想像もできない価値観の転換に【『殺人出産』を読んで】

えぐい本を読んでしまった。




村田沙耶香の独特の世界観が繰り広げられすぎて、思春期に読んだら多分病んでた。


一編目では、十人産めば一人殺せるという制度のある世界で、十人目の出産を終えた姉を妹が見守る。二編目では、カップルではなく三人組で付き合い、性行為も当然三人で行うというのが流行りになった時代で、ある女子高校生が、二人きりでの性行為を目の当たりにして発狂する。三編目では、清潔な結婚と題し、性を一切家庭に持ち込まない夫婦が人口出産を計画する。


そのどれも、そのような世界が訪れるかもしれないと考える人はどれくらいいるだろう。これを読んで嫌でも思い知らされるのは、自分たちの世界がいつそうなってもおかしくないということと、そして、我々が想定していないことは意識できないという、無意識領域に収納されていた恐怖の事実はいつでも無慈悲に引き出される可能性があるということ。

戦争と価値観


戦争と価値観の転換は密接に結びついているという話は以前にしたことがある。


www.mattsun.work
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実際、「ああ、いま国民の価値観は変わりつつある」と自分が感じたのは今が初めてだ。コロナに叫ぶ人たちを見て、日本国民はどんどん潔癖になってゆくのだろうと考える。人を傷つけないことは正義だという盾に守られ、代わりに誰も笑顔にできない臆病さが支配する世の中がくる。


最近、『初耳学』という番組で、面白い対談があったので引用する。

太田光「芸人さんによって考え方が違うけど、笑いはいじめそのものだって俺は思ってるんですよ。うちの田中がチビってことで笑いをとるわけだし、あいつが玉が片玉だってことで笑いをとるわけ。これいずれできなくなると思うんだけど。ただ、それっていいのかなって俺はちょっと思ってて。別に、そんな偉そうなこと言うつもりはないんだけど、いわゆるそこには、軽蔑や蔑みだけじゃなくて、田中がたとえばフリップをセットのなかで剥がそうとして手が届かないってときに、お客さんは笑うわけですよ。それは、決してね、彼の身体的な欠陥を笑ってるって見方をする人もいるけれども、愛嬌があったり、あるいは共感、そういうことってあるよね、うまくいかないことって、っていうその共感の笑いも同時にそこに俺は重なってると思ってるんです。そういうことで笑いをとってはいけません、って言ってる人たちは、人の失敗で笑ったことがないって言ってるに等しいんだけど、俺は人間は人の失敗で笑うもんだと」

林修「やっぱり、すてーんってひっくり返ったのは、笑っちゃいますよね」 

太田「それはだけど、軽蔑の笑いだけじゃないでしょ。そこには、あるあるそういうこと、俺も前あった、とかさ。今じゃあ、温かいお笑いとして、辛いもの食べて犬が変な顔するとかさ、赤ちゃんがミルクこぼして泣くとか、ああいうの見てみんな笑うじゃない。あれだって、僕らは大丈夫なことだと思って安心してるから笑えるけど、赤ちゃんや犬にとっては生きるか死ぬかの恐ろしさですよ。あれを笑っていいのかって話にまでいっちゃうんですよ、このままいくとね。そこまでいったときに、果たしてその世界が面白い世界になるのかどうかっていうのは、俺は果たしてどうなんだろうねって思ってる。単純に痛みを伴う笑いはいけませんっていう論理は、俺らから見たら乱暴だなと思うね」


なるほど、価値観の転換とは、かつての価値観に笑わなくなる、ということを示すのかもしれない。ガキ使すら放映できなくなった時代だ。ケツバットを見て笑う人より、何でそんな暴力描写を見せるのだと不快に思う人が増えた。その転換には戦争を挟んだことが多い。第一次、二次世界大戦はもちろんのこと、例えば小山田圭吾の事件のように、時代性の背景を無視したバッシングがその戦争を加速させるのではないかと思う。思い出せば、小山田圭吾をやや擁護気味に語っていたのも太田光だった。決して太田光は、小山田圭吾の行為を擁護しているわけではない。人は、ある閉鎖空間に閉じ込められるとそのような残虐な行為にも手を染められてしまうという、その「空気感」という環境の恐ろしさを擁護したのだ。

10人産めば、1人を殺せる。1人を殺した者は、10人を産む


一編目の『殺人出産』が、本作の半分以上を占める。タイトルにもなっている通り、一番力がこもっているのを感じる。


作品の中で、10人を産んだ者は、人口減少の世を救う英雄だと崇められ、逆に、10人を産んだ者に選ばれて殺された者も、世を救うための生贄として崇められる。逆に、許可のない殺人などの罪を犯した者は、人を世から減らした代わりに、人をこの世に生み出す使命を課せられる。そこで生まれた子供は「センターっ子」として引き取られ、どこかの家族に養子として引き取られる。主人公の従妹はこのセンターっ子であり、小学校の自由研究で、「この制度は本当に素晴らしい」と書く.........。


人間の行為の善悪の主体は、その行為自体にない。ジャッジは常に他人とその集合体である社会が行う。つい100年前におくにのためと言って特攻で死ぬ人たちがいたのを我々が想像もできないように、では100年後何が待っているのかと聞かれて、この本作のような状況が生まれていないとは口が裂けても言えない。本作において、かつての戦争のように価値観の転換における大きな役割を担ったのは、「人工授精の技術のめざましい進歩で、誰もが出産の意味でセックスをしなくなった(恋人同士のスキンシップとしては残っているという設定である)ことで人口が極端に減った世界」であり、「そうした閉鎖空間では1人を殺してでも10人を産む方が価値が高いと考える民意の集合体」である。


そこに、"今"の価値観を持つ我々がどれだけ納得できるかという要素は全くもって関係がない。彼らの時代には彼らの時代の正当性があり、その正当性を我々の価値観が崩すことは不可能だ。太田光だって、ダウンタウンだって、今の若者の潔癖的な考え方を前にしては、手も足も出ないのだろう。


今までは「正当性」というものは社会が担っていた。40年代は「こうすれば戦争に勝てる」、5~60年代はこうすれば住宅ローンが払える、その正当性に動かされるように人々が交わった時代から、「君たちが心地の良いように」「自分たちが納得できるように」と、理想を統一することを嫌う個人主義へ変わった。試合に勝つよりも、自分のベストを尽くすことを大事だと考える時代へと。

違う価値観は、笑って弔う


だからこそ、違う価値観を笑う必要性があるのではないか、と最近考えることがある。


違う価値観を、自分の価値観で落としこめて理解できるはずがない。小山田圭吾をオリンピックから降板させろとクレームをつける人種と太田光で話ができるとは思えない。どれだけ人口が減っていても殺人はいけないという主人公の同僚と、産刑に惚れる従妹だって、話が合うはずがない。


それでも価値観が一定などありえない世界、年上の人を敬うというのは、そうした価値観の転換を目の当たりにし、その価値観ごとに体を作り変えてきたことへの敬意であると思う。自分よりも年上の人たちは、それを笑ってきた人たちなのだ。今自分が信じているものがいつ崩壊してもおかしくない世の中で、その兆しが見えたときには傍観者にならざるを得ない状況を生き抜いてきた敬意を忘れずに生きることが、若者の使命であるようにも感じている。



最後に。

これは結構トラウマ本です。