嘘で気化する誰かのバトン【『そして、バトンは渡された』を読んで】

注 当記事は、小説『そして、バトンは渡された』のネタバレを含みます。引用を各所から行うだけなのでストーリーの概要には触れませんが、今後作品を楽しむ予定がありましたら、自己責任で読んでください。


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早瀬君がそう答えると、森宮さんは「しばらくってなんだよ。時間が経てば、次はケーキ作りの勉強だとか言いながらフランスにふらっと行くんだぜ。こんな不安定な男との結婚を認める親は一人もいないから」と食ってかかった。


本屋大賞を受賞した小説『そして、バトンは渡された』の主人公である優子は、幼い頃に母を亡くし父とも別れた後に異なる親の元を転々とし、最終的に今の父である森宮さんのもとで、森宮優子を名乗る。




題に書かれる「バトン」とは、即ち複数の親の間で何が引き継がれてきたのか、そして最後に現父から娘に向けて何を伝えるか、というところを意味するものであり、通常とは異なる幼少期を過ごした優子が成長し、ついには伴侶を持つとき、周りの人間は何を思うのか。そんな作品だ。


そして上記引用の台詞は、長く付き合った早瀬君と森宮さんが初めて会ったときに、森宮さんが放った言葉である。


悔しさを、不安を、嘘で埋めている。


当作品は、優子の学生時代を第1章、早瀬君との結婚への段取りを第2章として構成されているが、第2章は後半の4分の1ほどであり、そのわずかな部分に、森宮さんが結婚を認めるに至るまでの経過と、優子の複数の親たちの間にあった真実を明かすパートが詰められている。その着々とした段取りに、僕の稚拙な頭はついていかなかった。あれだけ早瀬との結婚など賛成できるわけがないと豪語した森宮さんが、50ページほど進むと、優子とバージンロードを歩く、その展開の速さに自分の脳はついていけなかったのだ。


第1章を読めば、実の父ではない森宮さん自身の葛藤は痛いほど描かれており、そんな父として半透明な存在だからこそ、優子の結婚に対し、自分の望むような結婚をしてほしいと願う気持ちになるのだろうと理解ができる。森宮さんは常に、優子と真の意味で繋がっていないのではないかという不安を抱えていて、その縫合のきっかけを探していたのだろう。それが、優子の結婚の申し込みの瞬間に表層化したのだ。風来坊との結婚は俺は認められない、そんな俺の願いを引き継げる娘になってくれ……という思いに、その縫合の兆しが見えたのだろう。


しかしそれで表層化した言葉は嘘なのである。こんな不安定な男との結婚を認める親は一人もいない、という、そんな嘘で、森宮さんは自分のもとから娘が旅立つ不安を固めてしまったのだ。


登場人物のその感覚に僕はどうしても感情移入ができず、読後にはざらざらとした野性感覚を味わった。


バトンとは何なのだろうか。そしてそのバトンを描く小説の真たる姿とは…………。


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読書とは何か、ということをよく考える。自分が答えるとするなら、それはこうである。



ここで議論されるべきは、その漏らし方なのではないと感じる。僕は常に、その感情をストレートに漏らすことでしか逃げられない人間だ。死にたいときには死にたいと口にすることでしか救われないし、その命を、運命を、直視するような感覚でしか自分の呼吸を把握できない。それは、生きているというだけで与えられる絶望から逃げるため。だから僕の書く文章は常にダイレクトで、それは一切混じりっ気のない素直な吐露であるとともに、礼儀をわきまえ他者への加害性を考慮するという所作に欠け、嫌われる人にはとことん嫌われる羽目となる。


一方で森宮さんは、直視をせずに嘘で方向転換ができる人間なのだろう。森宮さんは優子の結婚が怖く、しかしそれを「俺は優子がどこかに行くようで怖い」と言って優子に伝えることができない。それを「風来坊との結婚を賛成する親はいない」という嘘で逃がすのだ。そうすれば、自分の中の恐怖感情と向き合わずに逃げられる。嘘で逃げるのはなぜかと聞かれたら、実の親でない身分、優子を大切にできていないように感じさせられるひっ迫した不安を、言葉という手段で可視化して形にするためだ。


