選ぶしかない、という選択肢に選ばれているということ

最近は園子温の話でまた盛り上がっている。こんなことは以前にもやっていたんじゃないか、と思う。それがまさに小山田圭吾の事件だったんじゃないか。やっていることは許せない、時代が変わろうとも手をつけてはいけない行為。しかし、その時代において、その環境において、そしてその瞬間においてはそうすることが正しかったという事実がそこにあったということが厄介なのであり、例えば今回の事件で言うのなら、ホイホイとついていった女優側が被害者の面をするのはおかしいというような批判を見るたびに、どうも筋違いだなあ、という感想を抱く。


基本的に人間という生き物は愚かだ。目の前にエサがあれば飛びつく。その飛びつくという行為に誰か第三者との利害の関係が生じ、その利害の関係が上手く一致したときにことが進む。今回のことで言えば、園子温が体を求める代わりに映像で女優を起用するというのは立派なWin-Winの利害関係であり、それが二人の間で意見が一致したのであれば第三者が口を挟む余地というのは本来ない。しかしそれを社会の問題として考えたときに事が捻じ曲がるだけなのである。園子温作品では体を売らないと活躍できないということを公的な制度として決めてしまえばそれは少なからず女性に対する冒涜となり、演技は関係のない要素で階級が決まるアンフェアな環境を作る時点で愚かだ。


しかしここで出た「愚かだ」という感想は、映画作成に余りに関心も興味もない僕という第三者の傍観者の感想であることは言うまでもない。では自分がその女優だったら、と考えたときに舞台は暗転する。その女優のことなんて何も知らないし、これは想像にしかならないけれど、アクターとして全く芽が出ず、年だけを喰っていき、そんな中で唯一見えた女優昇進の道が、「園子温と体の関係を持つことでの出演」だったら、それでも断ることができるだろうか。この出演なしに自分の人生がどん底に尽き落ちるという自覚がありながら、それでも断れるメンタルを人間は持っているだろうか。


この議論は何にでも当てはまる。雑誌が求めてくれば小山田圭吾みたいに過去のいじめを武勇伝のように話すかもしれない。参院選が近づいていて高齢者の票が集まるというメリットがあるのなら、年金受給者に一律で5000円を配ろうと思うかもしれない。あとからその状況に無頓着な第三者がジャッジしたときに何とも愚かだと思われる行為は、そのときのその環境においてという条件付きでは、少なくとも、形式上は「正しかった」ということ、それに我々は目をつぶっているのではなかろうか。


それが過去のことであろうとも、未来に炎上を招いてしまうというのは最近珍しい話ではない。ではなぜ炎上するのか。昨今の議論は、道徳的観点が今と過去では違うということに重きが置かれているように思う。時代性が背景にあるが、その時代性を言い訳にしていいことと、してはいけないことがある。その境目を定義することに人々が翻弄されているような印象を受けるのだが、見落とされてきたのはもう一つの観点なんじゃないか、なんてことを思ったりする。それは、その行為が「選んだものか、選ばれたものか」という視点だ。


人々は、選んだものに対して不寛容であり、選ばれたものに対して寛容である。どういうことかと言えば、殺人の加害者に対して不寛容なのは、人を殺す、という行動を選択しているからであるのに対し、殺人の被害者に対して寛容なのは、不運にも無差別殺人という行動の的になってしまったことを憂うからである。そうなった運命を自己で決定する余地があったか、ということに焦点が置かれ、それにより決められてきたのが倫理という軌範ではなかったか。例え殺人だとしても、末期医療の患者の安楽死のような話になれば人々は悩みだす始末だ。そうした悲惨な病気に選ばれた側だ、という視点が僅かでも入り込むと人々はその判断を躊躇ってしまう。


それが最近顕著に出たのではないか、と思うのが、まさしくウィル・スミスのビンタ事件、なのである。ウィル・スミスのビンタに対しては賛否両論があり、そして面白いことに、アメリカでは否定側、日本では賛成側が多くなっているということはまさしくそういうことではなかろうか。アメリカではウィル・スミスがビンタという行動を意図的に選んだものという前提で議論が進む。それは、フェミニズム的観点から言うのであれば、女性も男性と同じように選択権がある生き物として許容されているからなのでは、と自分は考える。脱毛症という事実を抱えたうえでそれを揶揄されるのが嫌ならばジェイダ自身が声をあげればよい、当然のようにその権利がある、それなのに当事者ではないウィル・スミスが"敢えて"ビンタという行動を選択したという構図として米国では捉えられ、そのときウィル・スミスの行動は、暴力行為が適切か否かという議論に終始する。それに比べ、日本人たちの考えは違ったのではないか。僕たちは、まず、ジェイダの脱毛症を、「変えられない運命により選ばれてしまったもの」として捉えたんじゃないだろうかと思う。日本人の心理状況としては、生まれながらの選択不可な脱毛症という症状に対する同情から入ってしまったわけだ。そして、またまたフェミニズム的な観点から言えば、日本人にとって、女性は「男性と同じように声をあげることができない弱い生き物」でもある。そうした前提から入ったとき、ウィル・スミスの行動は米国的思考とは逆の方面から捉えられることになる。ウィル・スミスのビンタは、脱毛症に選ばれたジェイダが声をあげられない代わりの制裁、という、つまり「被選択側」の行動として捉えられたんじゃなかろうか。もし仮に、ジェイダが声帯の病気か何かで声をあげられない状況にあったとき、ウィル・スミスのビンタは米国でも賛成一色に染まったのではないかと思う。重要なのは暴力の可否よりも、行為に及んだ者、及びその行為に踏み出すにあたり原因となった者の「選択可不可性」だったのではないか。米国では女性も選択性を持つ生き物として許容される「選択性の文化」なのに対し、日本では女性など、他の生物に対して何かしら能力の劣る生き物を、生まれながらにしてその生物として生まれることを選ばれた不運な生き物、と考える「被選択性の文化」なんじゃないだろうか。最近のフェミニストを見ているとそう思えてならないのである。日本の性差議論は、まず、女性を力ない「劣等種」と定義することから弁論が始まっており、その劣等種をいかに搾取しないかということに口論が終始する。劣等種というのは残酷な表現と思われるかもしれないが、劣等種という表現は、まさしく弱い立場で生まれたという被選択性を表現するにはもってこいの表現だったりする。真のフェミニストを名乗るのであれば、女性はそのイデオロギーからの解放を目指した方が早いのではないかと思うのだが。


