彩瀬まる『不在』が、本当に「不在」の物語だった

久しぶりに、読書でふるえた。



彩瀬まるさんは、2010年に「女による女のためのR18文学賞」という賞の受賞でデビューされ、2017年には『くちなし』という作品が直木賞候補にものノミネートされている作家さんだ。しかし今回、それらの表題作ではなくこの『不在』を選んだのは、そのあらすじに惹かれたからだった。

父の死をきっかけに実家の洋館を相続した明日香。遺品を整理しながら彼女は、家族への複雑な思いと父から必要とされなかった事実に気がつかされる。やがて好調だった仕事は上手くいかなくなり、恋人との関係も崩れ始め……。この世界のどこかにあると誰もが信じている「愛」のその先を描く傑作。


文章を書いている人間にとどまらず、何か作品を生み出し続ける人間にとって、その表題で意識を引いておかないとやっていられないということが少なからずある。誰でも知っているような一般名詞をぽんと題にするだけなら、それを手にする人間はそれがどんな物語なのか想像しにくい。『君の膵臓を食べたい』なんかはまさにそうした効果も存分に含まれたうえでのあの売り上げだったはずだ。


それを逆手に取られたかのような、一本取られたようなぽかんとした読了感を残されるのは初めてだった。あらすじを見たときに、そこには「不在」の要素があまりに多く見受けられる。きっとそのメインテーマは親との関係性なのだろう。それはさらに恋人や仕事の調子に投影され、そして、誰もがあると信じている『愛』そのものの不在を描くのだろう、そう考えたとき、その正体を読ませてほしい、教えてほしいという純粋な気持ちの身でこの作品を手に取った。この作品の表題が『不在』であったことは偉大だと思う。何もかもが不在なのだから、不在と題するほかにないでしょうと言わんばかりに、その一般名詞をくどく説明するような表現を一切なしに完成された作品は、控えめに言って素晴らしかった。


本作品の、一ページ目から心を奪われる。

 私はいったい誰なんだろう。
 次々と差し出されるページに架空の名前を書き込みながら、ふと、頭の中が真っ白になった。自分の名前や、女だとか娘だとか、そういう役割を理解する前の、ただのころんとした魂だった時代のふわつきを思い出す、心もとなくて広がりのある感覚。確かな記憶はもちろんないのだけれど、そんな状態があったことは知っているような。


この冒頭数行を読んだだけで、ああ、主人公はまず自分の身に不在を感じているのだと知らされる。この文章を読んだとき、過去に自分がこのブログで書いたこの文章を思い出させた。

私の体は私のものだろうか??

この考え方の一番悲しいところは、私の体と、私の間に距離があるところだ。私の体は私の"所有物"の範疇を出ないから、どれだけ私に近づけても、私にはならない。

だから僕がタコ足でくくりたかった首は、僕ではなくて、僕の所有物でしかない。そのまま勉強していれば建築士になれる未来を諦め、将来の道の見えない学部に移籍して自殺ばっか考えた、その二年間が得た所有物。希死念慮。過去への罪悪感。この世からの退場の意思。

そうした所有物としての客体は殺せても、所有する主体は殺せない。それは心の奥底では生きたいと思っている自分の意思だ。デカルトみたいなことを言っている。思う我は疑いようがない。


www.mattsun.work


ある期間、自分の体は自分のものなのだろうかと考えていた時期があった。そのときの自分の感覚と似ていた。明日香が自分の「名前」について不在を感じたように、僕は、自分の「体」自体に不在を感じていた。明日香はきっと自分の「名前」というものが、社会へ自分を説明するための容器に過ぎないことを知っていて、その容器の中に自分が入っていないことを十分すぎるほど理解していたはずだ。思わず、ああ、分かる、と感情移入せずにはいられない。

さらに「不在」が展開する


その不在はさらに展開していく。兄が選ばれ、私が選ばれなかった絶望。漫画編集者の緑原に、私の思う物語が選ばれなかった絶望。それらの「不在」を、明日香は恋人の冬馬で埋めている。冬馬は明日香にとって「所有物」だった。ああ、と苦しさがこみ上げる。それは単純な独占欲でもなければ、愛の裏返しだなんていう陳腐な現象でもない。一番大事な体を、所有物として見ないといけない気持ち。そう思うのは、その存在自体を、「いついかなる時も私の自由意志で保持するか遺棄するか決定できる」という感覚の中に自分を逃げ込ませないとやっていられないから。僕にとっては自分が、明日香にとっては冬馬が。それが大事で大事で仕方ないからこそ、それは「名前」や「体」という容器の内側に入り込めない段階においては「所有物」としてしか見られない。「こんなに"愛おしい"ものを私は持っている」という感覚に身を委ねる。明日香にとって、夢を追う冬馬を自分の収入で養うという行動がそれをはっきりと可視化させていただろう。冬馬はいつまでも自力で生活できない人間である方が都合がいいということを、初期の方から、明日香は気がついている。賢い。


思えば、こうした「不在」は、他の様々な作品でも表現されていた。


自分がぱっと思いついたのは、「LA LA LAND」である。ジャズを演奏する飲食店の経営を目指すセブが、その資金集めに開始したバンドの活動が好調になったことでそちらに気を奪われかけたときのミアとの会話はまさにそうだった。

「君は優越感のために、不遇の俺を愛したんじゃないか」


gaga.ne.jp



恋愛映画ではその多くが、「男性にはいつまでもそのままで変わって欲しくないと願い続ける女性の側で、変わらなければと自らを鼓舞し続ける男性のすれ違い」がその根源にあるように思う。例えば映画『花束みたいな恋をした』でもそうだった。いつまでも漫画(だったっけ?)の夢を追って欲しい有村架純の思いを知っていながら、日常の流れに身を委ね、菅田将暉が会社の残業終わりに無心にパズドラをしていたシーンは、見ていて羞恥心を抱かされた人も多いことだろう。


hana-koi.jp



ちなみにB'zの『破れぬ夢を引きずって』という曲にもダイレクトにこれが表現される。

「いつまでも変わらないで そう願い続ける女の側で このままじゃダメだと男は項垂れる」


さて、紹介したかった『不在』と関係のないところで次々と、分からない人はすみません。ただ結局のところ「不在」は誰もが抱えているものであり、それを親と子の関係、男女の関係としてこれ以上なく繊細なタッチで表現されたのがこの『不在』という作品なのである。

『不在』のラスト


ネタバレはもちろんしないが、ここまで「不在」を書かれると、どうも救いようのない物語なのかと思わせるかもしれないがそうではない。それについては、印象的だった二つの台詞を引用することでこの記事の締めともしたい。村山由佳さんが解説の中でも取り上げている台詞である。

 俺は、愛とか、愛情とかっていう単語に出会うたび、白くてでっかいなめくじを想像する。愛っていうのは、気持ちの悪い言葉だよ。使われるのは、基本的にそうじゃないものをそう見せようとするときだ。

 普通じゃないって思う人生は、困ったり、寂しかったり、大変だけど、それ以外の人生では分からないことがたくさん分かるよ。分かったものは、あなただけのものだよ。辛いことを生き延びた先で、すごくきれいな景色を見られるよ。