どうでもよいと思うのはどうでもよくないから。中庸から解脱したとき。

ちょうど自分の一個下の代が、この年から社会人になる代なのだけれど(浪人とか院進を除いて)、バイト先の一個下の女の子が、フリーター的立ち位置(そう呼ぶのが相応しいか分からないので濁した)の生活を送ることになったみたいだ。この時期はどうしても、普通に就職する人々ばかりが目に入って面白くないので、自分に近い傷と汚点を持ってそうな人を見ると、奇妙な親近感を抱いてちょっと嬉しかったりするのだけれど、この女の子(以下、A)の話を聞いてるとどうも呑気に喜んでいる場合でもない、ということは去年の秋くらいから知っていた。


Aは就活もちゃんとして、内定も出ていた。だけれど、そこからがきつかったらしい。宅建の資格を取ることを強制され(強制ではないが、取っておかないと社内で優遇できない、的な脅しがあったので実質そのようなもの)、内定が出た後も梅田の社内で何日も監禁されるように勉強していたらしい。しかしそれでも新年度までに資格を取る見込みが不透明であることをAも感じていたみたいだ。「どうしても宅建の資格はきつそうだ」と伝えると、「じゃあ君はいらないな」と、ポイッと捨てられたらしい。それが確か去年の秋頃だったと思う。一週間病んで寝込んだらしい。


それがいったいどれだけの心労になるのかということを僕はあまり想像ができないのだけれど、去年末くらいになるとAもシフトに復活してきて、来年どうするんだい、みたいな話になったときに教えてくれたのが、CAの学校に通う、ということだった。もともとAは外国語系の学校に通っていてCA希望だった。しかしこのコロナ渦でほとんど募集も限られてしまったから、とりあえず就職、というように考えていたというわけだ。それでもCAの採用を開始した会社も出てきたから、この一年はそっちの方に打ち込む、と。


Aの状況はこんなところにしておく。で、最近、Aとゆっくり話すことがあった。A視点では、大学を出て就職もしない僕が何をしているのか分からないところがあって、似た境遇の身として興味があったのだと思う。どんなことをしているのかとか、病んだときどうしたかとか、就職しないことをどう思いますか、とか、そんなことを色々と聞かれた。夜の鴨川で話した。もう自分なんてどうでもいいやと思ったときから吸っているというタバコの火が明るかった。


僕はバイト先の店長だったりあとは良くしてくれる常連さんだったりには自分のことを結構話していたから、この世で文章を書く以上に面白いことが見つけられそうにないと僕が思っていることとか、小説の新人賞応募を繰り返していることとか、自殺の話以外興味がないこととか、そんなことをちょくちょく話していた。でも、バイト同士のように若者間でそんな話をすることはなかったから、同じ世代に自分のことを話すというのはどうも難しかった。Aも大人経由で自分の話を聞いていたみたいだから、よかったらその小説を読みたいなんて言ってくれて、渡した。


さて、前置きはこんなところにしておいて、その子の話を聞いていて思ったことなのだけれど、本当に申し訳ないが、「ああ、中途半端だな」というその一点に尽きた。「本当にあのときつらくて」「○○さん(僕の名前)の話もちょっと聞いてたから、もしかしたら分かってくれるかなって」そんなことを言ってくれた後に放った次の言葉が、印象に残った。


「もうね、人生どうでもいいんですよ」


涙ながらに話すAをみて、本当に頑張ったのだな、と思った。頑張りに頑張り、頑張ったのだ。それでも、僕はAの言葉を信じられなかった。Aは本心から人生がどうでもいいなんて思っていない。それでも自分の人生を「どうでもいい色」で染め上げないといけないところまで来ているから厄介そうだと感じた。


どうでもいい、というのは、本来はストレスからの解放の象徴だったはずである。こだわりとプライドにより人間は自己の体に負荷をかける。その負荷が「どうでもいい」という言葉とともに消えるのだから、どうでもいいやと語るときにはその顔は晴れ晴れとしている方が相応しい。しかし現実そうではないことがほとんどじゃないか。テスト前の一夜漬けが間に合いそうもなく、もうどうでもいいやと赤点覚悟で睡眠を選んだときもその瞬間は気持ちがいいものだが、翌朝起きてだいたい後悔する。そしてそれにいちばん拍車をかけるのが、周りの同級生が頑張って記録した高得点、だったりする。僕たちは個人の尺度で測られる「どうでもいい」を、集団の尺度で測られる「どうでもいい」に適合させることが至って苦手な種なのではなかろうか。自分にとって数学の点数なんてどうでもいいが、クラス内での偏差値にそれが数字として現れるのはどうでもよくない、というように、真の意味で突き抜けた「どうでもいい」というものはほとんどこの世に存在しない。どうでもいい、という考え方はそれ自体に振り切ることのできない、常にアンビバレントな性質を抱える概念なのだ。


