「好き」を仕事にする、という愚かなイマジナリー

好きなことを仕事にしたい、得意なことを仕事に生かしたい、そんな言葉を耳にするたびに胸がうずく。そう話す人たちの、世界を覗くレンズがあまりに透明すぎることへの気持ち悪さ。


好きなことというのは、自分のことだけ考えていれば良いことだからこそ「楽しく」感じるのであり「好き」と感じるものだ。そんなことで、金が稼げるものか。


好き、とは何だろうか。仕事、とは何だろうか。


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僕は文章を書くことが好きではない。


得意、と言えばあてはまるのかもしれない。また、好き、と言っても、それは語弊のあるような表現ではない。しかし、自分にとって日々文章を連ねていることは、「好き」という、あまりに普遍な快表現の一端ではないという自覚がある。


真の「好き」とは、「好きだ」という実感を与えないものであると思っている。僕たちは、ディズニーランドのアトラクションに乗っている間、「楽しい」と思うだろうか。どんなショーを見ている間も、その瞬間に楽しいと思うことはない。楽しかったと気がつくのは、閉館後のゲートをくぐった後なのだ。楽しい空間であるということは、それが本当に楽しいのかどうかという疑問すら吹き飛ばす時間を提供するということである。僕たちは、それが真の意味で楽しいのかという疑問を思いついたとき、いかなる現象もそれを完全に肯定しない。ディズニーランドにいる間、勉強をしていれば、少しテストの点は上がるかもしれない。ディズニーランドの入園料は、世界の貧しい誰かが渇望している一万円だろう。何もかもを包摂した哲学的な問いの前に娯楽は無意味だ。それらを「忘れさせること」を「楽しいこと」と呼んでいる。この世の何もかもは、真の意味で楽しくないのだ。


だから、楽しいこと、好きなこと、そんな表現よりもさらに適切な表現があるということに気がつきたい。僕たちは、生まれたこの地球を、好きなこと、楽しいことで埋めることはとうの昔に諦めたのではないだろうか。では何に向かうべきかと言えば、それはただの「没頭」であり、そして「夢中」である。


そう考えたとき、僕にとって文章を書くということが「没頭」「夢中」の渦中にいるということは素直に頷ける。僕はやはり、時間を忘れるために書いている節がある。時間は苦痛でしかない。時間はそこにあるだけで自分の命の残量を意識させる。二十数年、僕は確かに生きた。その確かに生きたという時間が、では平均寿命の八十なにまで続くのかと考えたとき、それは絶対的な今までの過去を否定されたような感覚に陥る。周囲の人間のデータを統計して浮かび上がった数字はどれだけ的確であろうと、個人の未来を決定する権利を一切有さない。それなのに、二十数年を生きたこの体がその時間を精一杯に生きた、もう十分に長く生きたと口にすることは何となく憚られるような重い空気がそこにはある。*1


それをスキップすることにのみ、自分は魅力を感じてきた。自殺、反出生、やけ酒、タバコ、バイク。距離と時間の関係が、今までよりもくるっと反転する感覚はこれ以上になく気持ちよかった。


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文章とは、やはり構築である。いつか書いた気もするが、僕は書くことにしか興味がないから、自分が書き終わったものにはすぐに興味を亡くす。自分が知らぬことを知ろうとすることには快感がある。自分が書いたもの、というものは、脳内に乱雑に配置されていた何かが紙面に整列されたものでしかなく、何回も読み倒した教科書の乱丁を整えただけに過ぎない。それを仕事に、職業に。就活が近づけば誰もが思うそんなことを、そんな汚い発想はしれっと踏みつけてやりたくなる。


職業とは社会のためだ。社会に生きる一因として認められる所作業のことだ。そこには必ず、誰かを喜ばせる段階というものを伴う。自分の手で生み出されたこの資産が、どこで、誰かが生きる何かに役に立っているのか、それを徹底的に考え抜いたとき、今まであなたが「好き」だと考えた何かに、「好き」の感情は残っているだろうか。そうは思わない。徹底的に誰かを考える時間が、没頭や夢中に綺麗に対応するわけがない。仮に対応したとしても、それは誰かを喜ばせる快感情になぞらっているということで、その中身の行動の好き嫌いとはまた別の議論になる。


