「報告」の時代性とTwitter観について

Twitterをやめようか、と思い始めたのは今年に入ってからでした。月岡晴馬の名義でのアカウントは、たまに読んだ本を写真で撮ってあげるのを除いては、書いたこのブログの記事のアップロードを主な目的としていました。


それをやめたいと思うのは、SNSにそれらを投稿して得られるメリットと、Twitterがあるせいで感じる疲労を天秤にかけたとき、後者の方が上回るようにずっと感じたからです。





Twitterは中3のときからやっていた


初めてツイッターを使用したのは確か中3のときでした。周りがやっていたので自分もなんとなく。それ以外の用途なんてありませんでした。適当に文字盤をフリックしたら「やつま」という三文字が出てきたのでそれをアカウント名にし、学校の同級生とフォローしあって、部活の同級生の愚痴を吐くなり、テストの恥ずかしい誤答をネタにして写真投稿して、とか、そんなくだらないことばかりに時間を使っていました。周りもそうでした。Twitterとは仲間内で盛り上がるためのツールにすぎず、匿名で140文字制限の文章を社会に自由に放てるツールが自分にとってどのような意味を持つのか、そんなことを考えたことは一度もありません。


大学に入ると、Twitterは形を変えました。大学では、学部入学時に工学部建築学科の同級生とフォローしあいましたが、まず、実名で鍵垢の人の方が多数派だという点に何より驚きました。僕の常識では、若者のTwitterは公開垢で偽名、だったので。僕も大学一年生が終わるころにそれに倣ったのを覚えています。


しかし自分はその後に転学部をして総合人間学部に移籍したので、僕のTwitterのアカウントは主に研究に関する情報収集用としての責務を果たすようになりました。情報収集ということは即ち自死に関することであり、この月岡晴馬のアカウントは、何人もの自死遺族をフォローしています。ちなみに月岡晴馬のアカウントは、転学部をした時の記事(このブログの1記事目です)を拡散するために開始しました。


一方、僕が実名の鍵垢にした本来のアカウントはどうなったのかと言うと、大学4年生の時にアカウントごと抹消しました。理由は簡単で、大学3年と4年の春の両方に強い希死念慮を抱いたので、死ぬなら自分の遺伝子(生物的ではなく文化的な意味での)は極力この世に残したくないと思ったことに由来します。ちなみに、僕が中3のときに作った偽名の公開垢はどうなったかと言うと、未だに健在で、鍵垢にはしましたが、高校の仲の良い同期と仲間内で娯楽を共有する数少ないツールとして息を潜めています。


まとめるとこうです。

中3のアカウント
⇒偽名の公開垢から偽名の鍵垢へ、現在も健在

大学の実名アカウント
⇒実名の鍵垢、大学4年で消滅

月岡晴馬のアカウント
⇒研究と広報用に使っていたが、つい先日に削除

「報告」という行為の時代性


さて、話は横に飛びます。


松任谷由実の曲に「ルージュの伝言」という曲があります。世代ではないし『魔女の宅急便』も見たことがないのですが、その歌詞を読むと、今の世代からは考えられないような価値観が歌われているのが分かります。

あの人の ママに会うために

今ひとり列車に乗ったの

黄昏せまる街並みや車の流れ

横目で追い越して

あの人はもう気づく頃よ

バスルームにルージュの伝言

浮気な恋をはやく諦めない限り

家には帰らない

不安な気持ちを残したまま

街はDing-Dong遠ざかってゆくわ

明日の朝ママから電話で

叱ってもらうわ My Darling


www.youtube.com


なんていい曲なんでしょうか。心を奪われましたね。


この歌い手の女性の旦那が浮気をしているというのに良い曲とは何だと言われるかもしれませんが、そんなことはどうでも良くて、この曲から感じるべき第一の趣向は、自分の苦痛の報告に必要とされる「距離感」と「対峙感」なのではないかと思います。


奥さんが、旦那の浮気を、その旦那の母に報告しに行っているわけです。電車で。その歌を聞いているだけで、車窓から見える遠ざかる街の景色まで思い浮かべられるようです。そして、その報告を受けてママに叱ってもらうのは、今日ではなく、明日。


