年の暮れ、反転する世界

「しんどいよね、年末年始って」
 除夜の鐘の音は、脳の底を撫でるように響く。
「自分が誰の一番でもないってこと、思い知らされるっていうか」
 画面の中では、双子だろうか、幼い男女の兄弟が、お揃いのダウンジャケットを着て楽しそうにはしゃいでいる。
「大晦日とか正月って、人生の通知表みたいな感じがする」
(略)
「誰にも踏み込まれないように生きてきたくせに、こういう時はちゃっかり寂しくなっちゃったりするの、ほんと面倒くさい」


朝井リョウ『正欲』―


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2021年はどんな年だったかと聞かれたら、すべてがひっくり返った年になった、と答えるのが最適だと思う。去年からいいことはほとんどなかった。


2019年までは全ての歯車が噛み合うような生活だった。部活に打ち込みながら京大での学部変更も上手くいき、もちろんその研究内容は常に鬱葱なものだったけど、でも自分のやりたいことはこれなんだと胸を張りながら生活できたから心の奥底から自分を憎む必要はなかった。


それが、2020年から徐々に狂い始める。


自分まで死にたいと思うようになった。色んな人の話を聞いたからだ。ほとんど自死遺族の会の経由。油紙に遺書を包んで飲み込んで焼死自殺し、司法解剖の末に遺書が発見された人がいた。海に飛び込んで亡くなった息子の亡骸を浜辺まで引きずって何もできず抱きかかえた父もいた。そんな人たちの話を聞きながら、自分の旦那は"普通"の自殺だから、私なんかが悲しんではいけないような気がすると語った妻もいた。


この世に地獄はある。


その地獄にのまれそうになった時、僕は、死が合理的であることに気がついた。そんな地獄は一万人に一人くらいしか経験しなくていいものだとしても、その地獄を見た人の話を聞けば聞くほど、この地球の人間は、嫌でもその地獄に浸る可能性をはらみながら生きているのだという現実を直視しなければならない。そこから逃れ、今後の苦痛を一切なくすために死はあった。全てを無に帰する魔法の呪文。僕はしっかり絶望していた。こんな理不尽がランダムに訪れる世の中なら、早めに撤退しておきたいと....……。


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行動力だけあるのがばかなところ。


www.mattsun.work


今から二か月くらい前のことなのだけれど、ほとんど記憶にない。おとぎ話を読んでいるような感覚。二重人格の体験版を買ったような気分。


でも僕はこの記事を書いたおかげで、絶望ゆえに死ぬことはなくなると思う。

しかし絶望とは本来、絶望しながら寿命を全うしなければならないこの運命そのものなのだ。絶望すればその命を絶つことで解放されると考えた瞬間それは希望であり、絶望ではない。


絶望の末の死の景色が横目にちらついたあたりで気がつけて良かった。僕は絶望で死んでいなかった。希望で死のうとしていた。早く逃げたろ、と思った。そう思うとき、ずれてね?となったあのときの、本当に、ふとしたひらめきのような瞬間。


僕は今でもこの世にしっかりと絶望しているのだと思う。それは今までの記事でいっぱい書いた。何かの加害性を孕むと分かっていながら何かの行為に踏み切らなければいけないこと、それによる不幸など誰にも防ぎようがないこと、その選択の瞬間に出会ったことのない人間の嬉々とした不愉快な笑顔をこの先なんども見なければならないこと。


でもそれを燃料にして僕は死ななくなった。絶望すればするほど、その絶望を抱えながら天寿を全うしなければならないこの絶望の人生が正当化されていく。だから死ななくていい。これこそが絶望だ、と体の中で薪が燃えるような感覚。この二か月くらい、死にたいと思ったことは一度もない。


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生きるのを諦めるのにはとてつもない体力がいる。僕は若いからその体力があったのだと思う。不幸を見続け、それを媒体にずっとブログなり小説なりを書いているこの人生ははっきり言って虚しいし、いつその人生は終わってもいいと思った。悔いなんてなかった。


でも上に書いたような今年の経験をしたことで、諦めの体力の矛先が変わった。今までは諦めの体力が、人生を諦める方面に注入されていた。それがこの二か月くらいで全部変わった。絶望しながら天寿を全うすることが正当化されたおかげで、生きること自体を諦めなくて良くなった。代わりに諦めたのは「かっこよく生きること」になった。生きることを諦める体力は、かっこよく生きることを諦める体力に、大変身を遂げた。


ダサく生きてる自分が好きになった。むしろ、こんな人生を経験できてないお前ら、みたいにすら思うようになった。今までは誰かの思う普通の像にいつまでも重なれない自分を嘆くような気持ちがあったが、それも全部消えて、例えば「大学を出たら就職しないと」みたいにいう人を見たときに「うわ、この人は就職しないといけないなんて呪いにかかっている。ウケるな」というように面白い観察対象を提供してもらったような気持ちになる。



なんやかんや、どこかしらで、みんなその呪いにかかってるんじゃない?



みんなの意見に合わせないといけないとか、夫の方が収入は高くないといけないとか、結婚は30までとか、殺人犯が小学生の頃からずっとホラーマンガばっか呼んでたとか。みんな自分が格好良く生きないといけないと思ってるから、誰かが格好いいという迷信を一つでも多く作りたがるし、自分とは違う格好悪い人たちを世間が納得できるダサさで説明しようとするじゃん。でもそんなものは全部呪いなんだ。事実とはかけ離れてる。それにすがって嘘の宗教に身を委ねて生きるのは幸せだろうか。一人違う意見がいたっていいし、妻がパワフルなら夫が主夫やればいいし、愛し合えればじいちゃんばあちゃんが結婚していいし、ホラーマンガが好きな小学生はほとんど犯罪を犯さずに一生を終える。僕も例外じゃない。嘘の宗教で死のうとした。絶望で自分は死ぬんだ、というふうに。


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その反転を経験しただけで、この一年は良かった。自殺したくなる自分をどう正当化するのか分からなくて、普通に働けない俺、普通に親に見送ってもらえない俺、普通に同窓会に行けない俺、その全部を死を以て諦めようとした。そのネジがもうちょっとうまくかみ合っただけで僕は本当に死んでいたと思う。でもちょっとネジが外れたおかげで、生きている。そのネジがころころと体の側を転がって落ちるのを見るとき、そのネジをもう一回はめようとする体力が僕には残っていなかったおかげで、言い方を変えれば、その体力が湧き出ることのない健康な体を持ってこの世に生まれられたおかげで、ネジすら自分で締められない自分が微笑ましくなった。ずっとネジはそこでいい。故障しない完璧な製品を求める体力は、一歩ずつ進むたびにネジが外れる愉快な生物を鑑賞する喜びに変わった。外れるネジによっては更なる絶望がこのさきも待っているだろう。でもそれが本物だ。どれだけ絶望しながらでも、ネジを落としながら生きないといけない人生こそが本物だ。