまりに辛く、その辛さを和らげるための自傷と考えればその自傷は麻酔的な役割を持っている。それは言い換えれば即ち、自らの肉体を傷つけることを手段として利用しているということでもある。自傷を代償に得るものがあるのだ。それに比べると自分の行為はそうではないことに気がつく。自分はまさに、自分の肉体の破滅を願った。自分にとっての至上命題はいつだって「何時も理不尽な不幸に襲われる可能性があるにもかかわらず、それを今のうちに消し去ることをどうしてするべきではないのか」という一点に尽きていたように思う。だからこそ、今死んでおけばこの先の不幸はなくなるという、誰にも覆せるはずのないあまりに合理的な理屈に吸い込まれそうな瞬間が自分には何度もある、というようなことはこのブログでも何回も述べてきた。即ち自分にとって、自傷は目的だった。自傷するということで何も得られることなどないのだから。得られることがないというか、何かを得る主体がいない。苦しみも喜びも何もない「無」の世界へと飛び込むこと自体が、全ての最終ゴールだったのだ。


僕たちの周りには常に、生と死という観点が付きまとう。なぜなら、生きている者は必ずどこかで生まれており、そしてどこかで必ず死ぬ。当たり前だ。そして、その捉え方というものが千差万別であることも同様である。人生というレースを、どこかで感じる痛みに麻酔を打つことで通り抜けようとするか、痛みを感じることなど当たり前なのだから積極的に痛みを感じたうえでその痛みを分析して結論を出すか。その違いこそが麻酔型と覚醒型の違いであるように思う。僕は断然として後者なのだ。


この二者はおおよその場合、睨み合うことの方が多いのではないかというのも、何とも悲しい一つの事実である。ちょっとわかりやすいように例え話をする。まず、人生は50メートル歩いてから崖から落ちることだと定義してみる。しかしその50メートルの距離を辿り着くまでの間に、いくつか不定期に落とし穴というものがある。そこから落ちるとゲームオーバーだ。そんなものを人生と定義したとき、人々が何に夢中になるのかというのは文化や性格によってまるっきり変わってくる。落とし穴がありそうなところを避けてくれる探知機とかはそりゃあ売れるだろうし(それが現実世界で言う医療的なものだろう)、あとは、どれだけ美しく50メートルを歩いて周りに褒められるか、みたいなところも重要になりそうだ(現実世界で言うファッション的なものだろうか)。しかしこれらはどれだけ突き詰めても麻酔でしかないことを誰もが知っている。おニューの靴をおろしたぜ、イエーイ!みたいな状態で踏み出した一歩目にすぐ落とし穴があったりする。でもそんなことは考えたくないので基本的に考えない。落とし穴がないことに賭けて生きているという感覚の方が近いだろうか。しかし不幸なことに、崖までまだ40メートルくらい残した状態で落とし穴に落ちてしまう人がいる。いや、一番に不幸なのは、落とし穴に落ちた人間を横目にただ指をくわえて見るしかなかった人、かもしれない。その瞬間、覚醒、という表現はオーバーであるにしても、それに近しい状態を生むのではないか。だって、落とし穴は誰にも平等に不覚にやってくる。そして運よく落とし穴を避けたとしてもどうせみんな崖から落ちる。それなのに、たった今、目の前の落とし穴を避けることや、または崖までおしゃれして歩いたって、それ何の意味があるんですか、そう思う人がいても全然不思議なことではないはずだ。どうせ誰しも奈落の谷に落ちることは避けられないのなら、既に開いている落とし穴の形を研究して、それを表現し続けることが生きがいになるということがまさに覚醒型のライフになるのだ。しかし麻酔型からすればどうも阿保なことに思える、というのも一理ある。どうせ落ちるからこそ落ちるまでの人生を謳歌するのであり、落ちるときのことは落ちそうになってから考えればいいのに、と覚醒型をやや批評する一方、覚醒型は覚醒型で、誰にもやってくる墜落という事実から目を背けて一時の痛みから逃れるだけの生き方なんて薄っぺらい、そう考えてしまうのだ。


そしてこの話は、朝井リョウが既に著書『正欲』*2で書いてくださっているのである。










(新潮社より引用試し読み | 朝井リョウ 『正欲』 | 新潮社


町のあらゆる情報が、「明日死なないこと」という海につながる河川だと書かれているのがまさにそういうことなのだ。町の情報はそのほとんどが明日死ぬ可能性を徹底的に排除するための麻酔であり、そうした情報の中に埋もれて生きれば生きるほど「明日死なないこと」を目標にしていることに無自覚になっていく。ちなみに当書においてこの文章は、佐々木という水に興奮する性癖の持ち主の男が書いた手紙の一節であり、佐々木と夏月という「覚醒型」の二人が出会ったことで「生きることに希望を持ちたい」と思い始めるシーン然り、八重子と大也という、「麻酔型」と「覚醒型」の邂逅による舌戦のシーン然り、自分たちが今まで当たり前のように目標にしていた「明日死なないこと」の屍的な存在を見せつけられる場面には思わずのめり込んでしまう。


さて、『正欲』を話し出すときりがないしこれ以上書くとネタバレにもなるから避けておくが、日本人の分類というものは何ともアバウトできまりが悪いのだろうと思うことは良くある。それこそ昨今の社会問題は、マジョリティマイノリティ議論に終始している節があるように思うし、ではそれがどのような意味を持つのかと言えば、蓋を開ければ何も意味のない同調圧力だったりする。そんな風情のなかで、「我々は麻酔で生きるのか、覚醒して生きるのか」と捉えなおす視点ができたことは面白い発想だと思う。こういう引き出しを増やすということこそが読書の価値なのだ。我々は常に、誰々に賛成して誰々が嫌いで、ということを多く考えるが、一歩引いて対立構造として捉えることこそに啓蒙の意味はある。もちろん、カメラを天上に上げれば上げるほど自分の存在が小さくなり、生きていることへの無力感を覚えさせるという点でまた別種の地獄があるわけだが、しかし、覚醒型の生き方に見合う自分には、そうしたものと戦いながら儚くもいつか死ぬのだろうという、それは高揚でも意欲でもなく、ただ苦い納得のみがそこにあるような気はしてならない。