衝突を伴わないリベラルからの逃走

先日、電車内でタバコを吸っていた男の傷害事件があった。


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加害者は当然逮捕、重傷を負った男子高校生には気の毒だと身を案ずる声が多数寄せられた。


その中で、この男子高校生を「勇気ある行動だ」と讃えるコメントを散見するが、どうしてもそれに対する懐疑的な視点がある。本当に気の毒な事件だとは思うけど、でも、この男子高校生を無謀にさせたのは、僕たちの無責任な自由論なんじゃないかな、と、、、。

リベラルが衝突を伴わない時代になった


なぜ国民の多数がこの男子高校生を「勇気ある少年」と讃えるのだろうか、と考えたとき、そこには、今の日本と言う国で、リベラルという概念の形が変わりつつあるからではないかというのが今の自分に出せる限りの持論だ。


自由ではなくリベラルという表現をしているのはその本末転倒さを揶揄するための皮肉のような表現だが、なぜ皮肉るかと言えば、リベラルがそのリベラルとしての意義を自ら消失させているシーンを多く見かけるようになったからである。特にネットでの男女差別に関する議論はその代表として取り上げることができるだろう。駅の広告に女性の肌の露出の多い画像が貼られているだけで苦情がくるし、ドラえもんの映画『スタンドバイミー・ドラえもん』にて、しずかちゃんの苗字が「野比しずか」になっていただけで夫婦別姓派が怒りだす始末。


このような風潮は、リベラルという概念が一周回って自虐行為を行っているとしか思えない。


自由とは本来、恐怖の対象であった。「何をしてもいい」「君は君の思うようにすればいい」という言葉は今の時代では温かい言葉のように思える一方、そこには信仰対象を一切排除することで先の見えないマラソンに参加するような口渇感を同時に与えるものでもあり、それから逃れるために先人が用意したのが「宗教」であろう。「神はこのように言っている」という不文律はそれ自体にどれほど意味がなかろうと(豚肉を食べないことによる直接的な利益はない)、誰かの命令に従うことで行く先を見失わず生きるという意識操作が可能になった。もっと言えば、信じるものがないと生きていけない人間という人類のひ弱さを一番に理解できている時代でもあった。


しかしニーチェの言う通り神は死んだ。神という存在は個人が一から自分の中に作りださないといけないものになり、その神の性格の違いでいがみ合う社会になるのは当然の流れだ。そしてそれを、民は「自由」と表現した。各々の思うように行動規範を決められる時代である。


ではその自由は何を担保に守られるものなのだろうか、と考える。それは―日本の中では―「わびさび文化」だろうというのが自分の意見だ。わびさびという言葉は「侘しい」「寂しい」という言葉から来ているように、侘しい、寂しいように見えてその性質の奥深くには別個の美しさが隠れていることを見出そうとする文化自体のことをさす。謙遜文化、恥の文化、建前文化、と言ってもいい。日本は本音を徹底的に隠し、自分から意図的に開示することを避け、その代わり自分の本質は相手に探って引き出してもらうことを意図する文化で成長した国だ。その国の自由が「本音を相手にぶつけること」で約束されるとはどうしても思わない。


例えば先ほど例に挙げた「野比しずかに怒り出す人々」というのは(当人の思考回路を知らないので勝手な想像だが)、簡単に集約するのであれば、「女性を型にはめるな」「女性を男性の付属品と捉える檻から解放しろ」という意見になるのではないかと思う。そしてそれをきっと当人たちは「あくまで当然の、自由の権利の主張」と捉えているのだろう。このような主張をする人間の望む世界は女性に対する加害性の一切ない世界であり、それは即ち、世の人間が女性に対して何も発言しなくなる時代である。要するに議論による調停を前提としていない。自分が望んだ世界になることでの調停しか見据えられていない時点でそのリベラルは他者のリベラルを侵害するだけの自虐装置だ。

