『『だから僕は"人生"をやめた』』【前編】

『だから僕は音楽をやめた』というのは、ヨルシカという音楽グループの曲だ。もう3年前の曲だが、ひょんなことから知ることになり、初めて聞いたとき、ああこれは、本質の曲だ、そう感じてしまった。


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だから僕は音楽をやめた。それは、ただ歌詞の主人公目線で音楽という芸術活動に終止符が打たれるという意味だけではなく、他のいかなる芸術活動に勤しむ人間もいつしかそうなる可能性があるということを歪みなく直視させるものであり、ひいては、音楽という一つの娯楽としてのツールが人生の中途で意味を変えることへの声にならない訴えが聞いてとれる。音楽とは何だろうか。どれだけ音楽に関わっていない人生であろうとも、今を生きる人にとってこの歌詞における「音楽」のような位置を占める何かがあり、そこへの共感と感情移入を促す名曲だ。

現代人がやめたのは恋愛ではなく失恋である


お決まりのごとく、まず話を横に飛ばす。


この先の日本において、人口は減っていくのではないかと予想する。もちろん予想の範疇を出ないわけだが、出生率の低下、未婚率の増加、それに今のコロナによる隔離政策が拍車をかける。この状況下で子供を産む人間の数は減っていくのではないか。さらに少子高齢化は進むと思われる。


このコロナ禍において、最も変わったのは「出会い方」というものではないかと感じる。まずネットを介して出会う、それはマッチングアプリの普及にしてもそうだし、僕たちの世代から分かりやすい例で言えば、大学のコミュニティ(サークルや部活)で新入生の勧誘を行うとき、Twitterを介してまず話を聞くことやZoomで話してみるということが主流になった。気になるものはまず自分の目で確かめる時代は遠ざかっている。僕が大学に合格した翌日に、ずっと入りたかった部活動の練習を見学しに行った、そんな光景はしばらく見ることがないのだろうな、とも思う。


これはあらゆる場面においてそうである。人の所属欲求は消えることがないとして、ではその所属欲求をより安泰なものにするツールは、自身の眼球ではなく、ネットから簡単に得られる他者の評判となった。恋愛市場において言えばマッチングアプリであり、性格等を入力することで「あなたとの相性度は何%」のような統計技術まで介入し始めた。大学のコミュニティで言えば、その所属の関門は先ほど書いたようなTwitterに始まるSNS社会であり、飲食業界で言うなら、食べログがその役割を担っている。そうした風流の中では、何を着飾るべきかという価値観に誤謬が発生していく。恋愛工学で言えば、マッチングアプリでよりよく映えるような美容整形や写真加工(SnowやInstagram)が流行るのは当然の流れだし、ある大学の部活団体のSNSで言うならば「私たちはこんなに仲がいいんです」というアピールをするための部内旅行などの団体写真などを投稿してその輪を強調するような印象操作に重きが置かれ、飲食業界についても言及するのなら、料理がいかにおいしそうに撮られるか、また店内がいかに綺麗か、が重要視される。


そこでは、見た目が美しいという事実があたかもそれが本質の情報だと言わんばかりに正義の皮を纏う。


本来それは、その行為に踏み出す上で大して関係がないということは少し考えるだけで分かることである。例えば、ある人間と恋愛をし、結婚まで見据えて長い付き合いをするのであれば、マッチングアプリで紹介されるような表層の特徴よりもその本質を見極める目力が問われるべきだということにはほとんどの人が納得できる。もちろん、表層の重要性は皆無だという極論に持っていくつもりはない。出来る限りの清潔感というものは必要だし、それがあってこその本質だ。外見は一番表面の中身だとはよく言ったもので、自分をどのように見せるかに思いが至らない人間は魅力的でないながらも、しかし今のように、美しければオッケーというのもまた極端で、外見が美しいものがその理由だけで蔓延り、外見が汚いものがその理由だけで絶滅するのはどうも寂しい思いがする。屋台というものを見たことがない幼い子が多いように、そこで提供される味の本質、おでんのあったかさ、おっちゃんの乱暴だが愛のある言葉遣い、そうしたものは外見主義文化にどんどんと破壊されていく。


