1人で弔いなよ、1人で弔わせてあげなよ

5年前、僕も東京大学センター試験を受けた。


news.yahoo.co.jp



そういう事件が増えた。いや、そういう事件を報道すると数字が取れる時代になった、と言った方が適切だろうか。小田原線や硫酸、ジョーカーの仮装、誰もがコロナで鬱憤のたまった異端児として処理され、ネットで誰もが気軽にコメントできるご時世の格好のエサになる。

誰かへの加害は成仏の不可が原因


僕は加害被害の関係を、少なくともそこらの人よりは多く観測してきた人間だと思う。もっとも、その加害と被害はどちらも同一人物人間だったケースが半分以上を占めるわけだが(即ち自殺という、自から自への加害)、その加害の発生原因を深くたどれば、"成仏不可"という一点に集約できるのではないかと考えたことがある。


成仏とは、もとは仏教の用語である。

〘名〙 仏語。
① 煩悩を脱して悟りをひらくこと。
法華義疏(7C前)四「明三成仏已来久遠非二但四十余年一」
※読本・春雨物語(1808)宮木が塚「念仏うたがふな。成ぶつ疑がふなと、波の底に示して舟に入りたまへば」
② 死んでこの世に未練を残さぬこと。悟りきって死ぬこと。単に死ぬことをもいう。


では悟るとは何か、という話になり、そのあたりから抜け出せない沼にはまると思うから止めておくとして、成仏とは広義の意味で自己受容であり、他人というコントロール不可な対象への興味を最小限に抑え込んだうえで(無理なく、という条件付きで)自己の在り方を発見するという意味である。


そしてこの成仏は「亡くなった○○さんは成仏できたかな」というような語法で用いるように、死後の在り方について考えることへの表現としても用いられ、そこには、"弔い"という所作の重要性の議論が欠かせない。


では弔えていない、成仏できていないのは誰かという話になる。結論から述べると、僕が考えるに、成仏できていないのは様々な事件の犯人であり、弔えていないのは、事件のニュースを見るとすぐに「被害者がかわいそう」「心が痛い」とネットに感想を残さずにはいられないタイプの人間である。

本来、弔いと孤独はセットの概念だった


前者のように、犯人がこの世の出来事を消化し成仏させてやれないというのは多くの人間が納得できることだろうとして、後者の僕の意見には反感を買われることが予想できる。被害者へと思いを馳せたコメントを、僕はやや批判的な視線で見ているからだ。極端かもしれないが、それ(事件への同情コメント)はなくなるべきである、とすら自分は考えている。


理由を、以下に数点に分けて述べていく。


①該当コメントは、怒りの容器に収容されただけの同調である


ネットのコメントというものは、誰が見るか分からない不透明性の高いツールであるため、同調により加速するスピードがリアルに比べて圧倒的に早い。つまり、あの人が言っていることを私も思っているからコメントできる、という連鎖を最速で発生させられる土俵の上であるという特性を考えれば、その事件被害に関する同情コメントに関しても、それが真の悲しみゆえのものなのか、それとも悲しくはないが「周りがそう言っている」を理由にふわっと発生したものなのかの区別を困難にさせているのは間違いない。それは我々にとって、その同調の連鎖の中から真の弔いを抽出する難易度が大幅に上がる行為であり、その弔いの具体的な神聖さが薄まった今という時代こそが、巡り巡って、犯人にとっての出来事の成仏をもより困難にしているという見方ができると思うからだ。


②真の意味で悲しいのは遺族関係者のみである


第二に、ニュースで事件を知っただけの人間は、真の意味で悲しくないということである。もちろんこれは、心に何の傷も負わないという意味ではない。実際自分もニュースを見たときには驚いたし、受験への努力の末にそのような結果になった被害者を思うとやりきれない気持ちになることはある。しかし、そのやりきれない気持ちになった原因は、「被害者が刺されたから」ではなく、「刺された被害者をネット経由で知ったから」が原因なのだ。当然だが、知らなければ悲しくない。しかし、我々の知らないところで、どこかで殺人の一つや二つは起きていることは知っている。それがたまたま、いつどこでこのように起きたと知らされることで喚起される悲しみは、真の意味で悲しいのだろうか。例を出すのなら、ペットとして三年間大事に買い続けた猫を亡くした悲しみと、誰かに見捨てられこの世のどこかで殺される猫のニュースを見る悲しみは別物であろうということが言いたいのだ。前者の悲しみとは当事者にとっての重要な日常が"欠ける"という意味での悲しみであり、一方後者は、顔も名前も知らない誰かの日常の情報が"追加される"という意味での悲しみなのだ。欠ける悲しみはその現実をどのように埋めるかの訓練で受容していくものであるのに対し、追加される悲しみには目処がない。アフリカで貧困で死ぬ子供、南米で自殺する労働者、誰もの情報は常にこの世のどこかで並行している。それらを知れるのはネットという人間の手の届かない機械の仕業であり、機械の進歩により直接関係のない人間の情報が加算的に増えるときの感情は、悲しみではなく、単なる胸糞の悪さ、の範疇を飛び出ない。



