自殺するより前に。光になるより前に。

自殺とは即ち速度なのではないか、と思うことがある。


観測史上もっとも速度を持つものは光とされている。自殺とは、光に似たようなものがある。


理系の一部の人間以外を置いて行く議論だが、相対性理論というものがある。あれは何を語っているかと言えば、光という速度の絶対性である。例えば、時速30キロメートルの車から時速50キロメートルの電車を見れば電車は時速20キロで走っているように見えるが、光(時速30万キロとする)に関してはそうではなく、時速10万キロの乗り物(現実的ではないけど)に乗って光を見ても光は時速30万キロでうごく。我々の直感には反するが、実験結果からはそう導くしかないらしい。相対速度という概念を地上で用いることができるのは、そこで議論する対象の速度が光に比べてあまりに遅すぎるから時間のゆがみを無視できることによるのだ。


と、話はこの辺でやめておく。その詳しい機序は知らないので。


だとしたら自殺は光ではないだろうか、と思うことがある。僕には自殺という、有利な生態を手に入れる長い進化の末に出来上がった人間という生物を説明するにはあまりに不可解な現象は、このように相対的な議論から遠ざけることで初めて成立するのではないかと思うからだ。

速度としての魅力


人は速度に魅力を感じることがある。『スタンド・バイ・ミー』という映画はそれをよく物語っている。死体を見つけに線路を歩き辿り着こうとする主人公一行をよそ目に、それを嗅ぎつけた不良軍団は車でいとも簡単にそこへとたどり着く。それを見ると、大人になることで速度を獲得することへの欲望と一種の寂しさを揺さぶられずにはいられない。分からない人はすみません。


では速度に魅力を感じるのは、なぜなのだろうか。


やはり、生きる時間で余暇を占める割合の増加につながる、ということが言えるだろう。車でどこかに行くより、徒歩でどこかに行く方が、早く起きないといけないのが嫌だ、という、それだけの話である。しかしそこには二つの意味があるのではないかと思う。


第一に、誰々より早い、という意味だ。これが『スタンド・バイ・ミー』という映画の意味する速度でもあると思う。大人になることで速さを獲得することは、子供のあの頃の自分よりも速い、もしくは、ガキのあいつよりも速い、という点において魅力を持つのだ。速いという表現はそもそも誰かとの比較対象がない限り、速いという概念を生みださない。そしてこれは「健康的な速度」と呼んでいいのではないかと思う。なぜなら、そこには明らかな、速度の獲得の示準があるからだ。子供の頃には徒歩の手段しか知らなかったのなら、自転車に乗れるようになるという既成の示準がそれを踏み台にする。


しかしそうではない速度がある。それが第二の、所謂「不健康な速度」と呼んでもいいかもしれないもので、一つ目の「誰々よりも速い」という意味ではなく、「絶対的に、スキップ機能として"速い"」という意味である。僕は、これが自殺なのではないかと思っている。光という物質が誰から見ても同じ速度であるように、自殺という物質も、誰かと比べて決まる類の速度を持っていないのである。そこにあるのは、ただ人生の残りをスキップできる、という絶対的な速さのみだ。僕はこれに魅力を感じることがある。魅力というか、合理的だ。人生をスキップしないことで加算される可能性のある不幸は絶対的に悪だが、スキップすることで奪われる幸福はそれを知る主体が存在しないのだから悪にならない。僕は、一個人として生命を考えるならば明らかに合理的なこの"速度"に惹かれることがある。なぜ生きているかと言えば、自分と関わる誰かとの生活を含めて考えればその合理性は破綻していくからだ。関わりという誰にもあるように思っているものがないと感じれば感じるほど、自殺というのはいつだって合理的だ。


自殺の話ではなくてもいいかもしれない。例えば、やけ酒。


やけ酒の目的も、絶対的な速度への魅力にある。酒を飲むことで頭を朦朧とさせ、そのままコクコクと眠る。冷静でいれば考えてしまう頭の機能を無理にでも抑えるということは、誰かと比べてどこかに辿り着く際の速度を持つことではなく、ただ自分の人生において、ある通過点なしに少し先の時間へとスキップするための速度に惹かれているということだ。実際、僕も、自死遺族の方に、精神状態が悪いと告げたときに「酒を飲め」とアドバイスされたことがある。「お酒で何も考えず一晩を明かすだけで有効だ」と。僕は「それは少し時間がスキップしただけで、スキップした後にどうせ虚しくなる気がして嫌だ」と答えた。すると、「いや、スキップすること自体に意味があるんだよ」と言われた。ああ、なるほど、と思った。僕たちは速度という概念を、何かを達成するための手段としてではなく、ただ"速い"という事実を作り出すための目的として用いる人種なのだ、と気がつかされたからだ。スキップの中に生きる人間は、自殺と関係のない他のスキップ行動とも相性がいいのだ。

