文学の"高尚性"に関する議論

しばしば文学は、その高尚性を議論されることがある。高尚性というのは言い換えれば、敷居の高さのようなものだ。芸術作品の中でも、例えば音楽なんかに比べると、文学の方がとっつきにくいような印象を持つ人が多いと思う。


要因は様々だろう。簡単に思いつくのは「一つの作品を理解するにあたり膨大な時間がかかる」「単純に高度な読解力を必要とすることが多い」「活字ばかりだと脳が疲れるし、面白くない」なんかだろうか。


森見登美彦のエッセイで、彼ほどの作家であっても、他者の著者のあとがきなんかを任される時には緊張で筆が進まないということが書かれている。もちろんどの手段を用いた芸術であれ、一人の魂の現れた作品であることは間違いないのだが、しかし、すごい心に響いた、などという誰にでも言えそうな感想が似つかわしくない文学は、その内容に不相応のない感想を強いられる。ざっくりと言ってしまえば、気軽さがない。

SNS世代との乖離


TikTokで図書の紹介を行っていたユーザーが、あるひとりの発言により活動休止に追い込まれた事件は記憶に新しい。


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TikTokという、まさに文学の高尚性とは真反対の位置に君臨するような若者のツールが、きっと文学を紹介する手段としては陳腐に見えたのだろう。このようなTwitterでの発言がどのような意味を持ったのかはさておき、その感性自体は理解できる。僕ももしこのブログがTikTokで紹介されるなら、読者が増える嬉しさよりも居心地の悪さの方が心の大きな比率を占めると思う。こんな根暗なことばかり書いている記事の集合体は、若者のポップでカジュアルな動画媒体には似つかわしくない。TikTokという手段ではなく、何かの検索とか、もうすこし死にそうな中で這いつくばったうえで辿り着いてほしい。多分その方が僕の書いた文章も身に染みる。


さてここで「這いつくばったうえで辿り着いてほしい」と書いた。僕は、文学の高尚生とはこの感性の中に隠れているのではないかと思う。それは決して単なる文章の長さでも、かける時間の長さでも、はたまた、文章の難解さでもないと思うのだ。


文学とは何も手立てが残っていない者の最終手段である


なぜ文学が高尚なのかと言われれば、それは、文学というものがそれ自体、文学以外の可能性を潰されたうえで成立してきた芸術だからではないだろうか。僕は、文学とは即ち、太古の声だと思う。しかしそれは、声帯を震わせることで伝えることを選ばなかった。文学とはそれ自体がすでに孤独なのだ。洞窟の奥深くで一人でいる場面を想像して欲しい。明かりもない、人もいない。いつその場が崩れ去るかもわからない。そんなとき、もしそこにいる自分の声が誰かに届く可能性にすがって自分の記録をどこかに刻みたいと思うとき、我々は何をするだろう。


僕だったら、文字を壁に刻む。


そして、もしその後で訪れた人がこれを発見してくれまいかと願う。


文学とはこのような行動自体をさすのではないだろうか。洞窟の中で、声を大に叫び続けようとは思わない。仮に思っても、数分で頓挫するだろう。まさか楽器で鳴らすなんていうお気楽な手段を選ぶ余裕だってない。色の変化で何かを伝える絵画だって洞窟では不可能だ。だから字を掘るしかない。私はここにいたのだ、と。そこで書かれた「私はここにいた」という文字は、その文章が持つ意味だけではなく、私はここにいたと彫るしかなかったその孤独と虚無感、それまでがセットで芸術となる。文学の本質とは言葉ではない。本質は、孤独に打ちひしがれた者の絶望なのではないだろうか。そんな決死の思いで書いたからこそ、それは人の心を打つのである。もし次にその洞窟に迷い込んだ他の誰かの、その洞窟の中での心細さは、その「私はここにいた」という文章でどれだけ希望となるだろう。その希望を追い求めて我々は書き続けているのではないか。さらに言えば、そういう文章を自分も書けるようになりたいのだ。


小川洋子さんの著書『寡黙な死骸 みだらな弔い』を去年末に読んだ。



小川洋子にしか描けぬ、官能的な世界観である。その物語に関してはいつかのレビューに預けるとして、その後書きに心打たれる文章を見つけさせてもらった。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、自分が書こうとする書物は、すでに誰かによって書かれているのだという、一見書き手にとって不自由と思われる想定を、実に魅力的な可能性へと飛躍させた。自分が過去に味わった読書体験のうち、最も幸福だったものは、ああ、今読んでいるこのお話は、遠い昔、顔も名前も知らない誰かが秘密の洞窟に刻み付けておいたのを、ポール・オルスターが、川端康成が、ガルシア・マルケスが、私に語って聞かせてくれているのだ、と感じる一瞬だった。
 小説を書くとは、洞窟に言葉を刻むことではなく、洞窟に刻まれた言葉を読むことではないか、と最近考える。そこにすでにある言葉を私が読み取れるなら、犬が死んだらどうなるのかという少年の疑問に答えてあげられるだろうに。


