漂白される銀色世界とコロナ、個人主義の果てに【後編】

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前編では、管理主義から個人主義への推移で自殺が減り、個人主義をさらに過激にしたのがアドラー心理学ではないかという話をした。そこにコロナが介入した結果、どうなるのか。

コロナが必要としたのはウイルス免疫ではなくヒトの加害免疫


前編を読んでもらえた人なら分かるだろうと思う。戦時のように管理主義を徹底し、コントロール不可な対象を命で買う時代背景と、今のように個人主義を徹底し、コントロール不可な対象を諦めることで進歩する社会では、ウイルスをどのように対処するだろう。


前者では、感染者ゼロという(もちろんゼロである必要はどこにもないのだが)目標を掲げるであろうと思われるのに対し、後者では、なるべく他者にウイルスを移さないという道徳的な示準が掲げられるのではないだろうか。管理主義とは数字なのだ。勝算を確率で計算し、数を目標にするから、そこに辿り着くか辿り着かないかで個人の運命が決まる。それに対して、個人主義では、数字ではなく理想の自分を追求するため、求めるのは「なるべく他人にウイルスを移さないように心がけている自分」であり「感染者数を気にして行動の規範を変える自分」である。前編の冒頭でも皮肉たらしく書いたが、きっと個人主義の徹底された今の時代では、ウイルスの挙動や免疫の本質には興味を持たれないのだ。ましてや、その人たちが謳う自粛推奨で人間関係を制限され増える自殺には、いったいどれだけの人が興味を持っているのだろうかと思う。


第三次世界大戦とはこのような意味なのだ。


第二次世界大戦では、戦死による死者は、全体の死者の約半数とされている。では他は何かといえば、老衰などの自然的な死はもちろんだが、戦争を行ったことによる流通の不足による餓死や治安の悪化、そうした戦死者と同じくらいの死がそこらに転がっていたわけである。しかしそれも米兵を倒せば解決すると頑なに信じ、本当に勝算はあるのかと不安に思い始めている国民を「ぜいたくは敵」などの格好のスローガンで統制しようとしたわけだ。


今じゃん、と思えた人は鋭い。


コロナが流行する現在、オミクロン株での死者をよく見て欲しい。何人が死んでいるだろうか。Ace-2受容体という、つまりウイルスの一部のタンパク質と結びついて体内に取り込んでしまう部位が原因らしいが、これは子供の体内には少ないらしいから10歳までの死亡者は国内でゼロである。10代になると3人。これがこの二年間のコロナ騒動の結果である。30代も40代もぜひ自分で調べるべきだ。コロナでどれだけ死んだのか。それに比べ、自殺で何人死んでいるのか。コロナでの死者よりも、その周辺で死んでいる人がもっと多い事実に気がついてほしい。しかしそれも、「コロナが解決すること」によってクリアになると考えられているのか、本当にこのままコロナ騒動をやるのだろうかと不安に思い始めている国民を「ソーシャルディスタンス」などの格好のスローガンで統制しようとしているわけだ。


もちろん、命に重い軽いはない。人が少ないからといてそちらの死者は死んでも仕方ないなどとは思わない。しかし、もう少し冷静に判断しようではないか、とは思うのである。第一次も二次も、その対戦の収束には四年ほどかかっているから、そろそろ負けを認めようというポツダム宣言なるものがきっと2024年くらいにでも来るのだろう。そして、それまでにきっと、原爆みたいなものが来るんだろう。それが何かは分からない。飲食店関係者の一揆かもしれないし、自殺者の倍増かもしれない。でも、それが来ないと分からないほど、人類は愚かなのか?