さて、少し話は逸れたわけだけれど、こうした日米間における文化の相違は、園子温小山田圭吾の話にあてはめると矛盾を生じるように思われるかもしれない。なぜなら、園子温小山田圭吾も、まるでその行動を選択した側の加害者であるという言論ばかりで、彼らもその時代性などの環境に選ばれた「被選択側」なのではないかという指摘を見ることはほとんどないからである。これは、今までの議論からしたら、あらゆるものを「そういう生き物として生まれてしまった不運な側」として処理することを優先しそうな日本人の質に相反する。不思議に思うかもしれない。しかしそうではなく、むしろそういうのこそが日本人らしい考えだと自分は考える。なぜなら、その状況においてそれを「選ぶしかなかった」という現実を、選択する側の意見と錯誤してバッシングに走っているからだ。しかし、ある一つのものを選ぶしかない、という状況は、選ぶ者の心理のように思えて、実は選ばれた者の心理なんじゃないか。そのことに日本人は目を瞑りすぎたんじゃないか。


それを選ぶしかない、というのは、実は選択側の心理ではなく、被選択側の表現である。目の前に豚肉と鶏肉が出されたとしても、イスラム信者であれば選択は一つに限られる。このとき、鶏肉を食べたイスラム信者に対し「鶏肉を選んだ」と言うよりも「鶏肉しかなかった」と表現した方が適切だ。しかし不自然なことだ。イスラムの教えを保護にして豚肉に手を伸ばす可能性も、その選択の権利もあった。しかしそれを選択側の人間として捉えないのは、イスラムという宗教家系に選ばれた側として捉えたからに他ならない。それを選ぶしかない、という状況は、常に被選択側が受け入れていくべき課題だったのだ。


これを園子温に当てはめるのは暴論だろう。しかし園子温の奥底に眠る何かを知らない我々が、園子温を選択側だと決めつけ叩くのはいささか乱暴で、ましてや、女優側に対しても園子温に付いていくのを選んだ側だと主張するのはもっと乱暴であるように思う。もちろん、園子温にとって、公平な手段をとって女優を採用することが、イスラム教にとっての豚肉のような重みをどれほど持っていたのかは分からない。しかしこの無神教の日本で個人主義に拍車がかかる現状、行動規範というものは細分化し、身分などに囚われない自由な考え方は表向きで推進されているにもかかわらず、多くの人間にとって納得がいかないやり方が宗教的な意味として認められないのは窮屈すぎやしないだろうか。園子温とも女優とも関係のない第三者である自分には、これらの事件の流れが、被選択側の人間の状況を選択側の人間のそれとして、世論で制裁する、そんな構図に見えてしまうのだ。


前提として、僕たちは常に窮屈だ。常に他人の顔色を窺い、集団のムードというものを壊さぬように生きている。そんな中で行動の自由を謳われても困る節がある。現に日本人は自由ではない。物理的には自由でも精神的には自由でない。それが行動の選択肢を狭め、数多の軌範の中から何かを選択しているようでいて、実は社会イデオロギーに体を選択されているだけだったりする。それなのに、戦争が終わって我々は自由を手にしたと思っているから、その思想と現実のギャップに耐えることができず人は病んでいくのである。


こうした考えは、大学で常に行っていた自殺の研究にも通じるところがある。自殺を、親から頂いた体を自ら切り捨てる不敬な行為だと考えるのは、まさに自殺を選択的行動と捉えた故のものだろう。しかし自死に関する当事者との声には乖離があることに気がつく。自ら死のうと考えるのは、食後のスイーツが別腹だとでも言うように、本来それを消化するべき器官の機能喪失によってもたらされる現象だと考えている。胃が動かなないから別腹が開いたにもかかわらず胃の機能を延々と説明されても困るように、追い詰められて脳が動かないところまで来てしまったから死に救済の価値を見出したという状態に、その脳の健やかな選択権の話をされても困るのだ。死ぬしか方法がないという時点でその人は何かに選ばれているのであり、本質は、その視野狭窄がどこからもたらされたのかの原因究明、そこにしかないんじゃないか。。


我々は見間違いすぎた。選ばれた命を意識しながら過ごすことに、どうも自分たちは無頓着すぎる気がする。