差別を肯定するべき人間と、差別を否定するべき神について

人間とは差別を否定するべき存在である、というのは現代の傾向として凡そ間違いのない考え方ではあるのだと思う。しかし最近の社会運動的な何かを見ていると、どうもそうではないよなあ、という気がしてならないのである。


そう思う一番の原因として、人間(そう一括りにしても過激派の一部に限るが)が「差別をするな」と声高に叫ぶこと自体が差別になり兼ねない状況がどうも増えてきているように感じられてならないから、というものが挙げられると思う。昨今のニュースで言えば、『月曜日のたわわ』に始まり*1吉野家の「生娘シャブ漬け戦略」発言や*2、あとは、山手線の恵比寿駅で「不快だから」という理由でロシア語の通訳案内が撤去された件*3も記憶に新しい。


これらはどうも、「差別をするな」という容器に入れられた新種の差別のように思えてならない。もちろん、たわわの広告を見れば明らかな女性性の消費は分かるわけだし、シャブ漬け戦略という言葉が人権的な思想からは受け入れがたいのも理解できるし、ロシア語が……(これはよう分からん)。


しかし当然考えなければならないのは、「不快だからそれを消せ」という代わりに、ではそれのおかげで今まで享楽を与えられれてきた人間の娯楽は誰が埋めるのか、という話になってくる。例えばアパルトヘイトを例に出すと、黒人であるというだけで処遇に差が出るのはおかしいと訴え、黒人を差別してきた人間の享楽というのは「そもそも存在するべきではなかった」という結論に落ち着くわけだ。しかし月曜日のたわわのように、仕事に忙殺されたサラリーマンが女性のグラマラス表現で少し息をつく、という享楽が「そもそも存在するべきでなかった」という結論に向かうのであれば、そっちのほうこそアパルトヘイト的な差別ではないだろうか。元来人間は人間なのであり、女性の性的表現に一切反応するな、みたいなところまで行くと、それはもはや相手を人間とした扱わない類の議論が始まるだけにしか思えず、見ていて愉快なものではない。


相手の表現の余白を奪い取るということは、自分の表現の余白を奪い取られる社会になっていくということに他ならない。僕たちは常に何かを申すことで誰かを虐げ、しかし誰かを虐げなければ楽しませてあげられない誰かのために生きている。我々は差別をしていけないと教育されてきたのかどうか知らないが、我々は徹底的に差別をしていくべき生き物なのである。恋愛というものがまさにそうなのではなかったか。「恋愛」という市場は、簡約して言ってしまえば、「私の気に入った異性だけ特別な処遇を施す」という宣言に他ならない。我々の軌範ではどうやら、異性に対して交際したいと宣言をし、その宣言をしていない相手をその気にさせる行動はタブーとされ、宣言をしたからには、その異性以外を愛さないことを誓う。差別の完全撤廃を謳うならまずこの恋愛という仕組み自体から疑ってかからないといけないわけだが、そんなことを訴える人間がいないのは、「我々が差別をしていないから」ではなく「差別は差別でも許容されるべきものとされないものがあるから」に他ならない。もちろん恋愛においても所謂「あてがえ論」的なものはあるわけだけれど、でもそれはどうしても現実的ではない。異性を好むうえで重要な容姿には遺伝的要素が多く含まれることからも、はっきり言って恋愛にはアパルトヘイトに準ずるくらいの重みがあると言ってもいいのかもしれない。しかし我々はそんなことを思わない。


そう考えると、月曜日のたわわを宣伝する広告が街中に現れることも、それを阻止するべきだと糾弾するのも、どちらも差別であることには他ならない。しかし昨今の議論は「女性を性的に描くこと自体が女性への差別だ」という論点に終始するように自分には見えていて、それはあまりに筋違いな論点ではないか。僕たちが議論するべきだったのは「サラリーマンの息抜き方法を提案したい(しかし代わりに不快な思いをする女性もいる)」という種類の差別Aと、「女性の不快感情をなるべく取り除きたい(しかし代わりに、女子高校生の性的描写で息をつくサラリーマンには社会の表に出てこないでもらっていいですか)」という種類の差別B、この二つの差別としての妥当性なのではなかったか。はっきり意見を申すと、広告を出すのも取り下げるのも、両者がれっきとした差別なのである。誰かを愉快にする代わりに誰かを不愉快にするよね、という、しかしそれでも元気にしたい誰かがいるんです許してください、という土台のもとにしか表現というのは成立しない。だからいい加減、「それは差別だ」「それは差別ではない」と投げかけ合うだけの船からは降りたらどうだろうか。僕たちはあまりに、自分が普段から差別をしていることに無頓着だから、他人の差別が気になって仕方ないんじゃなかろうか。


