学級閉鎖と言葉狩りから見る、第三次世界大戦

知人の知人くらいの関係性の人から、とても恐ろしい話を聞いてしまった。それに触発されるようにこの記事を書いている。


聞いたのはコロナ禍における小学校の話だった。今の小学校では(と一括りにしても、話を聞いた人の勤める小学校だけの話をどこまで一般化して良いかは不透明だが)、一人でもクラスにコロナの陽性者がいると学級閉鎖になるという。生徒だけではなく、兄弟などの家族の感染が発覚しても同様の扱いになり、近日の接触者の確認なんかが行われ、保健所にも連絡がいくのだという。


こんな話を聞くと、目眩で頭がくらくらしそうになる。子供なんて、目に入ったものはすぐに口にくわえる生き物だったじゃないか。もちろんそれが明らかに危険なモノだったら親が監視して止めたりするわけだけど、コロナウイルスに関してはどう考えてもそのカテゴリーに分類されるものではないのではないかと思っている。コロナウイルスの重症化率なんて検索すればすぐに出てくる。オミクロン株の重症化率は、アルファ株あたりと比べれば約八分の一ほどであり、入院率は一パーセントに満たない。しかもそのほとんどは六十歳以上の高齢者であり、そんな状況下、十歳に満たないこどもに感染者が出て学級を閉鎖する意図がまるで見えない。コロナがうつるのはまずいと囃し立てる割には、重要な人格形成における時期に同級生などの横のつながりをせっせと剥奪する罪悪感にはあまりに無頓着すぎやしないか。


コロナ対策と打ち立てる者にいちばん聞きたいのは、あなたたちのゴールはどこなのか、とその一点に尽きる。ちょうど二年前だが、コロナウイルスが流行り出したころには、自分にもそれなりの危機感はあった。ウイルスの解明もまだ進んでいなかったし、外出や会話は極力控えた。ではそのときの自分は何をゴールに見据えていたかと言えば、症状の軽く感染力が強い株への変異、であった。これはウイルスの基礎知識があれば難しいことではない。ウイルスの目的は当然、人の苦しむ姿を見ることではなく、より長く繁殖することなのだから、宿主の体を殺さずに、宿主間での繁殖に長けたウイルスが淘汰により生き残る。僕たちが待つべきはここだったのではないかと思うのだが、今の人間の目的はどうやら違うようで、「コロナウイルスを他者にうつさないこと」になっているのではないかと思えてならない。コロナウイルスを他者にうつさないというのは本来は手段であったはずの行為なのに、それがいつの間にか目的へと倒錯してはいないか。こんな話をすると、第二次世界大戦と似た状況だと思わずにはいられない。領土や覇権といった本来の目的では動かない国民を、「それでは愛国心が足りない」というような、あたかも"おまえは非国民"的なフレーズで統制しようとしている歴史が繰り返されているだけだ。マスクをしないのはマナー違反、と言われて怖いのは、相手への感染の配慮が足りなかったことへの反省ではなく、マスクをしないということが、戦時においての「非国民」的な役割を被っているからだろう。僕たちは外を歩き、誰とも会話をしない時間帯でマスクを離さず、飲食店に到着して人と話すところになってやっとマスクを離す。どう考えたって逆じゃないか。マスクは今や、人々の間でファッションとして取り込まれ、感染拡大防止というのはきっかけにすぎず、そこからは遠く離れた第二のフェーズに突入している。そういうものを僕はどうしても「うすっぺらい」と感じるのである。容器だけで中身がない状態で突っ走ったから落ちた原爆の反省がどこに活かされているだろうか。僕は、サイバー的な形で原爆が落ちてくるのが今年か来年だろうと踏んでいる。


さて、学級閉鎖から話は逸れたが、話はそこにとどまらない。学級閉鎖が行われたクラスでは、当然休んだ分の補講が行われるわけだが、それはオンラインで行われるらしい。ただ小学生のリモートでの授業は難航するだろう。それを防止するために、オンラインで流している授業動画から別のアプリに移行したりなんかしたときに教師に連絡がいくようなシステムがあるらしい。これはなるほど賢いと頷いたわけだが、驚いたのはその後だった。生徒がブラウザで検索する文字は全て学校側に監視され、「死」や「殺」などの危険ワードが検索されたときには、例えば「今あの子が『死にたい』と検索したので大丈夫かどうか電話してあげてください」と言ったような連絡が行くらしい。


