「経済を止めると人が死ぬ」論争には徹底的に対抗したい

今では聞かなくなったが、かつてコロナが流行り出した頃の文句に、「自粛要請を出すのはいいが、経済を止めることでも人が死ぬ」みたいな文句をよく聞いた覚えがある。初期のころはあまり何も思わなかったが、よく考えるとこれはこれで相当におかしな話なのである。

経済を止めても人は死なない


断言しておくと、経済を止めても人は死なない。


これは、経済を止めなかった場合と止めた場合を比べて、止めた場合の方が死人が多くなっているという可能性を否定するものではない。その可能性は検証不可にしても凡その確率で真だろうし、その確率を否定して議論が進まないことは重々承知している。ただ、では仮に経済を止めたとして餓死なり自殺なりが発生したとして、その原因帰属として経済の停止を掲げるのは正しいのだろうかという議論に関し、経済を止めたというあたかも直接的な原因の顔をした何かが、実はただの媒介変数の一端であるというこれまた正確な表現を、人々は積極的に忘れようとはしていないだろうか。


分かりやすく言えば、例えば、経済の停止から自殺に追い込まれた飲食店の経営者の場合を考える。実際、とんかつの店で油を被って亡くなった男性がいる。


www.tokyo-np.co.jp


この男性が亡くなった原因を「感染拡大の自粛要請」と考える人を、僕は信用しない。


この例で言うのなら、男性が亡くなった理由は「全身やけど」でしかない。それ以外に死因というものを定めてはならないと考えている。しかしこのニュースを見た人々の多くの考えは「過度の自粛要請の被害者」となるのだろう。分からなくはない。何も罪のない男性を追い詰めた何かを探した末に人々が最も納得できたのが「自粛要請による絶望」という器なのであり、しかし器にすぎないそれの中に本当に何が入っているのかといえば、火傷を負い体が機能しなくなったという淡々とした事実のみである。


日本において死因というものの究明は遅れていることがよく指摘される。日本において遺体の解剖率は2%を切っており、チームバチスタで有名な海堂尊も、死因不明社会を変えるべきがAIであるということを言っている。



人々は死因というものを軽く考えているのではないかと思うことがよくある。死因とは、それが原因で死んだと口にしたとき、それがなかった場合に必ず生きていることが保証されているべきなのではないか。


例えば、「人類は自殺をするが猿は自殺をしない。だから自殺する原因は我々が人間だからだ」とでも誰かが言い出せば、いやいやそれは、と待ったがかかるのは当然だろう。このとき人々が何に違和感を持っているのかといえば、それは「自殺をしない人類も多く存在する」という、反例の多さである。しかし上のとんかつ店の男性の自殺に関しては話が変わる。自粛要請を聞いて絶望し、自殺をしない人間が多数を占めるにもかかわらず、社会的な死亡の原因は「自粛要請」と判断される。


しかし何度も言うように、これは直接的な原因ではない。この《自粛要請⇒(ⅰ)⇒絶望⇒(ⅱ)⇒全身火傷⇒(ⅲ)⇒死亡》という流れにおいて、全人類がその流れに従わねばならない矢印はただ(ⅲ)のみだ。それ以外には、全て身近なところにゴロゴロと反例が用意されている。


もちろん、この議論がかなり曖昧なことは重々承知のうえである。例えば全身やけどを負ったといえ一命をとりとめる可能性はあったわけだし、自粛要請による男性の絶望も自分の計り知れないものでっただろうから、そうした心理的な作用も避けられないものであるはずだという意見もまた正しい。だから今回議論したいのはそこの正誤ではなく、ただ、原因を語るときに、その先に派生の選択肢があるにもかかわらず「それが死因だ」と口にすることの恐ろしさでもある。

