僕たちは永遠に歴史に勝てない

時がたてば何もかもが変わる。そんな当たり前のことが恐ろしいと感じるようになったのはいつからなのだろうか。

歴史の認識誤差が呼び起こす戦争


まさに今はプーチンへの非難がピークに達している時期だろう。この戦争も、歴史の認識誤差という、時間が経てば何もかもが変わるという事実に徹底的に盲目にならなければ起き得なかったことのように思う。ウクライナはロシアにとっての所謂"元カノ"的存在であり、しかしEUNATOという"今カノ"と付き合いたい現在の意向を見せられた途端に武力の行使に発展する。あのときはあのときで、今は今、そんな当たり前のことが、時に人間の基本感情を逆なですることがある。


プーチンに対する非難は尤もで、やはりやっていることは実に寒いことだと思うわけだけれど、しかし長年権力の座に立ち続け、その座を決して誰にも譲ることができない人間に特有の地獄というものもまた同時に存在するのだと思う。権力とはそれだけで歴史の絶対的肯定を必要とすることがあり、つまり、ウクライナがヨーロッパ諸国と仲良くすることを肯定してしまえば、それはソ連の時期から丁寧に築き上げてきた主従関係を何もかも否定されるようなことを意味するのだろう。権力の座に居続けるには、未来の権力を守ることだけでなく、過去の権力も守ることを必要とする。それは、時がたてば何もかもが変わるという事実を視界の外に何時も追い出しておかないと成立しない。

歴史への執着は無言のマウントで解決するしかない


さて、話は横に飛び、さらに恥ずかしい話へと飛んでいく。


先日、久しぶりに、付き合っている彼女の元カレに会った。意図的なものではなくて、彼もまた大学で同じコミュニティに所属していたので、その団体のOBで集まったりする機会には必ず顔を合わせなければならないのである。二回くらい過去の記事で書いたことがあるのだが、彼がまあ何とも言えないモラハラ人間で、彼女に対して、自分が過去に浮気したことがあるなんていう告白をしたり、お前とは結婚できないだとか、そんなことをぺらぺらと。彼女もそんな人間とよくやったなあ、と思う。


さて、コブクロの曲に『赤い糸』というものがあり、男が彼女の元カレに嫉妬する内容の歌詞が綴られる。

たわいもないささやかな記念日
暦にそっと記してた
「今日何の日だっけ?」ってたずねると
少し戸惑って答えた

「前の彼氏の誕生日だ」と笑って答える 笑顔 はがゆい
そんな話は耳をふさぎたくなるんだよ
確かに
君が彼といた3年の
想い出にはまだかなわない
それでもこんなに好きなのに
すれ違いの数が多すぎて


こうした類の嫉妬に関しても、やはり似たような歴史への執着を感じ取る。今自分が付き合っているのだという紛れもないはずの事実は、過去に別の人間と付き合っていたというこれまた当たり前の事実に否定されるように感じ取られる。『赤い糸』ではそれが彼女と付き合った時間によって正当化されていて、でもきっと、3年付き合ったところで、この男性自身の嫉妬心が消えていない限り、自分より身長が高いとか自分より年収が高いとか、なにか別の事実が今の恋愛を否定する材料になるのだろう。


今の自分の中で、嫉妬という感情はほとんど消えているように感じるが、それを取り去ったときに苛立ちが残っている感覚はあり、自分にとっても彼女にとっても一刻も早く忘れたい相手と定期的に会わないといけないイベントがあるというのはやはり不愉快だ。そう考えると「今には今の生活がある」という当たり前の事実だけで何もかもきれいさっぱり気にせずに生活するというのもまた不可能なのだろう。それがロシアにとってみれば今のウクライナを全肯定することだろうし、僕にとっては、その男と分け隔てなく普通に会話することなのだろう。理論上で言えばそのようにしたところで今の生活は何も被害を受けないはずなのだが、しかしどうしても心の一割くらいはそれを受け付けていないのもまた事実で、理論通りにいかない感情があるというのはやはり時に厄介である。


ではそれらを解決するのは何かといえば、結局は『虚実のマウント』に行きつくのではないだろうか。

虚実コンテンツを作る


別にウクライナが今どの国と付き合おうと過去の歴史など何も変わらないというのが事実であれば、ウクライナがヨーロッパなんかと仲良くすれば今までの自分の権力は何なのだとそれが脅かされるように思えてしまう感情もまた同時に事実だ。事実と事実は、それが両方紛れもない真実であるだけにいがみ合う。きっと折衷案などないのだろう。自分もプーチンのような生活を送っていればウクライナを攻め込んだはずだ。


そう考えるとやはり、事実と事実の戦争は虚実で仲介するしかない。


正確に言えば、虚実で仲介できるだけの他の自信をどこかで蓄えておくしかない。


つまり、自分のケースを例に出すのなら「そんなモラハラ男、今の彼女はきっととんでもない不細工女なのでしょうね」みたいに思って消化しておくということ。これはどう考えても嘘だし、しかし、その嘘で心が消化できる所以は、今の自分があの男との生活に何一つ劣っているものが見当たらないという絶対的な何かだ。もし自分の方がどこかで劣っているのではという疑念があれば、自分の心を落ち着けるはずだったその虚実は事実にしないと気がすまない状況になるから余計に辛い。虚実を虚実のまま楽しめるというのは、それだけで貴重な財産だ。重要なのは、そんなモラハラ男の今の彼女がきっと不細工だと盲信することで自分が救われようとすることではない。そのモラハラ男を「今の彼女は相当不細工だろう」という完全な虚実コンテンツとして楽しませてもらうこと、その一点にしかない。ではその男の彼女を見せられてそれが美人だったら、今度は、きっとその女はよっぽど性格が悪いんだろうとか、足がめっちゃ臭いんだろうとか、そんなしょうもない別の虚実コンテンツでまた楽しませてもらうだけだ。それを楽しめるということが、その虚実たちで覆うことができない中心部で自分が何一つ劣るものはないという絶対的確信の唯一の証明でもある。きっとプーチンにもその確信はないのだろう。あの権力の座が、誰かと本気で心を通わせられる環境だとは思えない。


プーチンのアンチの集会は、初めはプーチンの悪口で盛り上がるものの、しかしプーチンの代わりがいないということに誰もが徐々に気がつきはじめ、最終的にはそこにいるアンチ全員が「プーチン万歳」と言って会を閉じるらしい。狂気の国家だと思う。それだけに、人との軋轢を虚実コンテンツで埋め合わせる必要もなかったのだろう。自分は強いという盲信もまた厄介だ。自分が本当は雑魚いと知っている人間にしか虚実コンテンツは楽しめないし、嘘も方便とはきっとこういう意味なのだ。


国を操るのは権力そのものだから、我々は、永遠に、こうした歴史を繰り返すのだろう。