今では考えられないでしょう。先ほど「距離感」と「対峙感」と言いましたが、Twitterはその両者を剥奪しているのではないかと思います。ネットを使ってすぐに連絡が取れるというのに、わざわざ電車なんて使う人間の方が少ないでしょう。「対峙感」というのは僕の造語ですが、旦那に直接「浮気をやめろ」とは言いづらいだけに「旦那のママ」という二次的な加害者が選ばれ、二次的ではあるが旦那の致命傷になるであろう「ヒト」という存在と対峙している感覚もきっと今になっては薄れ、現代では、あいつは浮気なんていう汚らわしいことをしている、とネットで拡散してやるほうがはるかに致命傷です。旦那のママという有機的な報告相手は、今はTwitterを始め、文春などのマスコミという無機的な架空の生き物に代わっています。


僕が『ルージュの伝言』を聞いて安心感を覚えられるのは、自分の居場所を報告するための「距離感」と「対峙感」がしっかりと代償として伴っていた時代、それを心地よいだろうな、と思えるからです。もちろん、僕がその時代に生きていたら、旦那のママに報告するなんて陰湿なヤツ、とか思うんでしょうけど。

「距離感」「対峙感」がない


月岡晴馬の名義のTwitterは辞めようと思ったのは、それを剥奪されたツールと自分の人生観がいいようにマッチしていないからだろうか、なんてことを思います。今まで考えてきたテーマが「自殺」であるだけに、自らに向けられる世界からの視線を忘却させる願望という心理を、「距離感」と「対峙感」の薄れたツールで発信するということがどうも矛盾のように思え、そこに対する違和感を未だに拭えずにいます。「死にたいと思うのは生きたいと思っているからだ」とか言う人って僕はかなり軽蔑するんですが、生物的に生きたい体が精神的に死にたいことが苦悩になるわけで、その肉体と精神を切り分けて考えられない思考は自殺を案ずるには浅はかだと思うように、自殺という自己消滅の具体性をTwitterで見てくれと主張することが、肉体的な苦痛と精神的な苦痛の間の溝を狭めるツールのように感じるんですよね。


読みにくい文章になったと思うのですが、簡単に言うなら、矛盾する二者間にはしっかり距離が欲しいということ。生きたい体と死にたい心を同時に抱えるのは辛いからその二者間に距離をくれ、と思うように(だから「死にたい」と「生きたい」を同時に包摂されることを嫌う心理がある)、覚えておいて欲しいためのSNSと忘れて欲しいための自殺欲求にも、同じように、距離が欲しいのです。


その点、このはてなブログが僕の考えの掃き溜めになっているのは合理的なのだろうな、とも思います。僕にとってこのはてなブログとはまさに「距離感」の象徴なのでしょう。Twitterとは違い3~4000文字を体裁の整った文章(もちろんまだまだ未熟な文章ですが)にしてから、それをフォローとフォロワーという概念のない空間に放つということ(読者機能はありますがTwitterのような簡易性とは異なるものとして解釈しています)。それはきっと『ルージュの伝言』に歌われる時代背景と似たようなものがあるな、と思うわけです。メールなんかを使わずに電車で報告に行く女性と、短文ではなくブログで長文にまとめないと居心地の悪い自分。「明日に叱ってもらうわ」と構える女性と、誰が読んでも読まなくても、必要なときにこれが誰かに届けばいい、と思っている自分。共通するように思うのは即効性の放棄であり、手短に誰かの感情を揺さぶる能力に欠けるぶん、利便性と共に捨てられがちな「距離感」と「対峙感」を伝えられる性質があるのでしょう。両者には両者のかけがえのなさがあるわけですが、Twitterというツールのかけがえのなさと自分は、どうしても分かり合えない気がした次第です。


Twitterは辞めようとも、このブログはやめないと思うので、収益もPV数も減るとは思うのですが、もし気の向くときにチラ見してくれればそれで本望です。