自死を語る者の"ハピネス・バイオレンス"

一つの記事になるくらいに面白いことがあったので、せっかくできたネタを無駄にはしまいと、さっそく記事にしました。


自死に対する意識の話です。自死を防ぐために「備えておこう」と考える人たちと、幸せになることのとてつもない暴力性について。この日本という幸福大国を生きていく中で、一般教養として学んでおきたいことくらいの価値はあると思います。


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ことの始まりは、一通のダイレクトメッセージでした。


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もちろん名前を伏せますが、かつて医学部学士編入試験のことで相談にのった人でした。僕のTwitterアカウントをフォローしてくださっていて、僕はブログを更新するたびにその記事をあげていますので、それを見た上でメッセージを送ってくださったということでしょう。実際、11月には死にたいやら楽になりたいやらこの寿命こそが絶望だやら書いていたので、それに比べたら最近の記事がまともになったと感じさせたのかもしれません。


正直、このメッセージを読んだときの第一印象は「うわ、出た」でした。


顔すら見たこともない赤の他人であろうとも、あなたは幸せになってほしいと固有の幸福論を望んでもない場所から投げ込めるタイプの人種。申し訳ありませんが、僕はメッセージを見ただけですぐに分かります。この人はきっと、自殺というものをニュースくらいでしか見たことがなく、もちろん自分がそれを本気で考えたこともない人でしょう。


まず「通常の生活」と書かれたことが恐怖でした。一週間に一度アップされるかどうかの三千文字程度のブログを見て「通常の生活」が分かるらしいです。ぜひとも分けてほしい能力ですね。


さらに追い打ちをかけるのは「想定範囲外のことに対して備えておけ」という意図の文章。


で、でた!!!


自死の予兆を、なにかで備える、というリスクマネジメントで包括できるタイプ。皮肉に聞こえてしまったら申し訳ないけれど、こういう人、本当に羨ましいと思います。備えておくことで自死を防ぎたいという願望に、どれだけ備えても防ぐことのできない死に対する畏怖の念はひとかけらもないんですよね。自死を備えで防げると言うことは即ち、今まで自死で亡くなった人には備えが足りない面があったということにほとんど等しいです。


はっきり言うと、自死に対する備えを堂々と語る人間にとって自死とは新聞の一角を埋めるだけの他人事であり、当事者ではありません。なぜなら、死とは、生の備えに対する漏れだからです。我々は基本的に、死ぬことを考えて行動していません。今これを読んでいる一秒後には地震が発生するかもしれないし、これを読むスマホから顔を上げれば通り魔がナイフで胸を刺してくるかもしれない、しかし、そのリスクを全て防ぐことは出来ません。もちろん、机の下に隠れることや、スマホ歩きをしないことでそのリスクを軽減させることは可能です。しかしそれは、あくまで軽度の災害に対する被害の軽減が目的であり、震度7地震に倒壊した建物の下敷きになって生きられる人間などいなければ、高速でこちらに突っ込んでくるトラックに乗る通り魔を避けられる人間だっていないのです。そのリスクまで考えて行動することは人類にとって不可能であり、死のリスクは基本的に、我々の無意識の領域に葬り去られているにもかかわらず、何かで死んだ他者が目に入ることで表層化されたほんの一部の原因とリスクが言葉で統制され語られているだけです。


自死に関しても当然その巻き込みを食らいます。誰かが自分で死んだ、なんて可哀そうなんだ、出来る限り防がないといけない、という、社会に生きる者としての独立した正義感がそれを煽ります。その端くれが、このDMでしょう。あなたも備えておくんだよ、いう赤の他人への忠告を可能にします。あなたのことをはあなたが決めるという自然無為を、社会は次々と殺します。


とりあえずこのようなことを考えまして、返信しました。


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シンプルに、どのように僕が大丈夫だと判断したのか気になったのと、あとは、備えってなんやねんというこれまた単純な疑問をぶつけました。