ああ、時代はついにそこまできたか、と思う。


こんな話を聞いたことがあった。岡田斗司夫が言うところの「ホワイト革命」である*1。この一通りの話を聞き終わるとき、世界は漂白されるという表現が何も過大なものではなかったと実感せずにはいられない。ただ、これはあくまで「コロナ禍により加速した」というだけであり、このような動向は二十一世紀初頭から始まっていて、この十年あまり、我々の方がそこに無頓着だったのではないかと思ったりもする。


予め断っておくと、死にたいと検索した子供に対して電話を入れるという行為自体に何かの不満があるわけではないことを明言しておく。親ではない自分にすら、子供が死にたいなんて考え始めたときの不安は想像できるし、それを知ったときには何かしらの形で介入して助けてあげたいと思うのは当然だ。その心自体に批判があるのではなく、問題なのは、その発見の機序が機械的になりより確実になることで、他の瀕死の命を発見できないことへの加害性が莫大に増えることなのだ。


実はこの話を過去にもしている。その記事に置いて言及したのは"マッチングアプリ"に関してであった*2マッチングアプリは便利な恋愛ツールに見えて、人々の未婚や晩婚化を促す結果となったことを、このように書いた。

マッチングアプリは、人々から「恋愛」を剥奪したのではない。人々から「失恋」を剥奪したのではないだろうか。僕たちは恋愛ではなく失恋を避けていると言った方が適切である気がしてならない。

何の事前データもないままに誰かと偶然出会い、そこから交際を始めるとして、しかしそのとき失敗ありきであることは誰もが分かっていることだ。結婚相手の籤を引き続けていきなりアタリが出るなど誰も思っていない。ある程度ハズレの籤を引き続け、そこではじめて自分にとって"ハズレ"となる人間の特徴が分かってきて、そこでアタリを見つける選人眼が養われていく。しかし今のマッチングアプリとは人々にとって「初めからアタリを出してもらう装置」なのである。今までは、箱の中には十本の中に一本だけのアタリが入っており、アタリを引くまで引き続けろ、ハズレを引いているうちにアタリの籤の手触りが違うことにも気がついてくるだろう、そうしたメッセージ性があった。しかしその籤箱の仕組みをマッチングアプリが覆す。マッチングアプリは籤箱の中身を、九本のアタリと一本のハズレに変えた。このツールを使えば相性が分かる、と、本来は人の手で築くはずだった段階が省略され、あたかもアタリばかりの籤箱のように見せかける(蓋を開けるとそんなことはない)。

その籤箱を振るとき、人々の心に植え付けられる感情の影響は主に二つではないだろうか。第一に、アタリを引くことの達成感が剥奪されること。第二に、ハズレを引くことの羞恥心が膨大になること。これが重なることは、失恋の剥奪にはもってこいの条件ではなかろうか。十本に一本のハズレを引くとは、つまり、マッチングアプリに課金を続けながらも求める異性に出会えないというような状況をさす。今までは「ヒトのことが事前にわかるわけがない、当たって砕けろ!」とその失恋自体が上手く許容されていたが、今では「マッチングアプリという文明の利器を使ってもなお彼女ができないあいつ」と、失恋の羞恥心を膨大化させたせいで、一本でもハズレが混じっているのなら初めからその籤を引かないという選択肢がクレバーな時代に突入しているのではないだろうか。

よく考えたら当たり前の話で、性欲や異性への自己顕示欲がヒトの体からいきなり消えるなんてことはなく、従って恋愛の欲求は一定と考えた方が自然だ。技術の進歩により、我々が操作されているのは、恋愛への欲求ではなく、失恋に対しての羞恥心だったのではないか。