それが"正しい"ように見せかけられている


マイノリティが声をあげることは重要である、ということに異議はない。しかし、その声をあげるという行為自体に対し、それは衝突を伴う責任を負ってしかるべきだ。そしてその衝突の末に待っているのは議論による調停であるのも間違いない。そこの「議論による調停」こそが、日本では「わびさび」なのだ。「野比しずか」という名前を見せられて、女性が型にはめられているようで苦しいが、姓を揃えることで夫婦の喜びを感じる誰かの幸福を奪うわけにもいかないという建前でしか議論は終わらない。願わくばこの世の夫婦の全てを別姓にしろという本音のみの主張がリベラルではない。


しかしそれがあたかも真のリベラルかのように見せかけられている時代が今なのではないか。LGBTなどを始め、マイノリティとされる立場側の意見が認められていくたびに、それは「少数派でも声をあげていい」という風潮になり、さらに「少数派は自分の意見を認めさせる正当な権利を持つ」という考え方へ変化する。それは衝突を伴わずして自己意見を押し通したいだけの無責任な偽のリベラルであり、そこには心を鬼にして鉄槌を下しておかないといけないのではないか。その良い例が、今回の電車内での暴行事件でもあったのではないかと思うわけだ。


電車内でタバコを吸っているというだけで"やばい"奴だと人々は認識するだろう。そこでこの人間に「タバコはやめてもらえないか」と注意しに行くその"リベラルの主張"は、その衝突を負う責任まで含んでリベラルである。男子高校生は、「おう、分かった」と男が煙草をしまい大人しくなることしか想定しなかったから男に近づいたのではないだろうか。電車内でのタバコをやめて欲しいと思う心は純粋だけに、「不快なことは相手に言っていいし、その先にはあなたの望む未来が待っているよ」というような偽のリベラル文化がそれを加速させただけのような気がする。しかし真実はただ一つで「あなたは意見を言ってもいいが、その末に待つのは不本意な形での議論による衝突と建前の調停である」ということのみだ。今回の事件で、男子高校生は加害者に暴行を受けただけではない。「話せば分かり合える」というおめでたい多様性で溢れる偽のリベラルに傷つけられたとも言えるのではないだろうか。

自由からの逃走


ちなみに最近読んだ文章で、このような状況を書いているのがエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』である、と言っている人がいたのは面白かった。フロムが言うのはつまり「ヒトは自由(=孤独)になると、そこから逃走するためにマゾヒストがサディストのどちらかに分極する」ということである。ああなるほど、と思わずにはいられない。


管理主義から個人主義へと推移しているという話は今までの記事でも耳にタコができるほど書いているわけだが、全体としての統一目標ではなく個人個人の理想を追わせる文化と価値観はずっと加速しており、現在のコロナ渦を見ていても、大っぴらな政策と言えばほとんどが人と人とを隔離するものだ。孤独と自由は紙一重であり、その末に待つのはサドとマゾの分極となるとフロムは言っている。例を出せば、自分はコロナの自粛でこれだけの人間関係が絶たれた被害者だという立場に没頭するマゾか、コロナの蔓延は何が何でも第一に防ぐべき最重要課題だとワクチンやら自粛やらを他者にも強要する啓蒙活動に走るサドになるというわけだ。コロナで拍車のかかる個人主義と人間関係性の剥奪により、かつて存在していた人間同士のつながりという財産を個人のキャラで埋める必要に追われたのが今の日本人であり、キャラを確立するには、意識の高い学級委員になるか、なんとも可哀そうな悲劇の主人公になるか、そのどちらかが一番手っ取り早い。今回の事件の男子高校生も、言い方は悪いのかもしれないが、孤独社会に埋没した末に共同マナーを説くサドである。


夏の蝉に「うるさい黙れ」と注意する人間などいないように、それは人間に対しても、「あの人間はいかに分かり合えない人間なのか」を理解すること、そのうえで「分かり合えないという絶望をどのような希望に転換するのか」という訓練が今後必要になるはずだ。蝉は恐ろしくうるさいが、あれが鳴き始めたら夏がきたなあなんて感慨にふけりながら、ただうるさいしおしっこもかけられるからあっちに行こうよ、くらいがちょうどいいのである。