死んではいけない、と思うとき


とは言っても、どれだけその速度に魅力を感じても、同時に、いや、「死んではいけない」と思うのも一つの本能であるはずだ。それは、ほとんどが、自分ではない他の誰かのためである。自死遺族であれば、自死がどれだけ他人に苦しみを植え付けることかを知っている。それを自分も行うのだと想像するとき、その加害者になることを恐れる気持ちが心にストッパーをかけるのはごく普通の心理状況である。


ではその時にどう考えるのがよいのだろうか。相対的な速度ではなく、絶対的な速度に惹かれ、ただ自分の人生を、この先に隠れているだろう数多の不幸と苦痛をスキップすることだけが目的となる心理状況はどう避けるべきなのだろう。


そこで自分はひとつのことを思いついたのだ。僕は初めに、絶対的な速度を持つものの例として「光」を上げた。逆に、何かと相対的に速度を議論するものとして「電車」「車」を挙げた。この二者の違いは何だろう、と。


通過点を必要とするかどうか、ではないだろうか。


光というものは決して止まらない。それに対して、車や電車はいつか止まる。止まり、誰かをその地に降ろすことを目的としている。光と違ってそれらの乗り物は、どれだけその速さを魅力に感じても「いつかその速度を止めること」を目的にしないと成立しないのだ。いわば、それは、未来のいつ何時かの減速のための加速なのであり、速くなる目的は、いつか遅くなるためなのだ。


だから、人類は、途中で止まる駅を知らないといけないのだと思う。本当はもっと遠くの地に向かうとしても、しかしその中途の駅でふと降りたときの景色が絶景であるということを知らない限り、今乗っている電車の加速はある景色の前で減速するための加速なのだという教育なしに生きる限り、ヒトとは、気を許せば絶対的な速度に惹かれてしまう生き物なのではないだろうか。


我々の人生とは、言ってしまえば死に向かうレールの上を走っているに過ぎない。しかしもしも、そのレールの途中に駅がないのなら、究極的に、光のように、誰かとの比較では発生しない概念である速度を欲してしまうのだ。それこそが、社会学者のデュルケームがいうところの「無限の渇きによる自殺」なのではないか。その渇きとの闘いこそ、個人主義の進む日本人の敵なのではないかと思う。


僕の人生にとって、その駅が少ないことをひしひしと感じることがある。このブログだって例えばそうなのだ。巷で「ブログ やり方」なんて検索すれば、上位にヒットするのはほとんどが「月に収益何万を目指す」とか「まずは○○PVをめざすべき」とか「検索上位に食い込むSEO対策」とか、出てくるのはそういった"数字の獲得"のための所業のみで、それは間違いなく、個人が目指すことのできる「駅」であり、そこでは一度止まって景色を見ておくことを目的とする「健康な速さ」で溢れているから、だからそうした健康なものこそが検索サイトの中でも流行るのだ。僕はそうしたものを目標にしたものがなかった。収益もPVもそんなに興味がなかった。興味があるのは、ある一つの記事を書いた後で、それを書く自分の心理状況がどう変化するか、のみだった。だから書くことが苦しければ苦しいほど、絶対的な速度に惹かれた。これを書き続けて、そんな人生にはいったい何の価値があるのだろう、と。「死」以外の駅を用意することに感情を揺さぶられない人間であることを恨めしくも思った。

早く行くな


岸田首相のおかげで有名になった諺があったのを思い出す。

If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.


早く行きたいならひとりでいけ。遠くへ行きたいならみんなで行け。


美しい諺に見えて、これは、最も残酷な言葉でもあるのだ。


絶対的な"速さ"に惹かれるのなら、もう一人で行ってしまえ、と言っているのだから。


だから、この記事を書いたうえでの僕の感想は少し違う。


早く行くのはいいけど、死の駅より前に、どこかで止まって欲しいということ。


遠くへ行きたいならみんなで、なんて、綺麗ごとだよな。どうせいつか死ぬ人類に、その遠さなんて議論して何になるんだよ、と思わざるを得ない環境の人がたくさんいる。だからその速さに惹かれるんだよな。僕にはよく分かる。


でも光になってはいけない。光になればなろうとすればなるほど、それでも人間であることとの解離性がどんどん増していくからだ。光になってはいけないというか、光になることは諦めないといけない。


だって僕たちは光ではなく人間だから、という、小学生でもわかるごくごく簡単な理由で。