留まらない終末医療と、選挙カーと、僕が死ぬ動機

今月の初めくらい。かつてなく震えさせられる曲に出会った。


www.youtube.com



だいぶ前の曲のようで、今まで知らなかったのがもったいない。amazarashiが中島美嘉に提供した楽曲のようで、First Takeでは中島美嘉の物しかないけれど、調べればamazarashiの弾き語りも動画に残っている。


歌というよりは、文学のようなものを感じる。もしも歌詞が「僕が死のうと思ったのは学校で友達に無視されたから」とかであればこれほどの曲にはならなかっただろう。何か一つの出来事に紐づけされる感性が、桟橋のウミネコ、誕生日の杏の花、木造のストーブ、それらの温もりでしか煮え切らない心を後押しするということを、実際に肌で知る人はほとんどいないはずだ。それを僅かでも分けようとしてくれる曲がある。曲の最後は「あなたに出会っていなかったから」と締められるわけだが、その『あなた』に、この曲が既になっている。


*******************


作詞、任せてくれればよかったのに、とすら思った。僕が死のうと思ったのは。いくらでも出てくる。自分だったら何を書くだろうか。初めに思いついたのはこれだ。


「僕が死のうと思ったのは 選挙に行けと言われたから」


ちょうど一か月と少し前、衆議院の選挙があったのは記憶に新しい。街中には選挙カーが走り、至る所に貼られるポスター、SNSでは若者の投票率の低さが問題だと言って若者よ投票に行けと豪語するツイートが増えた。


僕が死のうと思ったのは……。


だったら選挙の投票を義務にしたらいい。


僕には投票をしない信仰があった。投票が面倒くさいだけかと聞かれればたぶんそうではない。間接的な民主主義において、この国の多数が選ぶ者が政治の指揮を取り、その構図が社会という見えない生物を作り出し、何も語らず、ひとときも笑わない規律がこの世の誰かを常に苦しめる。そこに無為性(=君たちは何をしてもいい、それは何の為でもない、という性質)はない。規律は例外なしに誰かへの制限だ。それなのに、国民たるもの○○であるべきだ、そうした当為性は今の時代では声を大にして語れなくなった。「誰かの反感を買うのが怖いから、○○であるべきとは大きな声では言えないけど、でも無言でそれとなくその風潮を作るしかない」という時代が、今なのだ。これは社会がリベラル化したことの巨大な功罪でもある。戦時から一世紀弱の時間が経ち、徹底した管理主義と神への愛他主義を破壊しながら向かった先は、誰もが自分の責任を自分で負わねばならない個人主義であり、今まで人々の体の外部にあった信仰の拠り所は、今の時代では全員が体の内部に持っている。お前はこうあるべきで、挫けそうになったらあの神に祈れ、そんなことを誰も言葉にはしてくれない。当為を口では語らぬ政治が、無為性と自由を保障すると叫びながらも無言の当為を国民各々の体の内部に植え付けている。


自分はどうしてもそれには参加できない、という思いが、選挙に行く足を遠のかせた。僕にとって果てしなく苦しかったのは、自分の一票が、無言の当為となって誰かに襲い掛かるという事実なのだ。これが、実際に声をあげられるのならばどれだけ楽だろう。ワクチンを打ちたくない、子供にはマスクをさせたくない、それらは全て、今や当たり前となった町の光景に抹殺されている。誰もがおかしいと思い、実は社会はこうあるべきなのではないかという個人の当為が、当為を語れない無言の政治に殺される。みんなはみんなの思うままでいい、皮肉にも自由を謳うこの国でも、多数の反感を買うだけで実行が不可能になる、そんな閉鎖空間をいつも生きてきた。


注 もちろん、不可能ではない。どんな刑罰が絡もうともそのリスクを負えばその行為に踏み出していいのだが、無神教のわが国では神の存在を自分の中の美徳に見出すしかない。その美徳を壊すことは不可能ではないが、それは即ち、戦時に非国民となること、メッカで豚肉を食すことに変わらない、それくらいの重みがあるのである。



僕はいつも、その余白に生きたかった。やらない自由(刑罰に課されないという意味での自由)がある限り、それをやらぬ人間をただ放置して欲しい。みにくいアヒルの子は、誰にも気がつかれずに粛々と暮らしたい。ただ、社会に溶け込むには、社会に放置されるには、社会の望むことをするしかないという、それ以上にないジレンマを、選挙に行くことが善だと疑わない人々の視線から感じ取った。だから生きられないと思った。これも僕の宗教だった。僕だけの中にいる神は、社会に溶け込むことを死と認識するタイプの神だった。ああ、残念。



*******************



僕が死のうと思ったのは 選挙に行けと言われたから


若者は積極的にこの国の在り方に関与すべきだ、という当為は同時に、もっと若者の母数を増やすべきだという他の当為にも代えられる。しかしその当為を語るとき、前者の当為を語る方が楽なのである。子供のいない家庭に「子供を産め」と言うのも、独身の人間に「子育て前提の結婚をしろ」というのも、そこには巨悪な暴力性を感じるのが今の我々だろう。選挙の投票率を増やすという目的のために子供を産めとは言いづらい、だから今いる人間に投票に行けという当為を語る。当為は全てそのハードルの低い順に流れ込む。でも元をたどれば同じなはずだ。独身家庭に子供を産めというのも、僕に選挙に行けと言うのも、どちらも個人決定に他者が介入する話だ。しかしその介入にはランクがある。僕はふざけるな、と思うのだ。独身家庭に当為を語ることなどできぬくせに、選挙に行かぬ若者に当為を語るな。当為で人種差別をするな。その歪みに気がつかぬ善意の眼差しで、人々を統括するな...………。


そうしてこの国が向かう先はどこか、言い当てよう。終末医療ばかりが発展し、平均寿命が150にもなったもののそれを支える人口が消える。年金だけは搾取し続けるが出産家庭への援助手当は未だに薄く(今もクーポンとか言いだして残念)、子供を産むハードルが上がり続ける中で、人殺しになってはいけないという無言の当為が加速させる終末医療で、高齢者をこの世から送り出すハードルも同時に上がる。


そんな世にきっとまた、誰かがこんな世の中は望んでいないと叫ぶのだ。この地球に平和はない。それが人を殺すタイプの戦争なのか、矯正できそうな奴から思想を矯正していくタイプの戦争なのか、というだけだ。後者の方が幸せのように見えて、それは実は、地獄を別の地獄に取り換えただけなのだと気がつくときが来る。


*******************


僕が死のうと思ったのは、地獄を地獄で埋め合わせながら歩くのに疲れたから。


僕が生きようと思ったのは、地獄の次にはどうせ地獄がくるのだと分かって楽になったから。


つぎは、白紙で投票をしようと思う。