「モノ」と「者」から見る反出生主義のグラデーション

最近、またまたそんなことを考えている。いつまで考えるのだろうか。死ぬまでだろうか。


僕たちの中にはしばしば、子供なんか産めるものかと考える人がいる。それが少数派なのかどうかはいまいちわからない。ただその傾向が今までに比べれば強まっているのは間違いないだろう。日本人は幸せになりすぎた。子供なんか産まなくてもいい、寿命なんてもっと短くてもいいんだなんて思えるくらいのところまで、技術が進歩した。余裕ができた。老いたときの自分の戦力として、国民という名のチームとして、そんな考えで子供を産まなければならないほどひっ迫した生活を送る方が難しい。


そういう人たちの主張は、要約すれば次の一点に集約されたのではないかと思う。出産は例外なしに親のエゴである、ということだ。真の意味で子供のための出産はあり得ない。生んだ子供が不幸になることは悪だが、生まなかった子供が幸せになったかもしれないことは悪ではないという、そのあまりにも合理的な思考が人々に出産を思い留まらせることがある。


僕たちはそれを、まるでモノが者を生んだように捉えてきたんじゃないだろうか。子どもを生むためのセックスという行為は快感を伴うし、そうした生物的な話をぬきにしても、私は子供を絶対に幸せにするんだとか、子供が何人いる家庭がずっと夢だったんだとか、そうした親目線の理念を叶えることも、遺伝子ではなく摸伝子の相続に重きが置かれた現代社会では立派な二次的な快感に含まれる。子どもはいつだって常にその快感のツールとして生まれてきた。そのツールに自我が芽生え始めることが問題なのである。それをモノが者を生んだように捉えるというのが、反出生主義者からの視線だったのではないかと思う。生まれた側からすれば、体験出産なんかもできないくせに勝手に生むなと。そのくせ死にたいと口にすることは親不孝であり、望んで生まれることが叶わないことをいつまでも憂うのである。


ただ僕は、この考えが反出生主義の最も重要なところではなかったんじゃないか、と思うことを最近始めたのである。


というのも、子どもを生むことをやめるべきというその主張の論点は、「モノ」が「者」を生むことだろうか。セックスの快感や親の勝手な理想は、子供視点では無機的な「モノ」だと主張し、そうした「モノ」から生まれてくるのが人間という「者」であることに問題がある。それは本当だろうか。僕も今までそう考えていた。しかし、人間の奥底の共通理念を確認したとき、実はそれが逆だったんじゃないかということを思ったのだ。


人には誰しも育ってきた環境というものがあり、その環境というものに性格などの個性は形成されていく。思考だって当然その影響を受ける。例えば、一人っ子として育ってきたが寂しい思いをしたことが多かったので子供は二人以上ほしいとか、自分はある事業で成功したのでその跡取りがほしいとか、そういう考えは、無機物なモノなのだろうか。僕はそう思わなくなった。どう思うようになったかと言えば、そうやって自分の叶えられなかった夢を子孫の世代に残したいと願ったりすること、それこそが人間なのではなかったか、と。


そう考えたとき、実は、反出生主義が抑えておくべき視点は、「モノ」から「者」が生まれてくるということへの恐れではなく、「者」が生む以上は子供が「モノ」となること、なのではなかったか。


以前、反出生主義に関するあるNoteを見たことがあり、激しく頷いたのを思い出す。


note.com


僕が今回書きたいことに相当する記述は、以下の部分ではないかと思う。

この奇跡のような状況を前にして、後者を拒否しなければならないことへの葛藤が生じるのだ。

いくらかの人には「え? どうしてそこで葛藤するの? 子どもは要らないはずでしょ?」と思われるかもしれない。ところが、これは現在まであまり議論されていないように思われるが、反出生主義であることと、「好きな人との子どもを持ちたい」という欲求を抱くことは両立する。

それは、「恋人が欲しがっている、子どもという『モノ』を与えてあげたい」という形で。


もし子どもという存在を人権のない、苦しめても傷つけても構わない「モノ」だと思えるのならば、私たちは喜んで恋人にそれを与えてやるだろう。出生主義者がよく夢想するイデア的な「幸せな家庭」には必ず子どもの笑顔があることを知っている。彼がこれまでの人生を、ごく当然のようにいつか自分もそういう家庭を築くのだと信じて生きてきたことを知っている。それを思えば、恋人に理想的な未来を与えてあげたいと願うのは自然な欲求だろう。