これら二者間においては、善悪の概念を超過する。誰もがその苦痛から逃げることを必要としており、議論するのはその方法論においてのみだ。方法論の違いでいがみ合うことは多々あるが、しかしそれにより辿り着く場所が同じであることを理解しておくために読書というものはあるのではないか。それは右翼と左翼のようなもので、革新か保守か、正反対の二者が実はどちらもこの日本はこのままではまずいという危機感により駆り立てられているだけの構造だったと知る時のように、読書とは、ただ一つの、他人の"ルートA"を知る機械に過ぎないのである。


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親という生き物は、常に子供に、ルートAを知っていて欲しい生き物なのだろうか。そういうものとして親という存在を俯瞰したらよいのだろうか。


就職先など進路がないにもかかわらず留年せずに卒業をすると言ったとき、自分にとってものを書くとは金を稼ぎ生活をする手段ではなく命を感じる手段だと言ったとき、それは責任のない楽がしたいだけの人間のすることだと言い切った親の言葉の真の意味を、自分は理解していなかった。僕はそのまま受け取ったのだ。本当に、そうやって日雇いで生き続けることはこの社会にとって悪なのだと受け取った。心の中ではそんなことはないと思いたいと信じつつも、しかし、この僕の面倒を常に見てくれた先に僕をここまで二十年もかけて成長させた父なる母なる存在は自分の中であくまで絶対的な位置を占めているのだという感覚がそれを切り取った。


しかし一度だけ私心を捨て、親のルートAに染まるとき、別の見方が現れてもくるのである。日雇いで命を感じながら生きるという、何の責任もなく適当に生きる生き方に自分の子供が染まると知ったとき。どうやら自分の子供がルートAではなく、自分が今まで必死に避けてきたルートBを通って生きていくつもりなのだと知らされたとき。その不安はとたんに言語という手段で表層化したのだ。森宮さんが、こんな不安定な男との結婚を認める親は一人もいないと、少し考えたら嘘だと分かることを脊髄反射で口にしてしまったように。


その構造が見えたとき、子供が感じるのは、責任がないと言われることの悔しさや怒りではなく、自分という存在が、あなたたちのもとから生まれてきたはずの自分の存在が、親の不安を解消するための一時の噓により逃げられたことに対する寂しさだった。きっと、ダイレクトに伝えて欲しかったのだ。まだ僕も知らない親の不安を、そのままあるがままに。しかし僕が、自分をこの世に産み落とした親に直接「死にたい」とは言えないように、親もまた「生んでしまって申し訳ない」とは言えないのだ。どれだけ心を鬼にしても伝わらない言葉が、自分よりも先にどこかの空気に絡め捕られていくそれを、指をくわえて見るしかない寂しさは、自分が与えつつ、相手にも与えられつつ、なのである。その気化したバトンを、どのように感じ取っていくか、そこに人生の課題はあるような気がする。


気化したバトンを見ずに生きるのも、それまた一つの選択肢だろう。


僕には、バトンを与える側の気持ちが分からない。与えたい、とも思わない。僕はいつだって、自分の遺伝子はなるべくこの世に残さずに死んでいきたいと考える人間だった。大学時代のInstagramもアカウントを削除しないと気がすまないくらいに鬱も深まり、この世に本当に絶望しかけたときに、しかしそれでも気化したバトンに息継ぎをする間を与えてもらったのも、また事実なのである。


そのバトンが、自分の頭の中で、それは自分だけが背負って生きていかねばならぬと必死に抱え込んだそれがふとした瞬間に漏れてしまった時刻に、誰かが出会ってくれれば、僕はそれだけでこれ以上ない幸せをかみしめると思う。