愚かな人間というのは、歴史に学ばず、己の経験からしか学ばない。気がついてほしい。このままだと原爆がくるということに。例えば二年後、コロナで大学生活をすべて奪われた世代が一気に自殺して、それでやっとコロナやりすぎたね、なんて気がつくのだろうか。どこの知事でも、何か言って欲しい。終戦を、人々の知恵で編み出せる時代は、まだ僕らには遠いんだろうか。


傷のない世界なんてない


少し話は戻る。アドラー心理学ストア哲学も、個人主義を促進して「失敗」という事象の価値転換を目論見たわけだが、それにより、失敗という傷をより恐れる時代になったと思う。昔は王将でもどこかが欠けた皿なんて普通に見たらしい。テレビでも女芸人をブスいじりする風潮がざらにあった。誰かが落ちたという理由だけで、ジャングルジムだってほとんどの公園から姿を消した。


個人主義とは即ち漂白なのだ。


戦時や高度経済成長期は、用意されたある結果のためにはどんな努力もどんな代償も厭わなかった時代だから、もともと生まれた瞬間から傷を負う覚悟でいられた。しかし今は違う。お前のなりたい自分に辿り着けという、到達するルートがあらかじめ用意などされていない道を作ることを余儀なくされている時代だから、本能的に、傷を避けて通ることを至上命題にする時代になった。自分が傷を避けて通るから、他人が誰かに傷をつけているのが目に入るとそれをも許せなくなった。河村たかしの件での苦情は名古屋市の例年一年分のクレームと同じ数だけ来たらしいし、どこの都道府県も、初の感染者はだいたい叩かれた。漂白自体は構わない。しかし、漂白しすぎたゆえに、少しのかすり傷も看過できない時代になっている。


きっとそれを加速させたのは写真だ。


人々はいつでも、持っている端末で、どこぞの風景を撮影し、それをネット上にポンとあげられるようになった。それを全国の人間が見られる。誰もが、自分の場所を誰かに知られる可能性に怯えないといけない。岡田斗司夫が言っていた。屋台は絶滅したのだと。食べログ、インスタ、それらで価値判断をする世代を相手にしては、なんとなく汚い風貌の店だが味はいいということが何も意味を持たない。外見が綺麗だという事実が正義になり、外見が汚いという事実はそれだけで中身も否定する。どれだけまずくとも、インスタ映えすればオッケーになった。


でも、本当の美しさとは何だろう。外見が綺麗なことだろうか。もちろんそれによる印象が重要であるのは認める。しかし、漂白しすぎたゆえにあまりに目立つかすり傷が世界のどこかで涙を流していることには気がついてあげたい。コロナウイルスを他人に移さないようにするあなた。綺麗だ。しかしその漂白は、この世のどこかで「風潮」というものに形を変え、誰かの身動きを縛る。しかし数年後「あの自粛はやりすぎた」という結論がふわっと訪れる可能性なんていくらでもある。きっと1946年あたりに戦争から返ってきた兵たちが、これだけ米兵を殺したと嬉々とした笑顔で帰ってきたにもかかわらず、その頃には価値観が一変して「なんて残忍な国民!」と罵られては何も言えなくなるのと同じように、その価値観の転換のまさに渦中を生きる我々は、中庸を保って生きていく以外に懸命な手段は無いのではないだろうか。風邪のような微々たる症状でも極力移さない方がいい。でもそれが行きすぎて誰かの行動を縛るのも好ましくない。経済活動も学生生活も無理なく心がければいい。でも今はっきりと分かっているのは、重症者と死者のほとんどいないコロナウイルスに対する風潮と、飲食店や大学生の日常への配慮は明らかに釣り合っていないということ。米兵と戦争をしに行って、誰一人として米兵の首を取って帰れないのに国内では餓死者が続々と出るのを指をくわえて見ている気分。


この時代を幼少期として過ごす次の世代に、自分たちは何を伝えるのだろう。


この漂白に、さらにAIなんかが絡んでくるだろう。傷つけられぬために誰かの傷を機械で暴く時代だって、もう近いのかもしれない。個人主義、自己責任、傷を避ける社会、漂白世界。予言できる。だれかの汚点を暴くことで自分の漂白を守る時代は来る。そして僕は、その世代が幸せとはどうしても思えないし、その世代に新しい命を作りたいとは思わない。