すぐに返信をくれました。


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根拠のない見誤り断定だったらしいです。ああなるほど、すごい、これは是非取り入れたいなと思いました(皮肉ではないです)。根拠がなくても人に大丈夫と言えるのってたぶん才能なんですよね。僕にはできません。だって目の前の人が本当に悶え苦しんでいたら、「この人にさらに生きさせることは罪なのではないか」なんてことを僕は考えてしまいます。つまり、ある程度納得できる論理的な根拠がないと僕は他人に大丈夫とは言えない人間なのです。


しかし、そこには数多の暴力性が影を潜めます。即ち、他人に根拠なく大丈夫だと言えることは、裏を返せば、他人に根拠なくお前はダメだと言えてしまうということでもあるのです。自分の感情に従うかどうか、及び、自分の過去の経験にマッチするかどうかで他人の状態の善悪を超えにできてしまう人種だということ。まさに表裏一体ですが、僕からすると、根拠なく大丈夫と言われても「で、あなたはだれ?」となります。ひねくれているので。


後半はもう同じことの繰り返しなのでいいですね。薬か気持ちの持ちようか知りませんが、何か備えておくことが自死に有効だと思っていらっしゃるのでしょう。


最後にまとめて返信しました。気持ちはありがたかったので、その返信だけしました。


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ここに書いたことが僕の全てです。一般人の幸福論で我々は幸せにはなりません。自死を身近に経験した人ほど必ず、その備えの無力さ、自らの生物としての関与力の少なさに絶望する段階を経ます。その絶望がないとやはり、他人に「備えておけ」と平気で言えてしまうんですよね。


ちょっと話を戻しますが、当人にとって自死とは、高速で我が身を轢きに来るトラックであり、地震で我が身の上にのしかかる何トンもの家です。そのように明らかに目に見えるものであれば、他人から見ても「ああそれは無理」「人間の力ではどうしようもない」となるのですが、自死のように心のこととなると、目に見えないものになった途端に、自分にとっては震度7地震が他人には震度2くらいに見えるのです。だから「備えておけ」と言えるわけです。それくらいだったら、食器が落ちるくらいで済むでしょう。その食器が割れたときのかけらで怪我しないくらいのリスクマネジメントなら、確かにできます。その好意なら受け取れるのですが、震度7地震を経験し家の下敷きになり亡くなった親族を持つ人間に「次の地震の備えをしておきましょうね」などということの暴力性、分かりますか。


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最近、幸せになりたいと思うことが減りました。約1か月前の自殺企図以降、死にたいと思うことはほとんどなく今まで生きていますが、幸せになるということはつまり震度2くらいの地震だけしか知らない人生に染まるということであり、そうするうちに、他者の震度7地震が震度2くらいに見えるようになるでしょう。それはさらに言い換えれば、無意識に他者の屍を踏みしめる独りよがりの幸福論が我が身の中ですくすくと成長していくということであり、まさに今回のDMのように踏みしめられた感覚を味わった者の意見としては、そちら側に回りたくはないな、という思いがあります。だったら不幸せなまま生きていこうと思えるわけです。


本物の絶望とは、自分がいかに虐げられているかどうかではなく、自分が少しでも幸せになりそれを口にでもしてしまえばこの世のどこかの誰かの屍を踏みしめることになるという感覚に耐えながら、それでも幸せになりたいと願ってしまうことの罪深さを知ってしまうことです。


この一件を踏まえてツイートしたこの思いが全てです。





この地獄を知れて良かった。きっとこの自死のハピネス・バイオレンスを知らなければ、自分のハピネスで自覚もなしに誰かの頭を踏みつけていただろう。その感覚に鈍感な人間にならなくてよかった。もちろん、自分は誰の屍も踏まない人間だとは思わない。このDMを送ってくれた人のような善意を、僕は今まで何度も誰かに向けただろう。しかしそれが当人にとっては違うと分かったとき、私の善意がなぜ受け入れられないのだと自己本位に考える人間にだけはなりたくない。その屍を踏みしめてしまったことへの罪深さを憶えておきたいし、謝罪のできる人間になりたい。さらにそれを許してくれるというのなら、その先には見えたことのない景色が待っていることだろう。それを、あなたと見たい。