エゴと加害性から逃げた先のシュールリアリズムについて

どうやら最近、僕はこのことについてばかり考えているように思う。ヒトはそこまで加害性から逃亡してどこに向かうのか。エゴと呼ばれる存在を徹底的に遠ざけるという名のエゴをエゴと呼ばずして、それはあまりに本末転倒ではないかと思うことがある。


そんな話からしたって、何が何だか、というところだろうし、そんなことを考えるきっかけになった話からしないといけないのだと思う。


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つい一週間ほど前、大学のときに所属していた部活動のOB戦なるものがあり、久々に卒業生同士が顔を合わせる機会があった。このご時世、そんな場が設けられたのも実に2年半ぶりというもので、年上の人間との話し方を忘れてしまったといっても過言ではない。もちろんこのご時世、飲み会なんて派手なことは出来ず、運動公園の一角を借りて現役とOBの試合をして終わりという、コロナ以前に比べるとやはり物足りないイベントになったことは間違いないと思う。


今の現役を見ていると、自分が現役だったのはわずか2.3年前なのだが、それでも部活の在り方というものが根本的に変わっているように思う。それが明らかに表層化しているのは、顕著な退部者の増加だろう、というのは、久しぶりに話した同期とも完全に意見が一致したところである。


自分が入部してから引退するまでの約四年間で、退部した人間は実に2人のみだった。しかしこの一年で退部した人間は5.6人に上る。その正確な人数すら若い代のOBである自分が知らないというのだから、その関係性が徐々に希薄なものになっていることは想像に易いだろう。


言い訳のようなものをすると、自分たちの時代にもーこれをコロナ以前の時代と表現するには正確なのか図り兼ねるがーいわゆる「去る者止めず来るもの拒まず」といったような雰囲気はあった。それでも、無言のメッセージのうちに「食らいついてやらあ」「やめさせてたまるか」みたいな空気はあったように思う。それが我々をつなぎとめていたというにはあまりに曖昧な表現で困るけれど、しかしそこから数年がたっただけでこの部活の有様ということを考えると、まさに若者の価値観の転換の最中にいるのではということを思わずにはいられない。


これは、部活という団体の価値に変動が起きているわけではないと思う。コロナという時代が、その団体への我々の感受性を覆しに来ているのではないか、と感じるのだ。


さきほど、自分が所属していた時に2人の退部者があったという話をしたが、そのうち片方は自分の一個上の先輩だった。実力派の先輩であり、団体戦を行う上でも間違いなく主力になる人間だけに、その退部を何としてでも防ぎたいという思いはあったのだと思う。実際自分はその先輩の実力を目標にしていただけに、その先輩の退部から数日間はなかなかやる気というものも湧いてこず、自分の同期に至っては、LINEで2回くらいスクロールしないといけないほどの長文をその先輩に送り、いつでも僕たちのところに戻ってきてほしいという長文を送っていた。それが未読無視されていることを知って、さすがにもう無理だろうと諦めた思い出は記憶に新鮮に残る。


どうやら今の世代にはそうした邪険な暑さというものがないのだ。辞めたいといっているのだから辞めさせてやれというのはあまりに潔白すぎる正論だが、そこに対して泥臭く抵抗する力というものを、若者はどんどん失うのではないだろうか。やはり、コロナ以前の、何もかもを好きにできていた世代からすると、こう思うものだ。どうして、せっかくこの団体に入ってくれたのだからもう少し頑張ってみないか、と言ってやれないのだろうかと。もちろん、今の世代の現役には、どれだけ練習を重ねようと、その力を発揮する場所がないではないかという不満と地獄があるわけで、その感情を理解するにあたって幼稚なのはきっと我々の方なのだろう。しかしそれでも、あのコロナ以前の様子を少しでも知っている世代に対して、もっと伝えてほしいと思うわけだ。たとえこの大学四年間のうちにできる試合が1試合だけだったとしても、その1試合にすべてを賭け、その一瞬に自分を更新するような愉悦は、その4年間の努力を吹き飛ばすくらいに瑞々しいものなのだ、と。たとえレギュラーに入ることが叶わず、リングの端でただ声を送るだけの存在であろうと、自分の存在でこの人間を勝たせてやろうと我武者羅になる瞬間がチームを作るのだ、と。


