目には目を、殺人には殺人を。加藤智大『解』を読む

人を殺すことを認めないこの国で唯一認められている殺人は、死刑制度である。法の下に裁かれた場合のみ、他者の命を奪うことが正当化される。


死刑制度に関する賛否は両論ある。死刑制度に賛成するときには、死刑を課せられるほどの重罪を犯した者の命を保証すると秩序が乱れるというような主張になり、逆に反対するとしたら、奪ってよい命を人間が選別するということの矛盾を指摘することになるのだろう。


さて、ここではその賛否には触れない。正直、賛否などはどうでもいいからだ。どれほど痛ましいニュースを聞いたとしても、その犯人がいつ獄中から出てくるのか調べて生活する市民がほとんどいないように、我々は、通りかかった他人が実は重罪を犯した者であるという可能性をほとんど忘れ去って生活している。それは忘れ去っても安全に生活ができる確率が異様に高いという日本の治安の良さが反映されたものだ。


では、人に死を与えた者の命も死の郷土に返すべきだという考えの何に言及するかと言えば、それを完全な本人の自己責任論として処理することで膨れ上がる民意の暴力性に関してである。つまり、悲惨な事件を聞くとき、遺族がかわいそうだ、こんな思いをさせるなど人外だ、早く社会から抹消しろ、そういった社会悪への轟々とした非難は不幸な理不尽で亡くなった被害者への共感を巻き込むために瞬時に膨れ上がるということへの恐ろしさをメタ的に捉えておきたいという話になる。


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話は横に飛ぶ。かつて世間を震えさせた秋葉原の通り魔事件は、今から15年も前の話になるが、まるで昨日のことのように記憶は鮮明に残る。主犯の加藤智大は死刑を宣告され、今も獄中での生活を続けている。死刑は当然だ。これだけ無差別に命を奪った人間が再び世に放たれることを知る市民の恐怖は計り知れない。


その一方で、加藤智大という人間の奥深さについても我々は知っておかないといけない。


加藤智大は獄中で文章を書き、それは『解』という作品になり今も書店に並ぶ。




ここには彼の生前の生い立ちが記され、そしてこれを読み終えるとき、我々は心の底から、犯人は加藤智大ではないのではないかという疑問と向き合うことになるだろう。彼もまた、愛を知らずに育った一人の人間なのである。


加藤智大は、きっと言葉というものを知らない。それは母の躾に起因する。九九が覚えられないという理由で頭を風呂に鎮められ、出身の青森の極寒の中、衣服なしでベランダに放置されるなどの躾を受けている。知能同士の会話の及ばない、生体本能を脅かす環境で生きるとき、言語による意思疎通ではなく、態度による抗議でしか感情を表記できない人間になるのは想像に易い。実際、加藤智大が就いていた派遣会社においても、些細な人間トラブルに対する回答は全て無断欠勤という態度のみの抗議であり、そこには、絶対にあなたたちには言葉が通じないのだという果てしない諦念が見てとれる。


その末の秋葉原通り魔事件である。動機に関しては同著において、ネット掲示板の自分のなりすましに復讐するため、と語られており、その付近の詳細は読み進めるだけで鳥肌が立つ。歩行者天国へ突入する前、その入り口の交差点で加藤智大は「3回失敗」し、止まっていた。「頭では突っ込むつもりでいたのに、体のほうが勝手にブレーキをかけた」彼が最終的に「心を殺した」のは、「成りすましらへの心理的な攻撃を開始してしまったこと、つまり、掲示板に秋葉原無差別殺傷事件を宣言してしまったことで、もう後戻りできないところまで来てしまっていることに気づきました」という掲示板への固執からだ。


(一部、以下の記事より引用)

ddnavi.com



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ではこんな彼に死刑を宣告するとはどういうことなのだろうか、とさらに考えざるを得ない。それは、自身のコントロールの及ばない言語の壁を、別の言語の壁でさらに補強するということに他ならないのではないだろうか。


加藤智大もまた、理不尽な運命の被害者であることは間違いない。もし我々の親が、九九が覚えられないという理由で風呂に頭を沈め、雪の降る外に放置するような親だったとき、ナイフの一つでも振りかざさない自信は果たしてあなたにあるだろうか。もしそのナイフを振りかざす判断能力がすべて本人由来なら、加藤智大に死を宣告することは合理的かもしれない。しかし加藤智大においてはそうではないということが『解』を読みおえるときには嫌というほど体の奥まで刷り込まれることになる。それなのに、最後のナイフを振りかざした加藤智大に『死ね』と宣告するのは、果たして道徳倫理に適うのだろうか。大袈裟にいえば加藤智大は、生まれた場所の運が悪いという理由だけで、死刑という名の籤を引かされた人間でもあるのだ。


ここまで書くと誤解されそうなので断っておくと、自分は、死刑廃止論者ではない。むしろ、死刑には賛成する。なぜかと言えば当然のごとく、加藤智大が世に放たれればさらなる理不尽が連鎖する可能性が高いからである。その連鎖により下る螺旋階段はさらに治安を悪くすることは想像しやすい。死刑とはつまり、凶の御神籤を引いたとしてそれをまた箱内に戻せば再び凶を引く人間が出てくることに違いないと分かるから、今のうちに凶の神籤を破っておこうという理論のもとでの致し方ない処遇なのであり、決して、凶の籤へと姿を変えたことに対しての糾弾ではない。むしろ、周囲が吉だらけの中で凶として生きてきたことへの賛辞すら感じねばならぬような気持ちにさせるのがこの『解』という作品なのである。


だからもし加藤智大に対し「他者を殺したのだから死んでもよい」という理論で攻撃するのなら、それは加藤智大の視線ではきっと、風呂に頭を沈めてくる母親と何ら変わらない。屈辱的な躾に対する抗議の態度がさらに誰かの反感を買い、それで生まれたトラブルに彼が抗議する必要があり、という螺旋階段を下りきった者の目には、風呂に頭を沈めるのも死刑を宣告するのも、その両者は大して変わり映えのない色に映るのではないだろうか。理不尽を別の理不尽で押し付けるという処遇の中でしか生きられなかった彼に何と声をかけるのが、本当の"解"なのだろう。


しかしそれでも殺すのだ。


あなたは運が悪かっただけだ、自分たちのように生きられればここまでにはならなかっただろうと、その運命を弔いながら心臓を突き刺すのである。その業務を、我々が罪悪感を感じなくていいように日本のどこかで粛々と実行する者がいることを覚えておきたい。それを忘れて、加藤智大の身内に匿名でのメールを送る人間も、人を殺したのだからお前も死ねと語るどこかの正義の仮面をかぶる使者も、きっとこの世の誰かの頭を灼熱風呂に沈めているのである。


自分が窒息するのは昨日なのかもしれなかったし、明日かもしれないのだ。