ではここで一応、その差別間の議論における持論を書いておくと、自分は、上の議論で言うのであれば差別Bよりも差別Aを推す。なぜかと言えば、主に二つの点からそう言えるからだ。一つ目は、特性に対しての否定的意見をAは含まないがBは含む、という点にある。Aは、決して、胸の大きい女性は社会の表に立ってくるな、とか、胸の大きい女性はそれくらいしか取り柄のない人間だ、的なメッセージを一切含まない。しかしBは、若い女性の性的表現が息休めになる男性への否定的メッセージを含んでしまう。例えどれだけ仕方ないとしても、「社会の表に出てくるな」というメッセージが含まれてしまう以上、堂々と自己開示できない事がらへの社会的レッテルはついて回る。二つ目は、そもそもAの被害者は非実存だから、というところだ。これが一番大きい。極論を言ってしまえば、若い女性で満たされたいのならそこらにいる女性を片っ端から襲えばいい。しかしそうした「実存的存在」を無差別に傷つけるということはできない、という前提をもとに紙面での表現で落ち着いたのではないか。紙面に男性の理想的なボディを描き、それで勝手に楽しむということが否定されてしまうのはやはり乱暴なのである。では、そうした表現物がなくなったとき、その欲の向かい先は実存の女性であるあなた方たちかもしれないのだ、ということに目を瞑っていないだろうか。創作者側の「あなたたちを傷つけないために我々はマンガで発散しているんですが……」という意見を、Bは完全に無視している。


と、ここで、差別間の議論は終えておくけれど、しかしどうしても厄介なのは、こうした意見はいかなるものも、個人の感想の範疇を出ないということにある。これがあまりに厄介すぎると思うのだ。


今まで書いたことって、まとめてしまえば「良い差別と悪い差別がある」というだけで、ではこの良い悪いは誰が決めるの、という話になってくるからだ。それが今では世論になってしまっているから余計ことが厄介なのである。例えば園子温の話を先日したけれど*4、あれだって、「能力のない若い女優を体を提供させる代わりに起用する」という差別として糾弾されたから話題になった。しかし、「モテ能力のないいい年の男性を、金を提供させる代わりに若い女性をつける」という援助交際は差別として糾弾されない。それこそまさにいい例で、今の世論的には、前者は悪い差別で後者は良い差別になってしまっているということではないか。もちろん援助交際を良い差別と表現するのは明らかに過大表現だけれど、しかし、「世論が見向きもしない差別は肯定されたと同様の意味を持つ」ということは事実なんじゃないだろうか。しかも日本は世論に弱い。弱すぎる。周りと同じことがアイデンティティになっているから、恥の意識で統制されてきた国民にはこの特徴がより際立ってしまう。


願わくば、良い差別と悪い差別というものは、ある程度の社会的常識を備えた神に決めてもらいたい。僕たちが徹底的に差別をして、その差別の類を"ゼンアク=キメール"みたいな名前の神に選別してもらうのだ。それはだめ、それはいい、と。しかしその順序はずっと逆であり続けた。つまり、つい最近まで、神がずっと差別を肯定する側で、人間が差別を否定する側だったのだ。911もオウムも神の啓示が絡んでいることは間違いない。「お前が救済されるために誰かを殺せ」と囁き続けてきたのは間違いなく、神の側だった。しかし人間が団体としてそれを糾弾していく。その行為、おかしい、おかしい、と、積極的にバツ印をつけていった末に今の世ができあがっている。その結果、差別を肯定する神が殺され、差別を否定する人間だけがぽつりと生き残ったのが今なのである。だから我々は、差別をする神なんてどこにもいないにも関わらず、何かを差別として問題提起しなければならない状態のみを繰り返すのであり、謂わば「問題がないとこに問題を作る病」に侵されていく。その被害者がシャブ漬けでありロシア語であり、月曜日のたわわなのではないか。


僕たちは差別を繰り返す。それはまず当たり前の事実として、その良い悪いも、神がいない以上は人間がやらねばならないというのが、この二十一世紀特有の地獄形式なのではないかと思う。その差別の良い悪いを決めるのが人間というのはあまりに残酷な事実なのだけれど、しかし唯一の希望を見出すのであれば、そこにも一定のルールが見出せたはずである、ということだ。例えば小学校で、「お誕生日会に呼ぶ人を自分で選ぶ」のは良い差別だけど、「サッカーチームで一緒になった気に入らない子を省く」のは悪い差別、というような、言葉にはできないけど、そういうことだと思う。僕たちが常に隣り合わせる日本国民というのはほとんどが「サッカーチーム員」的な存在なのである。その隣人主義を博愛してやりさえできれば、少なくとも、たわわもロシア語もシャブ漬けも排除されずに済むのではないだろうか。少なくとも、たまたま生まれた星で隣に居合わせる人間から得られる不快感情を社会問題にすり替えることで発達する文明ほど息苦しいものはないと気がついていただきたいところではある。