つまり、検索エンジンの可視化で「あの子が死にたいと検索した」と判明することは、マッチングアプリの相性診断のようなものに例えられる。本来、それは自分の目でじっくり確かめることだったのだ。この異性とはどのような共通点がありどのような話題があるのか探るように、あの子はもしかして死にたいのではないかという観察は、表情やその態度なんかからじっくりと見定めねば分からない。分かる、という表現すら傲慢だ。人間の態度には常に両義性がある(忘れられたくないが一人になりたい、というように)のに、そこに機械が介入するのはおかしな話ではないか。もちろん、その機械にある程度の整合性はあるわけだし、ある人にとって便利なツールになるのは間違いないが、しかしその行く先は"マッチングアプリ"と同じ結果をたどる。断言してもいい。


どういうことかと言えば、マッチングアプリが失恋への羞恥心を膨大なものにしたことで人々が恋愛に手を出さなくなったように、検索エンジンの可視化により、死にたい子供のヘルプに気がつかなかったときの周囲からの「なぜ気がつかなったのか」のバッシングがより強固な責任追及の刃と化すことで、そこに莫大な加害性が孕むようになる。本来、それは加害でも何でもないのだ。自分もかつて高校の同級生が自殺した時には自責の念が止まなかったが、しかしそれは加害ではなく、あくまで未知の可能性への後悔に過ぎない。自分の不作為による死というものは、ただの通り雨のように、自然災害でしかない。今の時代というものは、自然災害に対しあたかもそれを犯罪のように思わせる時代ではないか。そのとき人々が取る行為は一つなのである。その市場に参加しない、ということだ。課金までして失恋するのは恥ずかしいからマッチングアプリに手をつけなくなるように、ヘルプサインに気がつかずに叩かれる教師を見て、あんな目に遭う可能性があるのなら教師なんて職業は割に合わないとその志願者を減らす。そんな時代がくる、と僕は予想する。


そもそも、だ。「死にたい」という検索ワードを危険ワードとして取り締まることは差別ではないのか、とすら思う。例えば、数年前のすばる文学新人賞に『死にたくなったら電話して』という作品があるのだが*3、これを検索してもその教師側には引っかかるわけだ。この場面を見たとして、実際にあなたが死にたかったわけではないんだね、よかったよかった、なんて話で終わらせるのだとしたらそれは言語に対しての差別ではないか。「死にたい」が「危険」だというのは、事実ではなく単なる評価の域を出ないからだ。大勢に受け入れられるような評価ではないことを承知だが、「死にたいと検索し、幼い頃から自分の命の行く末について考えることは立派なことだ」と考える評価方法だってあって構わないのである。死にたいという検索ワードを危険なものとして取り扱うのは、それが個人の主観という前提での行為ならば何も文句はないが、子供を総括する教育委員会という団体がその方針として打ち立てるのは差別に匹敵するのではないか、とすら思う。言葉は表層なのだ。人間関係の基本とは、いつだってそうだったじゃないか。あいつがどう言ったからどう、ではなく、あいつがこう言っているのはどのような状況故かと互いに探り求め合うことをコミュニケーションと呼んだのではないか。その表現には自由がある、なんて綺麗な顔をして言いながら、大勢の直感にそぐわない言葉は寄ってたかって排除する。今は多様性の時代だなんて、そんなものはくそくらえなのだ。多様性の時代なんかではない。多様性と発言することでマジョリティへの加害性から逃れ、加害してもよいと民意が認める誰かへの加害が膨れ上がっている時代だ。田舎で初の感染者に対して帰ってくるなとか暴言が吐かれた状況はこれを良く表している。その暴言を吐く側の心理はあくまで「感染拡大を防止する正義の使者」なのだ。自らの正義のために多様性を排除する運命から誰もが逃亡するほど今の国民は賢くないのである。


未婚率がどれだけ上昇しても、つまるところ人間には性欲という切っても切れない原始欲があるから、その子作りの繁殖が完全に途絶えることはないわけだが、このコロナ禍における言葉狩りともいえる状況を見ていると、本当に、加害性に怯えすぎて何もできずに震え上がるだけの時代が来たりするんではなかろうかと、ひとり危機感に勝手に溺れているわけである。