そんなのボクには痛くない

水曜のダウンタウンで、かつて面白い企画があったのを思い出す。


f:id:mattsun0383:20220114155155p:plain


町をゆく人も、何かしらそれを持っていた。


f:id:mattsun0383:20220114155237p:plain


f:id:mattsun0383:20220114155257p:plain


f:id:mattsun0383:20220114155310p:plain


たまたま生きているということ


ボクたちが生きているのは、各場面での「99%」を寄せ集めた上での偶然に過ぎないということは、せわしなく生きる中でほとんど無意識の領域に葬り去られているように思う。子供とはやんちゃする生き物だというのなら、そのやんちゃの中に一つくらい、本当に生死の中を彷徨わせたエピソードが混じっていてもおかしくない。


そして僕もまた、その生死を彷徨ったエピソードを持っている。子供とはやんちゃする生き物なのだ。あの頃、といっても数か月前だが、あの頃の僕には、自分は存在ごと消えた方がいいのではないかということを本気で考え実行に移そうとするほどの体力があった。破壊衝動が自己にも他人にも向かっており、むやみに誰かを傷つけたくなる瞬間が頻繁に訪れた。


そんな自分にはいつしか、本当の痛みというものが分からなくなった。神経が徐々に麻痺してゆく感覚。電源コードを体の前後に貼る瞬間の痛みを本気で憶えた体は、今まで気になっていたはずのあらゆる痛みを痛みではなくした。人生の蜂の巣療法だ。


そういうことを去年末に書いた。

www.mattsun.work


痛みには痛いと感じた方が良いか?


しかしこのことは、人生を長い目で見るときに良いことか悪いことか、その議論は難しい。なぜなら、未遂に走るまで自分の体を追い込んだその痛みを覚えたことで、「そんな程度の痛みで」と思える範囲が広大になったことは良かったが、しかしそれでも、"普通"のコミュニケーションを行うにあたり配慮すべき他人の痛みを理解する感性はさらに鈍くなった、と言ってもよいからだ。


後者は、実は僕は、たいして気にすることではないと思っている。他人の痛みを理解しようとする姿勢が大事なのはそうとして、しかし相手の痛みが100%分かるなんてありえない。相手の地獄は、あくまで相手だけの地獄なのだ。それを分かりたいのはあなたのエゴであり、分かったと口にすることが理解の本質ではないし、決して潜れない他人の感覚に対して何かを期待するだけ、それは心の不健康な発作を呼び起こす枷になる。


しかしそれはあくまで個人として生きる場合に限る。集団として生きる場合にあてはまらない。


最たるよい例が職業である。就職したことはないが、もちろん仕事は色々やった。バイトではその雰囲気が重要、客との距離感、手から放たれる料理の見せ方、日雇いの仕事では、その服装や仕草から社内印象に傷をつけない振る舞い。ある人を喜ばせる、とは、ある人の何かの傷を忘れさせることなのではないか、と考えることがある。喜ばせるとは即ち、その対象の傷の位置を確認することであり、その傷から最も遠い場所にて献身を施すということだ。一対一の関係ではどうでもよかった他人の痛みが、何かの集団に属した場では、利益に直結する重要事項に変化する。誰かの傷に気がつかなかった代償は、集団内で連帯責任となり襲い掛かる。その恐れと常に向かい合っているのは、今の若者たちのほうではないかと思う。自己実現なんて形のないものを目標にし、評価を恐れ、出る杭にならないように言い聞かせている世代。


問題は、その痛みに気がつかなかったこと自体ではない。そんなものは、はっきり言って仕方ないことであって、一度目から失敗なくできる人間などありえない。何かのきっかけで気がついた時から意識しなおし、次に同じ失敗をしないように心がけるよりほかにないのは当然だ。だから、辛いのはそこではない。本当に恨めしくなるのは、誰かの痛みに気がつかなかった自分ではなく、誰かの痛みに気がつかなかった自分に罪悪感が湧かない自分なのだ。


言ってしまいたい。ボクにはそんなことが痛くないのだと。


一般社会で気を付けるべきとされているほとんどのことが、自分にとっては蚊が止まった程度のかゆみとしか感じられないことであり、素っ頓狂に蚊をひっぱたいて殺せという人を目にして、自分もそうなりたいとも思わなければ、むしろ、必死に生きているのだから少しの血くらい吸わせてやれよという気になる。ただ残るのは、蚊に気がつかない自分の感覚は集団のイメージを落とす害的なものであるという事実と、そうした一般人とのズレを些細に感じ続けたことにより蓄積する孤独だった。

今という時点を愛するしかないのに


時というのは戻らない。その当たり前の事実が、どうしてここまで心を蝕むのだろう。戻して欲しい。普通の人が痛いと叫ぶようなことを、自分も叫びで対応できるような感性を持っていたあの頃に戻して欲しい。何円でも払うだろう。きっとそのころに戻れれば、今よりも何倍も奥の人と心が通うだろう。あのときはこれが痛かったよね、そう言って笑い合える人を探すには、僕は自死遺族の会に出かける以外に手段がない。そう思って行った自死遺族の会で笑っている人なんて誰もいなかった。微笑みすら禁忌のなか、誰かと繋がる実感だけ求めた場から感じたのは、不可逆な時の流れへの怨念だけだった。


痛くなりたい。もうちょっと。


痛いとは即ちそれを避ける本能ということだ。これからも僕は、他の人が痛いと思うほとんどのことを避けないで生きるのだろう。