飾り飾られないと、生きていけない言葉たちへ

「あのさ、精神科って分かってる?」
 俺は影山の顔を覗いた。膝の上で固く手を組み、涙目で地の一点を見つめている。絶対にこちらには目を合わせないという硬い意志が見てとれた。
「精神科っていうのは、神経細胞の伝達とかに不備があって、それが心理的な悪効果を引き出している場合にかかるべき場所だ。過度な妄想とか、明らかな意欲の低下の継続とか。そうではなくて影山が訴えているのは体の不調なんだろ。お腹が痛いとか頭が痛いとか、そういう時に行くのは内科だ。診断してもらって薬をもらえば治る」
「上沼先輩の、そういうのが」
「強いて言っても心療内科だ。心が原因でその作用が体に出るなら精神科じゃない。それで、なんて言われた? 病気だったか? だったら謝る。俺の発言のせいで病気になったならその通院代も薬の処方代も全て払う」
 影山という生き物の概要をほとんど確信していたせいで、何でも言えた。影山にとって自分の体の不調自体はどうでもいいのだ。影山は自分の体の所有権をとっくに他人に引き渡している。病気など本当はどうでもいい。〝精神科に行かねばならないほど〟というのは、今の状況が辛いという感情をより世間が納得しやすいようにするための便利な副詞でしかないのだ。だから簡単にぼろが出る。自分の情報を強調する副詞があるという事実のみが大事で、周りが納得さえすれば、その副詞の内容は何でも良いのが丸わかりだ。

―自作品より一部抜粋―


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高校の時に教わっていた国語の教師で、現職で作家としての活動もされている先生と偶然にもお話する機会があり(zoomでですが)、自分の書いた小説を齧って読んでいただいたので、その感想などもお聞きできました。


顔を知っていて話したことがある作家はこのかつての先生一人だけであり、貴重な経験になりました。小説の書き方、といえばざっくりですが、そのような話の中で特に印象に残ったのは、文章内で副詞を使うときの異様なほどの心配りでした。使い方というよりもむしろ、使ってはいけないくらいの心構えで望むべきだ、と言い換えてもいいかもしれません。


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副詞とは、ご存じの通り、動詞を修飾する言葉です。ゆっくり走る、とか、いやいや話し始める、とか、人間の動作がどれほどの程度のものなのかを分かりやすく解説する言葉です。これを小説で書くと、破綻するという話でした。先生が自身の体験談と共に語ってくれた内容を記します。

少年は深く丁寧にお辞儀をした。僕は何も言えなかった。


先生がかつて書いたこの文章に、それを添削してくれた人はこう告げたそうです。「これ、本気で書いてる?」と。自分もなんとなくその言葉の真意が掴めそうなものの、しかしそれを言語化することは出来ませんでした。この文章がまずい点は、以下にあります。


まず、深く、丁寧に、という言葉の感想は、登場人物ではなく作者のものであるということ。作者がその登場人物のお辞儀を「丁寧なもの」にしたいだけであり、ではその丁寧だと感じる所以がどこにあるのかが一切表記されない点にある、ということです。日常生活を送るうえで我々は、修飾語の内容は頭に上りません。例えば、直角以上に頭を下げる人を見て、「深い」「丁寧だ」という情報は後からそれを解説するためにつけられる言葉であり、人々はその情景をまず視覚で認知する以上、第一に知覚する情報はその腰の折れ具合であり、お辞儀と共に重力に負けて垂れた前髪であり、体が折れたおかげで上半身に隠れた下半身、なのです。それらの視覚情報が総合的にその人に「丁寧だ」と感じさせるのであり、初めからそれを「丁寧だ」と語るところに文学というものはない、という話でした。だから、次のように書かないといけないのです。

腰椎が背中から突き出るのではないかと思うほど腰を折った少年の、重力に負けて垂れた前髪を見て、次に僕が放とうとした言葉は遠のいた。


この文章を読んで「それはなるほど丁寧だ」と読者が感じるとして、そこの段階を読者に任せて初めて作家なのだと。面白いですね。ここで重要なのは、この様子を見た読者が「丁寧だ」以外の感想を感じる余地を残しているという点にあります。例えば、そこまで深いお辞儀は意図的な慇懃無礼だという感想を持つ読者がいてもいいでしょう。どのような感想を与えられるかは前後の文脈にもよります。作家とは視覚情報を抽出して描写する仕事に徹するべきであり、決してそれが丁寧だなどと独りよがりの解答を与えてはならないのです。それで初めて作家が読者を”信用した”ということになる。こう思ってくれ、登場人物のこれはこのように解釈してくれと作家の方から願うことは、端から読者を信用していない失礼な行為でもあったのです。