しかしこうも熱く語りすぎることが、なんとなく邪険なものとして扱われるということも察している。実際、自分のこのような思いをOBやOG同士で話したときに、ひとりの人間からこんな意見が出たのがまさにそれを表しているのである。


「それも正しいけど、辞めたい人間をその集団に留めさせようとするのもエゴだよね」


こうした発言を聞くと、やはり得体のしれない靄のような悲しみが襲う。それを聞いて、「ああ、ほんとだ、エゴだ!」とはならないのである。なぜかと言えば、それはエゴだと分かったうえで、それでもエゴ同士の衝突の善悪を判断する主体はいつまでも自分の底に眠っていると知っているからである。ある一つの意見に対して、「それはエゴだよね」と指摘するその意識の根底には、「我々は人に対してエゴを押し付けるべきではない」という思想がある。そこでは、人を自分の意欲のままにコントロールしてはいけない、という美意識が見え隠れするはずだ。そしてそれは正しい。しかし、エゴだからと言ってそれを取り去ろうとするのだっていささか乱暴ではなかったか。


例えば1~10のレベルのエゴがあるとして、人が集まれば集まるほど、その数値の平均をとる作業を強いられる。自分は4、あの人は6、だったら5の方針で行くことがこの集団にとって最大利益をもたらすだろうという思考の段階を踏まなければ、ただ放し飼いされた家畜の集団に変わらない。その中途において、ではなぜ5の結果が導けたかと言えば、「自分は4」「自分は6」という、互いのエゴの衝突を挟んだことによる、そう考えたとき、一人の退部者を目の前にして、辞めて欲しくないという意図を伝えることをその人間の「エゴ」と呼びつけてしまうことにも、絶対に俺の意見に従えとでも言うときと同様な暴力性があるのではないか。「自分は4だからこのグループの方針も4にしろ」という発想自体がエゴなのであり、「自分は4だ」と声高に叫ぶことまでエゴとすることは、果たして正しいだろうか。そうした言論がまかり通ってしまえば、5という方針を出す前に、あの人間の目指す数字がいくつなのか分からないままにただ顔色を窺い、誰からも反感の出なさそうな5という方針に安住しておくだけの臆病な集団になる。


それが今なのではないか、と思うのだ。


その犯人にコロナを指名することは凡そ間違いのない指摘なのではないか、と思う。今の大学の新入生は、大学の登校禁止、部活動も活動制限、大会はナシ、と、ウイルスの挙動とは大して関係のない、中身のない形骸化したルールの中に、人格形成において重要な時期を占められた世代だと思う。きっとこの先もそれに拍車がかかることは間違いないだろう。その中身にはどんな液体が入っているかよりも、その容器がいかに美しいかが重要視される外見主義文化は間違いなく加速する。マスクも飲食店の等間隔も、それがエチケットだと話すばかりで、ではそれが実際にどのような構造をしているのかを語れる人間がいないように、今の部活においても、「あの人にはあの人の未来があり、あの人のことはあの人のことが決める」という、毒にも薬にもならない当然の摂理だけ訴えるばかりで、では蓋を開けてあの人は何を考えていて、自分はあの人に何を求めたいのかを聞かれれば緘黙を貫くしかないという集団が、本物のチームとは思えない、という、ここまで来ると本当に老害チックな発想しかできないのが残念なところだ。


僕たちはしっかりと、いつだって心の中に加害性を持っているのである。「自分は2だ」と主張すれば、「自分は8だ」と自負する人間からしたら全くもって想像もつかない生態の生き物であることは間違いないだろう。人は何年も、そうしたことに傷ついてきたのではないだろうか。しかしそれが傷ではなく、「2の自分には決して喜ばせられない誰かを、8のあなたが喜ばせてあげられる」と考えて初めて成熟なのかもしれない。集団として動く以上、一つの数字がいる環境の中で、絶対に自分の数字に従わせることと、絶対に自分の数字を発表しないこと、この両極に分散することをやめて初めて、「群れ」としての機能は成熟していく。今のコロナ世代は間違いなく後者に偏っているだろう。今までのインフルエンザだって、自分たちは何人も移して重症化させてきたのに、今までは見えていなかったそれが可視化されたとたんにその対策をしないことがマナー違反となるのは乱暴でしかない。


そんな世で堂々と「自分はマスクをしたくない」と正々堂々と言えないように、今の現役だって「君には辞めて欲しくない」と堂々と言えないのだ。