健やかな論理と、痛みの掃き出し【『どうしても生きてる』を読んで】

「やっぱな、自殺じゃないんだよこんなの。わかってたことじゃん」


第一話の『健やかな論理』にて1ページ目に登場したこの台詞を見て、その題の「健やか」という形容詞の意味するところが脳の奥にまで染みわたったような感覚を憶えられただけで幸せだった。それを、健やか、と表現した作者の朝井リョウには頭が上がらない。きっと『正欲』に書かれるところの「おめでたい」という表現に似ている。



朝井リョウ作品に魅力を感じる所以は、体の内側から腐る感覚を共有させてくれるところにある。外面の他人を激しく蔑みながら、そんな自分をしっかりと醜いと感じているのがありありと伝わるから安心して読める。


そんな彼の作品で、短編集となる一冊を手に取ったのは初めてだったから緊張した。今までは彼の作品から重い鉛のような充足感を味わっていたものが、歯切れのよい細い矢となって襲い掛かってくれるのではないかという期待があって、その期待を見事に裏切られなかった。


本作品は『健やかな論理』『流転』『7分24秒目へ』『風が吹いたとて』『そんなの痛いに決まってる』『籤』の六編からなる。その全てに感想をつけると長くなる。この記事では、特に刺さった『健やかな論理』『そんなの痛いに決まってる』の二編を見る。



ストーリーの構成や台詞の引用を行っているので、ネタバレの危険性を考慮願います。


『健やかな論理』


健やかさの暴力性は、健やかさから逸れた人生にしか分からない。健やかさから逸れた概念というものがこの世にはたくさんある。犯罪などの一目で分かるものはもちろんそうだが、環境によっては、浪人、派遣社員、離婚、そうしたものまでが人から健やかさを奪う狂気になる。


どこまでいっても、この段落が全てなのだ。

 ○○だから××、という健やかな論理は、その健やかさを保ったまま、やがて、鮮やかに反転する。
 「満たされていないから、他人を攻撃する」「こんな漫画を読んでいたから人を殺した」はやがて、「満たされてる自分は、他人を攻撃しない側の人間だ」「あんな漫画を読んでいない自分は、罪を犯さない側の人間だ」に反転する。おかしいのはあの人で、正しいのは自分。私たちはいつだって、その分断を横たえたい。健やかな論理に則って、安心したいし納得したい。だけどそれは、自分と他者を分け隔てる高く厚い壁を生みだす、一つ目の煉瓦にもなりえる。
 
 再配達を頼んだのだから、自殺なんてしない。
 離婚を申し込まれたのだから、かわいそう。
 新しい恋人ができたから、大丈夫。
 満たされていないから、クレームを言う。
 暴力描写のあるマンガを好んでいたから、人を殺す。
 
 そんな方程式に、安住してはならない。


しかしそれでも健やかな論理を駆使しないと生きてゆけないその弱さにこそ人類の魅力があるのだと思う。決して作者は、だから健やかさを助長する発言をすべきではないなんてメッセージを含みたくはないのではないかと思う。健やかさが人類を救ってきたのだ。その健やかさなしに、その健やかさに寄りかかってきた人は次に何に寄りかかるだろう。異なる種類の健やかさがいがみ合うだけで、一つの健やかさは、別の健やかさを見ないようにするだけで回る世界だとも思う。


主人公が、「アマゾンの再配達をする人間は自殺しないだろ」と言った恋人の恭平に、なんて健やかな論理だと感じながらも、最後、それでも会いたいと願うように、健やかさとはそれだけで、生きることへの免罪符になることができるということを端的に表しているのではないかと思う。それが表題の「どうしても生きてる」という意味そのものなのではないだろうか。生と死にも、善と悪にも、境界など決してない。ないからこそ人はそこに「分断を横たえ」たいのであり、ではその分断を全部除去するとどうなるかと言えば、待っているのは、善も悪も消え去った、個性という名のもとに統合されることのない世界である。そこでの唯一の真実は『どんなに醜いと蔑んでしまうあいつも、お前と同じ』であり、その恐怖に対峙し続けるときっと人は自ら死ぬことを選択するだろう。生きてる、とは即ち、自分はどこかしら善いと盲信することであり、人類はそれなしに生きれるほど強い生き物だとは思えない。