「彼はゆっくり走った」ではなく「彼の体が僕の前を通り過ぎる間に夕食の献立くらいは考えられそうな間があった」と書く。「いやいや話す」ではなく「次の言葉を告げるのには、唇の間の接着剤をベりべりと剥がすかのような抵抗を伴った」と書く。あとは、読者に感じさせるのみ。


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小説を書くという話からは横に飛びます。


さてこのような副詞の話は、今まで自分が感じたある現象と結びつきました。それは「副詞と共に自分の状況を説明する人たち」です。


当記事の一番上で書いた文章は自分の小説で書いた一節なのですが、これを書いた背景には、自分が実際に「なんてこの人は薄っぺらいのだろう」と感じる人間を描写したかった思いがあります。引用で直に書いているように、世の中には「今の自分ってこんなに辛いんです」という状況を誇示したいだけの人間がいて、そういった人間にとってはその”副詞”だけが重要なので、その副詞にはよりハードなものが選ばれます。その末に選ばれやすいのは「まじで鬱」「精神科にいくほど」といった安い言葉であり、では実際に鬱という状態がどのようなものか、精神科と心療内科の違いとは何か、神経症と精神病の違いとは何かと聞けば何も知らないような人間たちばかりなわけです。


京都の某診療所の院長の言葉を引用します。

ところが最近ときたら、へいきで自分は「うつ」なんだと思いますと漢字が書けないのでひらがなで伝えて堂々と医者をたずねてこれる時代となってしまったのである。きれいに髪も染め、メイクもばっちりきめて、はやりのお洋服やお靴でめかして、じぶん勝手な事情をほうっておけばいつまでもベラベラ、ベラベラ説明できる“元気”な「わかい娘が鬱病のわけないだろ」と言ったら、むくれて「うつの診断書をよそで書いてもらいました」とGoogle reviewでほざくやつまで出てくるしまつである。ネットに小医にたいする悪口雑言をこれでもかこれでもかと書きこむネガティヴ・パワーだけは溢れ、みなぎっているのである。語るに落ちて、ますますうつ病ではないと万人に自ら知らしめているのである。そしてその愚をみづから悟ることはない。じぶんの思い通りにならないと気のすまないADH/ASのわがまま娘もむすめだが(これがいわゆる「新型うつ」の正体である)、それに迎合してにせの診断書を書いてやる医者も医者だよ。精神科医なんて情けなくて、ほんとうに辞めたくなってくる。


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なので今回「小説における修飾語の解釈」に関して話を聞いたおかげで、色々と繋がったのです。良く正体を知りもしない何かを副詞として使うことは、それを聞く人間のことを信用していない行為にほぼ等しいのだと。自分は今このような状態だ、分かってくれ、その一箪のみが重要なのであり、ではそれが相手に伝わる時にどのような化学反応を起こすのかということに対してはほとんど興味がない。それが即ち、お辞儀に対して「丁寧だ」と修飾して楽になりたかった書き手であり、自分はうつだと元気に語る人々であり、言葉を飾る代わりにその話し手である本体の人間の愚かさはさらに助長されていくばかり………。


しかしどうにかして、言葉を修飾せねばやっていけないところに、我々人間のあまりの脆弱さにも触れさせられるわけです。苦痛は本来一人で抱えるべきではない。似た人間がいればとっとと打ち明け、とっとと頼り、とっとと楽になれば得なのは間違いがありません。しかしその表現方法で、今のあなたの状態だけではなく、あなたの語彙そのものが問われる。自分が一過性の苦痛を抱えているという状況を「うつだ~」としか表現できないその語彙の弱さを見るとき、ではこの人は、少しでも目を離せば自殺衝動を実行に移す患者を目に前にしてどのように自分を説明しなおすのだろうかなどということを考えてしまいます。


言葉とは即ちカメラのピントを合わせる被写体であり、そのフォーカスの訓練こそが国語なのでしょう。我々はレンズがとらえた画角の中のその色を具体的に語る訓練を日常で常に強いられているのであり、我々に求められるのは決して緑っぽいから森だろうと語ることではなく、それが森ではない可能性の恐れと対峙しながら、森の中でも日の当たる緑と日の当たらない緑の違いの言語化を諦めぬ道を辿った先にこそ、その感性の発達が待つのだと考えます。