「弱い者いじめ」という言葉


少し話は横に飛ぶ。


教育現場でのいじめ問題が取り上げられるようになったのは1990年頃のことである。ここで新しく作り上げられた造語のひとつに「弱いものいじめ」というものがある。


www.mattsun.work



「弱いものいじめ」という言葉は、それ単体として使用するのであればなんとも恐ろしい言語なのだ。なぜかといえば、一人が一人を虐めている様子を見たときに、「あ、弱いものいじめだ」と言ったとき、明らかになる情報は、発話者が「その構図をいじめだと認識した」という事実に加え、「いじめられている人間の方がいじめる側より弱い人間だと考えている」という事実でもある。では虐められている人間がどちらの方が心にくるかというとそれは後者であり、「あ、自分は弱い側なのだ」という言葉にされていなかった認識を、わざわざ言葉で形にされる恐怖を付加するだけの二次的な加害になる。


そしてそうした言葉がやっかいなのは、この言語が使われるとき、話者が正義の皮を被っていることが多いからである。


小学校によくいたシャキシャキ系の学級委員がまさにそうである。ちょっとの乱暴を見て「先生!弱いものいじめです!」みたいなタイプ。悪を許さない純粋な正義感に見えて、しかし、その構図に対し「A君の方がB君より弱い」と口にしているのはその学級委員だけなのだ。例えば僕は、他人にちょっかいをかけずにはいられない人間の方が弱いのだと捉え、これを「強いものいじめ」と表現すれば、いじめと呼ばれるものの数は減るのではないかと考えたことがある。「弱いものいじめ」という言葉は何を語っているかといえば、「いじめられるのは弱い者である」という事実で、それは形を変え「弱いのだから虐められていても仕方ない」という認識を統制する。いじめられている子からしたら、そっちの方がはるかに辛い。「強い者いじめ」が流行っているクラスでは、いじめの痛みは幾分もましだろう。もちろん、そのいじめの限度による。しかし「強い者いじめ」と表現した瞬間いじめるほうが弱いわけだから、そもそもいじめに手を出したくなくなる。

経済を止めると人が死ぬ。この発言、いりますか。


自粛要請をすれば当然経済が滞る。経済が滞れば、それにより生活が苦しくなったと感じる人間がいる。しかし、それにより死ぬ必要はあるのだろうか。答えは断じて否なはずである。もちろん、実際に自粛要請で死ぬほどの思いをしていない自分にそんなことを語る資格がないことは分かっているから、そのことについては何度でも断りを入れる。しかし、国の要請の政策で行われた自粛要請で苦しくなる生活には、また別の政策により救われるべきだ。


僕たちが声を大にして訴えるべきはそちらなのではないだろうか。


それは決して、「経済が止めると人が死ぬ!」と、その人の心情を何も知らない外野たちがせいぜい納得できる何かを取り上げてそれを勝手に原因に仕立て上げることではなかったのではないか。ではその言葉は誰を救うだろうか。経済を止められることでひっ迫する生活、それは本来恥ずべきことでも絶望することでもない。別の政策により平等に救われるべき事由であり、そこにわざわざ、それまで誰も口にしていなかった「経済を止めることは人が死ぬ原因として正しい」という概念を言葉にすることが、「弱いものいじめ」が言語化されたあのときと似た構図に見えて仕方ない。


我々が主張するべきは「経済を止めると人が死ぬ」ではなく「経済を止めることで死ぬべき人はいない」なのだ。声にすべき情報を我々は誤ってはいないか。弱い人を救いたいなんて声高に掲げているつもりで、そいつは弱い奴だ、と言っているだけになっていないか。経済を止めると人が死ぬから何とかしろと声高に掲げているつもりで、ひっ迫した財政状況に今もなおいる人たちが死に踏み出そうとするその垣根を低くしているだけになっていないか。


断言できるのは、そいつは弱いわけでもなければ、経済を止めても人は死なない、その二点のみ。


それを表現し、策を考えるべき一番のタイミングで、発言していく情報をしっかり探りたい。