『『だから僕は"人生"をやめた』』【後編】

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前編で話したのは、我々は恋愛ではなく失恋なのだということだった。


それを、ヨルシカの曲に重ね合わせ、そこにひとりの人生を投影してみたいと思った。

『だから僕は音楽をやめた』の歌詞に見てみる


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歌詞を全文載せておく。

考えたってわからないし
青空の下、君を待った
風が吹いた正午、昼下がりを抜け出す想像
ねぇ、これからどうなるんだろうね
進め方教わらないんだよ
君の目を見た 何も言えず僕は歩いた

考えたってわからないし
青春なんてつまらないし
辞めた筈のピアノ、机を弾く癖が抜けない
ねぇ、将来何してるだろうね
音楽はしてないといいね
困らないでよ

心の中に一つ線を引いても
どうしても消えなかった 今更なんだから
なぁ、もう思い出すな

間違ってるんだよ
わかってないよ、あんたら人間も
本当も愛も世界も苦しさも人生もどうでもいいよ
正しいかどうか知りたいのだって防衛本能だ
考えたんだ あんたのせいだ

考えたってわからないが、本当に年老いたくないんだ
いつか死んだらって思うだけで胸が空っぽになるんだ
将来何してるだろうって
大人になったらわかったよ
何もしてないさ

幸せな顔した人が憎いのはどう割り切ったらいいんだ
満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感

間違ってないよ
なぁ、何だかんだあんたら人間だ
愛も救いも優しさも根拠がないなんて気味が悪いよ
ラブソングなんかが痛いのだって防衛本能だ
どうでもいいか あんたのせいだ

考えたってわからないし
生きてるだけでも苦しいし
音楽とか儲からないし
歌詞とか適当でもいいよ
どうでもいいんだ

間違ってないだろ
間違ってないよな

間違ってるんだよ わかってるんだ
あんたら人間も
本当も愛も救いも優しさも人生もどうでもいいんだ
正しい答えが言えないのだって防衛本能だ
どうでもいいや あんたのせいだ

僕だって信念があった
今じゃ塵みたいな想いだ
何度でも君を書いた
売れることこそがどうでもよかったんだ
本当だ 本当なんだ 昔はそうだった

だから僕は音楽を辞めた


はじめ、音楽に興じたのは純粋な理由だったのだろう。「進め方を教わらない世の中」で「君の目を見た」からこその音楽だった。最後で「何度でも君を書いた」と告白されるのが切ない。主人公にとって、音楽とは「君を表現する」こと自身だった。手段ではなく、目的だった。


そしてその音楽が、いつしか「何某かのための手段」に変わることを予見してしっかりと恐れている。「将来、音楽はしていないといいね」と。こんな人生がいつまでも続かないことを知っている。知っているというか、片足はその世界にすでに浸っているのかもしれない。音楽の歌詞に幾度となく書いたはずの「愛」も「救い」も「優しさ」も「人生」も、その全部に「根拠がない」ことを知っていて、それが「気味が悪く」て、音楽をしたせいで人生の歯車のパーツが外れたような居心地の悪さがしっかりとある。それは音楽を突き進むことで「夢追い人」と揶揄されることにしてもそうだろうし、音楽で生きていける人間がごくわずか少数であることも知っているから。自分の思うように生きることが社会の正解ではないと知っているから。


生きてるだけでも苦しいし、音楽とか儲からないし。


だから正しさに逃げ込んだ。ずっと歌詞に書いてきたはずの「君」が、いつの間にか、自分に「正解とは何か」を問う邪悪な存在になった。「正しい答えが言えないのは防衛本能だ」と、そんな歌詞に惚れずにはいられない。おかしいよな。愛を書くために見た君の瞳が、いつしか防衛機制の対象になる。どこからこの人生は狂ったんだと叫びたくなるようなもどかしさを感じずに、この曲に耳を澄ませることができるだろうか。

音楽による世界のシャッフル


前編で、マッチングアプリが籤箱の中身をシャッフルしたという話は既にした。異性の獲得という観点で箱の中をアタリばかりにしたことで、ハズレを引くことへの羞恥心を莫大なものにしたという要約になる。


この『だから僕は音楽をやめた』において、恋愛工学におけるマッチングアプリの役割を担ったのは、まさに「君」なのではないかと思わずにはいられない。初めはそれが音楽の理由だったのだ。しかしいつしか、何度となく書いた君がそこにいるせいで、正解とは何かを問われているような「劣等感」に苛まれる。マッチングアプリも、それを使ってもなお異性と出会えない人間に、同じような「劣等感」を抱えさせてやいないだろうか。愛とか人生とか、そんな耳に甘美に響くスローガンは、残念ながらその劣等感の特効薬にはなりえない。


だったら残されている選択肢は、やめる、それがどうして不自然だと言えるだろう。


この主人公にとって音楽が自分を加害する可能性のあるものだと気がついたとき、そしてそれを放棄するとき、それは「愛」も「人生」も「優しさ」も「救い」も、その全ての表現をする享楽を放棄することを意味する代わりに、自分を絶対に傷つけない未来のみが約束される。籤を引かなければハズレを引かないという、当たり前で完璧なほどに合理的で、しかし何も面白くない世界に逃げ込まないとやってられない世界が真の意味で楽しい場所だなんて、口が裂けても言えやしない。


ここまで書いて、僕は、自殺、そして反出生主義を想起せずにはいられない。

だから僕は"人生"をやめた


今まで、自殺について研究し、色々と考えた中で、自殺を唯一、合理的で素晴らしい選択だと感じるのは、その先の不幸を完全に消せるという点においてのみだ。それ以上の苦痛はない、それが曇天から射した一筋の光のように見える瞬間というものがある。音楽をやめたときの主人公がそうであったように。マッチングアプリで沼にはまるなら一人の時間の方が気楽だと感じるときのように。自死遺族の話を聞いているうちに、この地獄からは早く抜け出した方がいいのではないかと思った、あのときの自分のように.........。


それ以上、苦しまなくていいというのは、人生をやめるにはあまりに十分な理由だ。


技術の進歩と情報社会は、ますます失恋の恥をより苦痛なものにしていくだろう。情報社会は、我々の「知る権利」をより豊かにするものだと思われてきたのかもしれないが、その加速により、それらは「知る権利」を豊かにするのではなく「知らないでおく権利」を無慈悲に剥奪していくことにも変わらない、その恐ろしさにどれだけの人がストップサインを出せるだろうかということを最近よく考える。我々の生活には何ら関係のないLGBTに「理解」を示そうと甘美な策を打ち立てる者も、コロナウイルスの抗体が既に体内にあるかもしれないのに陽性反応が出ただけで濃厚接触者と隔離される世界も、知ることと知らせることの不幸な副作用を全面的に見せられているようで悲しくなることがある。


『だから僕は音楽をやめた』は、そんな冬景色の中で、滑って怪我をするかもしれないからという理由だけで少しの雪合戦も躊躇うような時代にまみれる苦悩を歌った、唯一無二の名曲なのではないかと思う。