これは、アリストテレスがいうところの「中庸」的な考えからしたら好ましい状態なのかもしれない。つまり、どうでもいいと思いながらもどうでもよくないことを把握し、その心の両義性と矛盾性を受け入れるということ。これは人間の性質を愛しておく上で重要なマインドなのだけれど、しかし中庸を信仰しすぎるのだって同様の欠点がある。それは、自分の乗っているシーソーが、バランスをとることに必死すぎてしまうと、その質量とか長さとかいった基本情報に目もくれない状態を喚起してしまうということではないだろうか。


僕に語れることは自殺しかない。だからそれに準じて文章を書き進めるけれど、僕は一度、シーソーの端で指一本でしがみつくくらいのところまで体が落ちかけた経験のある人間である。それがちょうど去年の秋の自殺企図だったわけだけれど、感覚的に言うのなら、シーソーで落ちる痛みより自分で自分を刺す痛みの方が楽に感じる瞬間であったように思う。ちょっとシーソーのたとえが分かりにくいので崖に例えなおすけれど、例えば今あなたが崖っぷちで、あと一歩でも落ちれば奈落の谷に落ちるという状況下、目の前に、それを飲むと苦痛なしに楽に死ねる薬があったら、きっとそれを飲むのではないだろうか。崖の下には何がいるのか分からない。思ったより浅くて中途半端に生き残って悶え苦しむかもしれない。深かったら深かったでその痛みは計り知れない、だとしたら、崖から落ちると決まったわけではなくともその薬を飲んでおくことが一番の「セーフティー」な判断になったりする。そして僕は実際にその「セーフティー」を選んだことがある。もちろんそんな薬はないのだから、真の意味で「セーフティー」な救済方法はない。ただそのことは過去の記事で書いたので割愛する*1


だから中庸という考え方の一番に恐ろしいところは、その「セーフティー」がいかに「セーフティー」なのかという尺度にあまりに寡黙すぎるところなのではないか、と思うのだ。その崖から落ちて痛いのも嫌だし、かといって崖で踏ん張ったところで目の前の敵に何をされるか分からない。その状況下で、「崖から落ちるのも嫌だし、踏ん張るのもしんどい、その両義性を受け入れなさい」と説くのが中庸だとしたら、それは今にも崖から落ちそうな一人の人間に対しあまりに無力な言説ではなかろうか。かつて「飢えた子供に対して文学は有効か」と尋ねたサルトルの言葉は有名だが、まさにそういうことだ。両義性、矛盾性、中庸、そういったものは全ての均衡が整った状態で初めて議論されるべき問題だったはずだ。今のAがまさにそんな状況のように僕には思えてしまった。何度もくどいけれど、彼女だって本心から「どうでもいい」わけではない。本当にどうでもいいのなら、宅建に殺されようが、何者でもないフリータ―の時期の罪悪感に殺されようが、その善悪の判断を問わないはずである。それでもAには彼氏がいて、シングルの母がいて、そうした守る者がいる状態が、崖を踏ん張るAの足の力を振り絞っているはずだ。その踏ん張る力の根源がどう考えても「どうでもよくないこと」に起因する以上、この世の「どうでもよくないこと」を一つずつ片付ける筋力を持たないといけない。しかしその筋力だけでは崖の上の目の前の敵に立ち向かえそうにないから、せめて脳内だけでも楽にしてやらんと願った先に「自分なんてどうでもいい」と思うのだ。どうでもいいと思うのは、真の意味でどうでもよくないことを体がはっきりと認知していることによる、それが中庸を美意識として説きすぎた世界のなれの果てではないだろうか。