僕たちが普段「好き」「楽しい」と顔を明るくして語るものは、誰も喜ばなくともやるし、誰もが悲しもうともやってしまうこと自身を指すのだ。そして、仕事、職業とは、誰かが喜び金を払うのなら嫌いでもやるし、誰も金を払わないのなら自分がどれだけ好きであろうともやらないことを指すのだ。それをごっちゃにしているうちに自分の位置など定まるはずがない。自分の職業の内容が嫌いで仕方ないと言っている人の方がはるかに信用度は高い。


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好きなことなんて、仕事にしてはいけない。仕事にするということは、即ち、自分が全くもって好きではないことで喜んでいる誰かをもっと喜ばせるために向上するということだ。それが、『だから僕は音楽をやめた』*2なのだ。それが自分の好きであることであればあるほど職業とは苦しいのである。自分の好きな何かに一切感情を揺さぶられない誰かを無限に観測する覚悟もなしに好きを職業にするな。どれだけ嫌いでも「没頭」を職業にしないといけない。


こんな、自殺のことばっかブログにして、ブログに飽きたら小説でも書いて、そんなことが面白いわけないだろう。でもやっている、それは、何かを書き終わったときに少しだけある自分への更新感への愉悦であり、それなしに文章を書き続けるなんて言う馬鹿馬鹿しいことができたものではない。


では果たしてそれは仕事なのだろうか。


自分には、そんな気もしない。


このブログの収益も、書いた小説を製本して同人誌でちょこまかと売る時間も、それが仕事であるとはどうしても思えない。はなから誰かを喜ばせる気など毛頭ないのだ。僕はずっと「自分は生まれたのだ」「自分はここに生きているのだ」という話しか書かない。それしか事実はないからだ。それ以外に疑いのあるものを純粋には書けないから。それが果たして仕事になるか。なってはいけないのではないか。


むしろ、そうした自分にとっての娯楽を実現するための資本集めのための、派遣の仕事なりバイトなりの方がよっぽど仕事としては適任だ。自分が大した努力なんてしなくても時給が降ってくる。自分の手さえポンと置いておけば、放っておいても客が金を払う。なんて簡単な世の中だ。


こんな話をすると、島田紳助が号泣した会見を思い出さずにはいられない。俺は、お前らが持っている若い時間を十億払ってでも買うと。だからお前らは十億を持っているのと同じだ、と。若者からしたら何を言っているのか分からない、むしろ十億をくれとさえ思いそうだが、しかし、あまりに有名になりすぎて足元からがっちりと固定された時間は元には決して戻らないことの地獄があるのだ。知らないことを知るのは可能だが、知っていることを知らない事にはできない。時間は決して戻らないという誰もが知っているという当たり前の真実は、その貴重さを、何とも皮肉なことに、年を取らないと分からない。そう思えるようになって初めて、「自分たちは十分に生きた」と口にしてよいのだろうか。


だとするのなら、その地点まで早く自分を飛ばしてしまえ。それが仕事であればいいのだ。嫌いなことでも、蓋を開けたら惨めなことでも、意味もなく没頭するのでいいじゃないか。それで得られる貴賤の多寡でマウントをとっても仕方ない。僕たちは何よりも没頭と夢中に命を救われているんじゃないか。没頭も夢中も、それをしようと思って無理にできることなんかじゃないから美しい。一秒一秒ゆっくりと数えながら死を待てる人間なんていないじゃないか。そんな世に生まれちゃったんだから、ちょっとでも、自分なりのワープ装置を見つけておくより他にはないのである。

*1:シロクマさんのブログはそれをまさに書いています。 p-shirokuma.hatenadiary.com

*2:当曲に関しては以下を参照 www.mattsun.work www.mattsun.work