漂白される銀色世界とコロナ、個人主義の果てに【前編】

自殺を考えない日はないと言っても過言ではないほどの日々を過ごしている。このブログに書く記事だって何かしら最終的には自殺と結びついているし、小説を書くときだって、自殺をテーマにしない文章を書いたことは一度もない。


さて、話は横に飛び、現在ちょうどオミクロン株の流行により世間は燃えている。飲食店は格好のターゲットになり蔓延防止にとっての害虫のような役割を請け負い、PCR検査の会場にはたくさんの列ができる。ニュースでは毎日の感染者数のみが大々的に取り上げられ、その数の増減具合に一喜一憂する国民たちは、ではどれだけの人間が免疫を持っているのかという統計や、そもそもどれだけの検査の中で陽性者がいるのかという母数に対しての割合を気にする素振りもない。


コロナウイルスでの挙動は第三次世界対戦だ、と言ったのは岡田斗司夫の言葉である。今まさに、価値観の大きな変動が訪れているに違いない。その価値観の転換とは何だろうか。我々はこのままどこに向かうのだろうか。そんなことを最近ずっと考えていた。僕は一つ結論を出した。日本はきっと漂白されていくのではないか、と。


長くなると思うので、二記事に分けて、僕の生まれる前から時代がどのように推移したのかを予想し、考えて、書く。

自殺研究より――管理主義から個人主義へ――


自殺研究については、ちょうど卒業前に三記事にまとめている。


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今読み返すと、当時は分かりやすく書いたつもりが、若造の感想文のようにも見え、稚拙な印象も受けるわけだが、まとめると、自殺の時代推移による関係は以下のようになる。

・戦時の徹底した管理主義から、戦後の個人主義

⇒現在の時間割、遠足などは全て海軍の行事の由来である。どれだけの兵を育成しきるか、どれだけの武器を確実に生産するかが必死命題であった戦時から、理想の自分にどのように近づくか、という充足目的の教育をするようになった、という時代推移

・目標が体外にあった時代の自殺率の減少

⇒戦時の「打倒米兵」、高度経済成長期の「マイホームのローン返済」など、確実にたどり着ける目標があった時代の自殺率減少


『自殺論』を著したDurkheim(以下、デュルケーム)は、社会相関として自殺を観測し、管理主義と個人主義の間に自殺率の変動の意義を見出した。彼の別著作である『社会分業論』においても、生まれた瞬間に身分の決まっている方が自殺率は圧倒的に低いとし、役割の刷り込みは生きる意味を迷わせるアノミー(不秩序の意)を起こしにくいとした。

※自殺者においての話であり、他殺の数の議論ではない


では、管理主義を一気に個人主義へと動かしたものは何だろうか。実は、僕はそれは、戦争の終結ではないと思っている。戦争が終結したとて、その後の日本には高度経済成長期というはたまた別の経済的な目標が発生しており、「社畜」という表現が生まれたのもこの頃であることから、会社員という、「おくにのため」を忠実に体現するための役割が「日本兵」から「サラリーマン」となっただけの話と考えて良いのかもしれない。米兵を殺すという殺意の対象が消えただけ自殺率はもちろん戦後になって増えるわけだが、それでも現代に比べればはるかに自殺者は少ない。


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総死亡率及び自殺率の変遷 厚生労働省ホームページより
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/2.html


ストア哲学と、アドラー心理学


さて、自殺の話は前置きとして、要は、個人主義は団体の結束力をはるかに落とすため、個人の自死を防ぐ方向に一致しないということだけ掴んでもらえればいい。


話は横に飛び、僕がかつて読んだ中でも衝撃を多く受けた一冊を紹介しなければならない。



アドラー心理学。それは瞬く間にベストセラーになり、今でもビジネス書の売り上げの上位に食い込み続ける。この本は、なぜそこまで売れたのだろうか。それは僕が思うに、管理主義から個人主義へと推移する中で、両者の文化の混じり合うような時代背景において、管理主義による感情の振れ幅の一切を否定してしまったことにより、人々が躊躇うことなく個人主義を信仰してしまったことにあるのではないかと思う。


こうは言っても一度では理解されにくいだろう。アドラー心理学の重要な一説に、自己の課題と他者の課題の分離というものがある。これは即ち、怒っている相手の怒りの態度とあなたの行動価値には何も関係がない、ということを言うものであり、「自分が○○の失敗をした」という自己の課題と「△△さんが怒っている」という他者の課題は分離して考えるべきだという話だ。もっと他の例を出すなら、サッカーの試合に臨むとき、相手に勝つのを目標にするのではなくベストを尽くすのを目標にするべきだ、という発想もこれに近い。相手に勝つ、という事象は自分のコントロールの及ばない相手チームの実力に依存するため、自己と他者の課題の分離を困難にする考え方だとし、ベストを尽くすという、100%自分の力で解決できるタスクに集中することが心理的に健康ではないかと提案しているわけだ。


似た発想に、ストア哲学がある。ストア哲学では、失敗は成功のもとというように、何らかの失敗も経験として糧にし(つまりストア(貯蓄)する)、次回の成功を見据えてエサにしようという考え方をする。これも、失敗という自分の力でコントロールのきかなかった不本意な結末を、次の結果へのコントロール可能な未来への糧にするという、自己の課題に切り替えることでコントロール不可な対象への恐れを最小限に抑え、救われようとした考え方に他ならない。


これらを見るとき、アドラー心理学ストア哲学も、管理主義を真っ向から否定しているということにはすぐ気がつくだろう。


それもそのはず、例えば、戦時中に「米兵には負けましたが、ベストを尽くしました」と爽やかな顔で帰ってきた日本兵がいただろうか。「取られた領地は、次の領地奪還の糧にします」なんて反省する暇はあっただろうか。管理主義とは、やり直しのきかないセーブデータを命で買うということに他ならない。管理主義において、失敗と引き換えられるのは命なのだ。戦時中において重要なのは殺した敵の数であり、自己の発見などではない。また昭和後期に離婚率と自殺率の関係が逆転したのも面白いデータの一つだろう。つまり、高度経済成長期においては、離婚というものは「家庭を持てない男性」としてのレッテルを貼り、その辱めをもが命を奪う結果だったのに対し、平成後期からは真逆になる。離婚というものはコントロール不可な相手からの解放を意味し、それにより生きやすくなる人間が増えたのである。


アドラー心理学の影響は偉大であったと言わざるを得ない。人々が人々の顔を伺うことで育んできた文化を一刀両断したのだ。しかしそれは別の種類の地獄を生むことにもなる。「自己実現」という曖昧なものを目標にさせたことで、常に目の前を走るゴーストを追いかけるような苦しみに、無限性の渇きを感じて自殺する、それが増えに増えたのが今の日本なのだ。

次回へ


コロナの話まで到達しなかった。後編では、徹底した個人主義にコロナが介入したことでのさらなる価値転換を考える。


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