ここで「欠ける」という表現をしたが、この欠けるという表現にこそ、弔うという動作が当てはまるのだ。例えば知人の葬式に出向き、「こっちのことはなんとかやるから、お前さんは安心して成仏してくれ」と弔うとしよう。故人がいなくなったことで欠けた日常を、現世で生きる人間で埋めるということ。いなくなった故人は、自分たちのこれからの努力次第で安心して成仏できると信仰することで心の傷を埋めるということ。これが弔いだと考える。


しかしこのとき、故人と一度も関わりのなかった誰かが、「○○さんには安心して成仏して欲しいものだ」と述べるとき、どこかに違和感を感じないだろうか。そう、その誰かにとっては、故人が亡くなった事で何が欠けたのだ?と思わせるのである。あなたには直接欠けた場所もないのに何を埋めているのだ?と。きっとそれは顔も知らない人間であろうとそれを弔う姿勢を見せることでいかにも"できた"人間を装うための自己顕示欲ではないかと思う。もちろんそれは、耳に入った情報であればそれを丁寧に処理したいという、真の思いやりでの行動かもしれない。しかしそれは当事者から見れば有害な善意となる可能性が高いと感じる。欠けてもいない人間の弔いは、本当にごっそりと穴が開いた人間の弔いの価値を薄めることに等しいと言えてしまうのではないか。

令和という、体の外側から答えをかき集める時代に


実は似た話を前にもこの記事でしていた。


www.mattsun.work


僕はこのように余白を感じられない世界に窮屈さを感じる。「死ね」は言ってはいけない、ということが大事なのではない。本当に尊いのは「死ね」と言うと悲しい顔をする人が経験上多いように思う、だから自然と言う回数が減った、なのだ。前者は道徳観をベースにしていて、後者は快感をベースにしているのが分かるだろう。何度もしつこいが言論のベースは快感であり、そしてさらに言えば、快感のベースは経験なのだ。間違ったこと、空気に会わぬことを喋りまくった末に人というのは出来上がっていく。あの頃の俺ら、しょうもなかったよなあ!くらいに笑えるのがちょうどいい。それは誰もが分かっているはずだ。しかし不幸なのは、本当にたまに、経験の浅い人間が「死ね」と言ってしまったことで本当に死んでしまう人が出てくることなのだ。そうなった瞬間に平和ボケ国民たちは血眼になって叫び出す。「話が違う!」と。言葉とは誰かの快感をなぞるように生まれてきただけで、誰かの快感は誰かの快感を虐げることで助長されると分かりきっているはずなのに、平和ボケした国民にはそれが分からない。とりあえず死なないことが当たり前の国では、死なないことは何よりも第一の至上命題なのだ。その前提から見直すべきではないだろうか。言葉は我々が使いこなすにはまだまだ野蛮なツールだ。道徳観で統制などできやしない。そう思うのは残忍と思われるかもしれないが、しかしそうした一種の諦めともとれる"余白"を生きてこれてきたというだけで、我々は実に逞しい生き物だとも思うのだ。


「弔い」という言葉の意味が、まさにはっきりと変わってきているのではないかと思う。それは、関わった人の無念な運命を自己の中で孤独に受容するという意味から、関わっていない人間の運命を「それはだめ」という予め用意された道徳観のもとに国民の間で連鎖させる、という意味へ。


後者の弔いには薄さをどうしても感じてしまう。


なぜなら、その弔いが別の場所での弔いを困難にさせると思うからだ。


前者の弔いは孤独に行うものであるが故、他の人間が何と言うかではなく、自分がどのように納得するかが重要であった。誰が何と言おうとも自分がこのように納得するしかないと、自分の体の内側から自分だけの答えを探すという所作をもってこそ逞しさが生まれる。しかし後者の弔いは孤独では生まれない。誰かが「それはだめ」と言っていることがすでに前提になっているのだから。しかし、ニュースに出るような事件を起こす犯人が辛かったのはそれではないだろうか。誰かの答えをなぞるしかないから、なぞることなく君は君でいいのだと教えてあげられる環境に巡り合えなかったから、ネットから流れてくる数多の他者の正解を抱えきれなくなってそれがどこかの時点で爆発するから、そんな事件が起こるんじゃないだろうか。体の外から受動的に振ってくる弔いは、一見すると思いやりに溢れるものに見えて、回りまわって誰かの抱えきれない解を一つ追加することになるんじゃないか。


弔いとは、そうじゃない。欠けた何かを、孤独に、一人で処理することだ。それを邪魔しないこと、そこに真の思いやりがあるのではないかと自分は考えている。もちろん、他人の受験生を傷つけて何かを得ようとするのはダサすぎる。でもそれも、一人で弔わせてあげたい。ネットでそのニュースを見た誰かが悲しむからそんなことをしてはいけないのではない。刺されたその受験生にも宝のような努力の時間があり、それを傷つけることが互いに善ではないと学ぶからそんなことをしない"ようになる"のだ。