『左ききのエレン』―才能を持たなかった全ての人たちへ―

マンガからこんなに高揚感を味わったのは久しぶりだ。タイトルは『左ききのエレン』。才能を持たぬ凡人である朝倉光一と、才能しかない自分に絶望しているエレン、その二者視点で描かれるクリエーター群像劇である。



この物語に強烈に惹かれるのは、創作を行うにあたって誰もが苦しみ藻掻くことを、謂わば「ジャンプ風」に、少年心をくすぶるようなタッチで描いてくるからだろう。ジャンプラをインストールすると初回だけは全部無料で読めるので、ぜひともおすすめしたい一作品だ。


さて、全19巻という決して短くはないボリュームの作品だが、その中でも特に印象に残る作風としては、一つ、月と太陽の描写、もう一つは、いうところの「27クラブ」に対しての執着、である。

クリエイターは太陽ではない


さて、いま僕たちが、才能を持つ者と持たざる者を、月と太陽になぞらえるのであればどちらを当てはめるだろうか。多くの人は、才能を持つ者と太陽を結び付けるに違いない。国民のほとんどの「才能を持たざる者」からすれば、ごくわずかの「才能を持つ者」は、自ら燦燦と光り輝く太陽であり、常に眩しい視線を向けられる。しかしそれとは逆転した描かれ方をしているところがこの作品の一つのミソなのである。


この作品において「才を持つ者」として描かれているのは、エレンであり、ジェイコブズであり、岸あかり、である。しかし彼/彼女は自ら光り輝くことができない人間として登場しており、例えばエレンがすぐに創作に意識が回って何も集中できないからバイトもすぐにクビになると嘆くシーンがまさにそうである。それでいて、同じく才能を持つ父が幼い頃に亡くなった事で、才能があったところで幸せにはなれないのだと自らに言い聞かせるエレンは、俗にいう幸福的な生活からは程遠い何かを送っている。そんな彼/彼女たちは太陽ではなく月と暗喩され、即ち、クリエイターとしてアクが強すぎるゆえに一般人の生活の中で光ることができない代わりに、冷静なリアリストが近くにいることでその才能が発揮されるという描かれ方をしているのである。朝倉光一のチームリーダーである神谷雄介が「照らされるのを待つな」「スターを照らす生き方だってあるんだよ」と言うように、クリエイターとして十分に戦ったならではの名言というものが実に刺さる。



27クラブとの共振


これは自分本位な感想なのだけれど、岸あかりというキャラクターに存分に引き込まれてしまった。岸あかりこそエレンが羨むほどの才の持ち主で、ファッションショーでエレンが思わず鼻血を垂らして手を伸ばすシーンは圧巻だったろう。その岸あかりの人生のポリシーというものが以下の1ショットに込められている。



岸あかりは「私は27で死にたい」と述べる。これは一般人からしてややも違和感がある表現なのではないだろうか。どちらかと言えば、やることをやりきってそうしたらもう若いうちに死んでしまいたいというのは、才を持たざる者の意見のように思うからだ。才能がないのなら、才能がないと自覚したまま余生を過ごす地獄から解放して欲しいというのが、一般的に考えられそうなことなのである。少し話はそれるが、27クラブ、という言葉があることはどれほど認知されているのだろうか。これは、27で死んだ何人もの才能あるミュージシャンをさす言葉であり、そこから、27で死ぬということが、逆説的に、才能を証明する意味を持つようになった。この作品内で岸あかりが27で死ぬと宣言するのも、この27クラブに影響されてのことではないかと思う。


そう思うと、岸あかりに対しての見方が少し変わってくるのである。岸あかりは、27を過ぎると才が消えていくことを知っている。ファッションという、自分の美貌を武器にしたものだからなおさらなのだろう。岸あかりにとって27で死ぬことは才能の証明なのである。才能を持たざる者が自分は何も持っていなかったのだと自覚しながら生活を送ることが地獄なのと同じように、才能を持つ者が自分の生まれながらに持っているものを徐々に剥奪されながら死んでいくということにも、同じくらいの重みの地獄が存在する。この作品を読んで、一般人はそれを知るんじゃないだろうか。決してスターをスターとして描くばかりがジャンプではないのだなと、思えば当たり前なんだけど、しかし喜劇としては忘れられがちな何かを思い出させてもらったような気持ちになったのである。

人生、27で死ねるならロックンロールは僕を救った
考えるのもやめだ! どうせ死ぬんだから

ヨルシカ『八月、某、月明かり』


僕は今23だからこそ、こうした境地に迫り向かう場面を生きている。就職せずに夢を追うだけの身分としては、こういう何気ない詩の歌詞が、妙に響いてしまうのだ。27クラブ。27で死ねるのだとしたら、それが本当に才能の証明なのだとしたらなんと栄誉なことだろうか。安泰を求めて仕事をするなんて、なんて面白みのない考え方だろうと思ってしまう節はやはりまだあるし、中途半端に生きて80歳まで生きながらえたところで、こんなに広い地球と宇宙の中で何の意味があろうか、とも思う。

君の全てに頷きたいんだ そんなの欺瞞と同じだ、エルマ


自分のことをクリエイターと名乗る気はない。そんな身分を名乗れるほどの才がないことは何となく分かっているし、小学校で神童的な扱いをされてきた割に、都内一の進学校に通ってもっと才を持つ者と出会ったことでその鼻は折れた。それでも、文章を書く以上に面白いことを見つけられる気はしない。どうせ誰も見向きもしないことは知っている。あと5.6年は続けるつもりだけれど、それでも、自分の書いた小説なんてどこかの新人賞の一次選考を運よく通過するくらいが関の山だろうと思う。では、27クラブと言われるその年齢を過ぎたとき、小さい頃から慣れ親しんだ、重松清にも、森絵都にも、綿矢りさにも、そのどれもになれなかった自分の余生に頷くことができるだろうかと聞かれれば、やはりどうも無理そうだ。それこそ本当に欺瞞でしかない。

最低だ 最低だ 笑われたって仕方がないわ 最低なんて語呂だけの歌詞だ


クリエイター気質で生きる自分というものが、安上がりの存在にも思えてくることもある。僕は本当に厭世しているのだろうか。厭世感があるなんて言っている自分は、まるで小説家の多くがそうであるからとでも言うように安っぽい言葉を使いたいだけなのではないだろうか。まさにそれこそ、語呂だけの歌詞なのかもしれない。しかし、今まで引用してきたヨルシカの『八月、某、月明かり』の歌詞は、こうも締められる。

君の人生は月明かりだ ありがちだなんて言わせるものか


それこそ、夜な夜な悪魔の声が囁くクリエイターはやはり月なのだろうか。僕は、今の自分を、何を作っても何を書いても赦されてしまうぶん、何を妥協しても何を投げ出しても赦される、そんな生活のように思うのだ。才能を持たない者がそんな狂気の世界に安直に飛び込み、そして、27クラブをこれから迎える身としては、左ききのエレンという作品が、クリエイターとしての教本以上の重みを持ってずっとそばにいてくれる気はするのである。



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