しかしそれは、言うなれば「好きな人のための出生」である。そこに将来生まれてくる子どもへの懸念や配慮は一欠片もない。真の意味での「子どものための出生」は成立しえない──これが反出生主義の考え方である。だから、考えの主軸を子どもの側に置けば、私たちはその加害性に怯まずにはいられないのだ。

もし自分が出産してしまったら、子どもに苦痛を経験させることになる。産んだという罪を抱え続けることになる。それを分かっていてどうして「好きな人のための出生」を行うことができるだろう。
ゆえに、どちらを選んでもどちらかへの罪悪感が残るという状況が生じるのである。


僕たちは、モノが者を生む状況、というものよりも、者同士が愛し合うという自然な状況を受け入れれば受け入れるほどその仲介物がツールとなる苦しさのほうが、はるかに避けたいと思っているものなんじゃないだろうか。なぜかというと、僕たちは、愛されるか否かという問題より、愛せるか否かという問題の方がはるかに大きくなっているからじゃないかと思うからだ。だって、反出生主義という考え方自体がそれを物語っているじゃないか。愛されるかどうかは大して問題じゃなかったのだ。自分が愛されている、もしくは愛されていないと判断するときにはすでに相当の自我ができあがっていて、自我ができあがっている以上、この状況をどのように楽しむか、望んで生まれたわけではないがどのようにこの地球をエンジョイするかという方向に思考をシフトせねばならない。僕たちの課題は常に「愛せるか」それとも「愛せないか」その二択なのだ。そして、また一つ、はっきりと出ている答えは、その答えは一切の例外なしに「愛せる」なのだ。


いやいや、と思う人がいるだろう。例えばネグレクトなどの行為を見せる親は愛していないじゃないかと思うかもしれない。しかしそれも、立派な一つの愛なのだ。間違いなくそれは愚かな愛だろう。しかしそれは、愛という言葉にどのような形容詞がつくのかどうかという違いでしかなく、愚かな愛、利己的な愛、または、愛の形に見えない愛、それが愛だと自覚していない愛。僕たちは常に、愛同士で睨んでいる。だから問題なのは、「お前の愛が不快だ」と言える時代になったことなんじゃないかと思う。このブログでも何回も書いているけれど、自分の不快感情を訴えることを社会運動と見間違う人が今後増えるだろう。個人の問題と社会の問題、この二つの境界線がだんだんと曖昧になるのが令和の時代なのではないかと僕は踏んでいて、そうなればなるほど、お前の愛が愛ではないと言われるリスクを頭に入れる方向に人々は動いているんじゃなかろうか。もしかしたら、自分もそのうちの一人なのかもしれない。人々はどんどん、むき出しで愛せなくなっていく。ナンパの時代はとっくに終わり、セックスに同意書が必要だとか言い出すフェミニストが現れる時代になった。そういうことだったんだ。僕たちは愛せるかどうかをより人生の課題として重大に捉え始めているんじゃないだろうか。それは表向きは良いことなのかもしれない。望まない異性が執拗にアプローチしてくる不快感情を遠ざけられる。その代わり、何が愛で何が愛ではないのか、そう問いかけ続け、無心で愛することを人々が忘れ始めている。愛に大小なんてないというのは当然として敢えて書くけれど、親の愛より大きなものなんてない。何もできず泣くしか能のない人間を一から育て上げることに勝る愛はこの世に見つからない。反出生主義者に共通するのはその愛を知らないということである。その愛を知らないから愛を問い続ける。自分が生まれたことを罪だと感じる方面の反出生主義者は、自分なんて親の感情のツールとして持ち出された「モノ」だと考えるし、親が勝手に生むことを悪だと捉える反出生主義者は、セックスの快感とか勝手な家庭の理想を「モノ」だと位置づける。自分とは異なる生き物を無機物と捉えることで成仏する思考方法は、そこにしか逃げ道がない人たちの不憫さに最大限の申し訳なさを抱えながらも、歪な思考だ、と言わざるを得ない。なぜなら、愛することを知らずに愛を語らねばならないからだ。


愛というものが、今までより尊大で敷居の高いものになっているのかもしれない。だからこそ、この愛の産物として、子供という新しい命が見る世界がふさわしいかどうかを、日々ジャッジしなければならないのである。本当は、そのジャッジなんかではなく、子供を作り出すことにこの世の愛が詰まっているというのに。