一応だけれど、中庸をそこまで批判したいわけではないことは断っておく。ただ、僕たちは「中庸の外側」というものを知っておかないといけないのではないか、というのが、今の自分の人生経験の限りで辛うじて出せる結論のように思う。Aはきっと、この経験をきっかけに中庸の外側を知ったのではないか。中庸の外側に無慈悲にも放り出され、どうでもよいと自分に言い聞かせたいのに現実は全くもってどうでもよくないから辛いのではないかと、そんな風に僕には見えてしまった。僕の話にしても、かつてこんな理不尽な世なら撤退したいと切に願い自殺に走ろうとした瞬間は間違いなく中庸からの解脱だった。では数か月後にそれを振り返ったとき、その経験が僕にもたらしたのは何だろうかと考えれば、「自分が本当に追い込まれたときにどのように死ぬべきかを知っている」という、「中庸の外側」に放り出された時の自己の行動パターンを知っている、という、とてつもない質量の安心感、なのだ。中庸というものが、崖とは縁のない平坦の地で生きるときにしか有用でない概念である以上、中庸では対応しきれない場面での自分の処理方法を知っておかないといけない。Aはきっとまだそれを知らないように思う。自殺と言っても首吊りと飛び降りくらいしか知らないだろうし、本当に追い込まれたとき、本当に絶望したとき、何が救済になるのかを知らない。いやもちろん、僕だって知らない。だけど、救済の請い方を知っている。親とか恋人とか親友とか、そういう大事にするべきものが吹き飛んで自己の死に救済を本気で求める自分を知っている。だから死のうとした。でも、だからこそ、そこまでこの世に絶望しなくなって済んだのだ。「中庸の外側」に自分が外れたとき、自分が取る行動パターンというものを僕は知っている。そこが全てだったんだ。かつてドランクドラゴンの鈴木が、「何をいじられても絶対に腹が立たない」と発言した際に「どうして」と聞かれてこう答えた。「何をされても、例え松ちゃんだとしても簡単に殺せると思ったら腹が立たない」と。鈴木が腹が立たないのは、「中庸の外側」に外れた際に自分は他殺に向かうタイプだと知っているからなのではないか。鈴木は、中庸の外側に外れる瞬間があることを学び、さらに、そのときの自分の行動パターンまで把握している人のように思う。そして、中庸の外側に外れたことのない人間の方がはるかに怖いとも思う。これくらい重心を移動させるとシーソーが元に戻らなくなるということを知らない人間。そういう人間の方が平気でシーソーの上で暴れ出したりする。


こんな話をすると、人々が思いそうなことをちょっと付け加えて締めとする。僕のような人間に、そして鈴木のような人間に、「いざとなったら人を/自分を殺す、それは危険ではないか」という批判をする人がいるんじゃないだろうか。確かに突然目の前に「僕、自分がいっぱいいっぱいになったら人を殺しますね」と言う人が現れれば間違いなく怖いだろう。しかしそれはそれで「あり」だと言わせてほしい。僕も鈴木も、心平穏に生活をするためにそのように考えているにすぎないからだ。「いざとなったら人を/自分を殺します」というのは殺害宣言のように見えて、非殺害宣言だ。「いざとなったら殺します」と思うことで、普段の生活で人を殺さなくてもいい心理状況を作るという、平和に対応した立派な一つの策でしかない。例えば鈴木が「いかなるときも殺しません」という信条に切り替わったら、松ちゃんのいじりに極度に腹が立つようになるだろう。その状態で下す判断の方がよっぽど冷静さに欠ける。殺すという宣言は殺さないためにある、そういうものが町中には意外と溢れているのだ。その一例が『完全自殺マニュアル』だったりする*2。あの本は18禁だけれど、決して自殺を推奨する話ではない。それは、中庸の外側の世界を教えてあげるだけの教本に過ぎない。その教本が伝えるのは「こんなに自殺って楽」ではなく「こんなに自殺ってしんどい」というそのメッセージのみなのだ。中庸の外側を知らぬ人間が、それを想像するだけで出てくる案なんてたかが知れている。残酷だけれど、中庸の外側は自分で入り込まないといけない。もちろん意図的に入り込むことはない。でもたまたま入ってしまったのなら、若いうちにそこに入ることができたことを讃え、それが50歳とかになって初めて経験した方が悲惨だと思い、そこでの自分の行動パターンだけしっかりと確認しておくのだ。だから、なんやかんやAに、持っていた『完全自殺マニュアル』を貸してしまった。それは自殺を勧めたいわけでも何でもなく、あくまで、中庸の外側に外れたときの自分の行動の選択域を広げておいてほしいという、赤の他人でありながら少しだけシンパシーを感じてしまった自分なりの精一杯のエゴなのである。

*1:www.mattsun.work

*2:

この本についていつしか書いた記事です www.mattsun.work