物書きにとってこれほど温かい事実を突きつけてくれる人間は他にいただろうか。あなたが書くそれは、顔も知らない誰かが、いま、あなたに聞かせているというのである。こんな文章を読まさせられて、そのとき、もしこれが周りに数多の人がいる現世の若者のSNSで紹介されるのを見たならば、どうして違和感を感じずにいられようか。洞窟の中の文字は、本来、洞窟に潜らなければ見つからないものなのである。


しかしこのような議論が、初心者に対しては更なる壁となって立ちはだかるのは想像に易い。あなた方は洞窟に潜らない限り文学を楽しむ資格はないと言っているのにほとんど変わらないからである。そのことについて言及しないといけない。

文学は新参を遠ざけるか


例えば作家と聞いて思いつく最も有名な東野圭吾は、今まで述べたような、洞窟に文字を掘るタイプの作家ではない。楽器が揃ったうえでその音色のコントラストで読者を魅了するタイプの作家だと僕は考えている。つまり彼は作家ではなく小説家であり、さらに言えば脚本家なのだ。ストーリー構成という体の外側の要素の技巧が果てしなくうまいのであり、体の内側のこの音色を聞け、というような作家ではない。


だからもし本を読んだことがなく、自分に合うのがどのような本か分からないとか、何から読んでいいか分からないという人は、作者に対するその選別眼を効かせてみるというのを勧めたい。本を書く人間は大きく分けて二種類なのだ。内なる声を聞かせるための手段として文章を選んでいる人間と、文章を書くという目的の中でその芸術性を追い求めている人間だ。もちろんこの二者は独立しておらずどちらの要素が混じり合ってもおかしくないから厳密な分類としては弱いが、これは自分の求めるタイプを見極めるうえで重要な視点だと思う。


前者はつまり、俺の声を聞いてくれ、という思いを抱えたときにたまたまそこに紙とペン(今だったらパソコンですが)があった人間である。つまりもしそこに絵の具があれば絵を描いただろうし、マイクがあれば歌ったであろう人たちだ。僕もこっちに位置している。彼らは自分の中にある秘めたる思いを誰かに伝えたい一心で洞窟に文字を掘っている。誰か気がついてくれ、と願いながら。バブルの時代についていけず「美しいドブネズミになりたい」と歌ったTHE BLUE HEARTSだって、たぶん自分に文才の方があると思ったら作家になっていたはずだ。


一方、後者は、物語を書くということが既に心の中で決まっており、その枠組みの中で美しさを追求する人たちである。前者ではその心の声が重要であったゆえに多少の乱雑さなどが許される傾向にあるが、こちらではそれが許されない。こうした人たちは、どの指で洞窟を削ればそれが美しく、多くの心に響くだろうかということを考えて書いている人たちではないかと思う。


そんなことを言われても、そんな分類がパッとわかるわけないだろうという文句が出るだろう。これについては、著者のプロフィールを調べてみるより他にはない。


○○女子大学文学部卒業、なんていう風に書かれている場合は高確率で後者である。幼いころからその枠組みの中での美しさを体に染みこませている人たちである。そうした人たちの文章は、いくら読んでも自分には真似できない。


逆に、○○といった経験があったことでそれを文章にしたいと思った、というようなエピソードが見えたら、それは高確率で前者である。じぶんの場合はその○○に自殺が当てはまるわけだ。


だから文学の入り口に立つなら、そのどちらの文章を自分が求めているか、どちらの方が自分が楽しめるかを考えてみるといいと思う。物語という枠組みの中の美しさを感じたいのか、それとも、誰かの抱えきれなかった内なる声を浴びたいのか。あとはそのあらすじなんかから目星をつけて読みまくるしかない。誰かが洞窟に書いたそれを、必死に掘り起こすのである。その所作なしに、今まさに洞窟にいるあなたの寂しさを晴らすことは不可能だ。




文学の高尚生を議論するとき、それは初心者を遠ざけたいわけでもなければ、自分がいかに孤高なのかを示したいわけでもない。そもそもそんな事を思ったことすらないわけで、ただ一つだけ言いたいのは、TikTokで図書を紹介した誰かのように、現代の利便さを追求したツールで洞窟の文字を紹介するという行為は、洞窟に潜り偶然「私はここにいる」と彫られた文字を見つけたときの感動と安寧を感じた人たちの前で、その彫刻の写真を撮って外界の人間に散布する行為に等しいということだけ知っておいてほしい、ということなのである。