だから、風に吹かれ、アナウンスを聞き、駅のホームの白線を飛び越えはしなかった主人公の足は、そのつま先だけでも、今まで必死に蔑んだ『健やかさ』に僅かに浸ったということなのではないかと僕は解釈した。


だから大事なのは本文の通り「安住し」ないことである。


だからと言ってその故郷を捨て続けはしないことこそが「どうしても生きてる」ということだ。

『そんなの痛いに決まってる』


グロさ的な示準ではトップの一遍だった。いつの間にか自分の収入を超え子作りを迫る妻、そんな妻に言いたいことを言えず、掲示板で出会った浮気相手に欲の発散を委ねる主人公。ちょうど、「大丈夫」が口癖だった、かつての上司のSM動画が流出される。何かが重なる。

「大人になればなるほどさ、傷ついたときほど傷ついた顔しちゃいけないし、泣きたいときほど泣いちゃいけないよね」


浮気相手の最後の台詞のまくし立てが技巧だ。ジジババ相手の介護職を選んだのは、むかつくときにそれを抑え込めるから。こいつらぼけてるんだし、しゃーないか、と。この世の痛みはそこにある。表現したいときにそれを表現できないこと。上司の動画を見て、主人公のかつての同僚が蔑むのを、主人公は一歩引いて見ている。きっと上司は、痛いときに痛いと叫ぶ衝動を限界まで抑え込んだのだろう、と。そこまで物事を深く捉える理性を感じさせながら、しかし浮気相手には決してウォシュレットを使わせないなんていう癖を全開にした、その野性を共存させる主人公に、気がつくと吸い込まれる。


そのとき、もしかして作者は、後半五編で、健やかな論理なるものを解説しているのではないかという気になった。上司の痛みのありどころを理解する主人公の明晰な脳は、少し時間が経てば浮気相手のありのままの体を舌で這いたいという"健やかではない"欲望に瞬時に変身する。誰かを助けたいと声高に掲げて誰かの手を掴んだその手が少し経てば握っている誰かへのナイフ。この本は、その健やかさとは真逆の位置に君臨する何かを見せる作品なのだ。

どうしても生きてる


それでも、どうしても生きてるから、人が救われる。


『正欲』の刊行のインタビューで朝井リョウ自身が「生きることは肯定的に捉えておきたい」と話していたのを見て衝撃を受けたのを覚えている。どちらかというと、この作品然り、こめられているのは理解を得られぬ者の何かしらの破壊衝動なのではないかと思ったからだ。でもそうではなかったところに、自分の理解力不足を思い知らされる。破壊衝動こそが人間で、破壊衝動ごときで壊せない他人とその他人が溢れる世界こそが、生の象徴なのだ。脳内の目まぐるしい、本人にとっては最重要事項ともなる変化ではちっとも動かない世界を、心の1%くらいは愛しておくことこそが真の「健やかさ」なのかもしれない。


カテゴライズとは即ち機械化であり、秩序化でもある。そこには一時的だが膨大な安心感を与える麻酔が潜む。しかしそれを続け、機械的に統制され続ける人生はやがて破綻する。どれだけ機械化を続けてもしょせん人間だからだ。どれだけ機械的に安心しようと思っても機械ではなく人間だから苦しいのだ。脱人間を極める人間は死ぬ。脱人間を続けた先に待つのは、それでも人間であることの絶望、そして、どうしても生きてることへの絶望なのではないか。


そう思うと、どうしても生きてる、という事実は、希望なのか絶望なのかすらわからない。


でもそれでいいということをこの作品が結論づけている。


境目なんてない、その分断する壁の向こうで安住するな、と。