しかしそうした世の流れを踏まえたとき、出生率が低下し、未婚の人間も増加しているこの現状をどう説明するのか、という話になる。その疑問は尤もで、なぜかと言えば、マッチングアプリはもともと、事前のデータもないまま実際に出会いに行くという面倒な手順を省くことで恋愛市場への参加を簡易化し、予めのデータをもとに統計をとることで恋愛の成功率を高めるツールであったはずだ。我々はより安定した恋愛を試みようとした結果、事実はその真逆に向かったというのが面白い。なぜ、恋愛を強固にするツールは人々から恋愛を剥奪したのか。


そこから僕は一つ言えることがあるのではないかと思う。


マッチングアプリは、人々から「恋愛」を剥奪したのではない。人々から「失恋」を剥奪したのではないだろうか。僕たちは恋愛ではなく失恋を避けていると言った方が適切である気がしてならない。


何の事前データもないままに誰かと偶然出会い、そこから交際を始めるとして、しかしそのとき失敗ありきであることは誰もが分かっていることだ。結婚相手の籤を引き続けていきなりアタリが出るなど誰も思っていない。ある程度ハズレの籤を引き続け、そこではじめて自分にとって"ハズレ"となる人間の特徴が分かってきて、そこでアタリを見つける選人眼が養われていく。しかし今のマッチングアプリとは人々にとって「初めからアタリを出してもらう装置」なのである。今までは、箱の中には十本の中に一本だけのアタリが入っており、アタリを引くまで引き続けろ、ハズレを引いているうちにアタリの籤の手触りが違うことにも気がついてくるだろう、そうしたメッセージ性があった。しかしその籤箱の仕組みをマッチングアプリが覆す。マッチングアプリは籤箱の中身を、九本のアタリと一本のハズレに変えた。このツールを使えば相性が分かる、と、本来は人の手で築くはずだった段階が省略され、あたかもアタリばかりの籤箱のように見せかける(蓋を開けるとそんなことはない)。


その籤箱を振るとき、人々の心に植え付けられる感情の影響は主に二つではないだろうか。第一に、アタリを引くことの達成感が剥奪されること。第二に、ハズレを引くことの羞恥心が膨大になること。これが重なることは、失恋の剥奪にはもってこいの条件ではなかろうか。十本に一本のハズレを引くとは、つまり、マッチングアプリに課金を続けながらも求める異性に出会えないというような状況をさす。今までは「ヒトのことが事前にわかるわけがない、当たって砕けろ!」とその失恋自体が上手く許容されていたが、今では「マッチングアプリという文明の利器を使ってもなお彼女ができないあいつ」と、失恋の羞恥心を膨大化させたせいで、一本でもハズレが混じっているのなら初めからその籤を引かないという選択肢がクレバーな時代に突入しているのではないだろうか。


よく考えたら当たり前の話で、性欲や異性への自己顕示欲がヒトの体からいきなり消えるなんてことはなく、従って恋愛の欲求は一定と考えた方が自然だ。技術の進歩により、我々が操作されているのは、恋愛への欲求ではなく、失恋に対しての羞恥心だったのではないか。


これは、『現代人は恋愛ではなく失恋をやめた』と表現するしかないと考えた。


さて、話が横に飛んだので戻すと。


ヨルシカの『だから僕は音楽をやめた』の歌詞を見ていると、主人公が歌の最後でやめているのは、今まで書いた中での『恋愛』に位置する概念ではなく『失恋』のほうの概念なのではないか、と思えてくるのだ。


この主人公にとって"音楽"とは"失恋"なのではないか。いや、正確に言えば、音楽という芸術が、幼いころは「恋愛」だったにもかかわらず、年を取るにつれて「失恋」へと姿を変える、そんな物語なのではないかと思わずにはいられない。


【後編】に続く

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