働くこと、そして、人を助けるということ【後編】

以下の記事の続きです。


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上記事末尾で書いたような、所謂「むき出しの善意」というものには、デメリットがあるのは明らかです。それは、その搾取のしやすさにあるでしょう。つまり、これだけのことをしてやれば、あいつはこれくらいの見返りをくれる、さらに言えばそいつを多少不快にしたところで失うものもない、だったらもらえるものだけもらっていってやろう、と。当然ですが、あの竜田揚げも肉まんも車の送迎も、何一つ予期性はありませんでした。だからこそ感謝は何倍にも膨れるわけですが、その不可視性は明日の暮らしも見えぬ不安をも当然巻き起こし、さらに言えば、明日の我が身をどこかの誰かが搾取するという可能性に怯えなければ成立しない暮らしともいえるでしょう。


我々が労働者となる一番の動機はここにあるのではないか、と思うのです。


これ以上ない一番の幸福や充足感をもたらすのは、むき出しの善意によって施される数多の恩恵と知りながら、しかしそれでは解決されない明日への不透明性やその搾取性に怯えた末に、規律を守る忠誠を誓った"会社"という団体が登場し、会社同士の契約書が存在し、その中で赤々と光る捺印を必要とします。それがなければ我々は誰かのむき出しの善意から自己を守る手段を失ってしまう、労働者というネーミング自体はそれに対する防衛手段でしかありません。誰かを助けるうえで、働くということはかくも必要条件ではないのだと、紀伊勝浦の食堂の店主が既に教えてくれていたはずなのです。


だからここに眠る問題はただ一つなのだと思います。「働く」ということは他者が確認してそれを認める外因的な事項なのに対し、「助ける」というのは人々の各々の基準により違うはずの満足感を満たすという、内因的な事項であるということです。「働く」ということは、お前もこれで社会の仲間入りだという言葉が表すように他者の視線により決まる外因的な行為だからこそ、外因的な他人の視線に傷つき、外因的な他人の欲求によって満たされる、そこに個人各々の価値判断基準は排斥されがちです。しかし「助ける」ということはあくまで二者間の中で完結することだからこそ、誰かの笑顔が見られれば他の誰が何と言おうとそれだけで嬉しいし、しかしそれを誰にも与えられない自分の存在というのは同時に自己否定をも喚起する恐怖に繋がります。


そして、働くことと助けることという、対照的な性質を持った二者間の中で、内因的な恐ろしさを厚くカバーしたのが今の社会です。上で書いたように、働き、そして助けることの内因的な恐怖を無視するのならば、労働者というネーミングなど必要ないはずなのです。しかし、今自分の行っている仕事は月にどれだけの金額をもらえるだけの価値があり、この地位にのぼることで誰からも後ろ指はさされないという、そうした類の満足感を追い求めるにつれ、本来の助けるという言葉の持つ意味は、働くという概念の中から姿を消し去ったように思います。


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就職をするということ、即ち、労働者となるということへ全くワクワクしない自分の気持ちはきっとここに集約されているのだと思います。前記事にあげた図の左側へと自分が向かうことの抵抗、そこには急な坂道があり、自然無為に生きることでさらに図の右側に流れ落ちるような感覚が、自分にはこれ以上なく気持ちいい。だからこの数か月で経験した派遣仲介の短期契約の職でさえも、社会の視線を気にした挙句坂道を登って図の左側に向かおうとした結果であり、ちょうど半月前の今までになく大きかった闇落ちも、か弱い体のくせして坂道を上りすぎたことによる鬱だったわけです。言い訳だ、と思われるでしょう。ただ、社会での鍛錬なしに楽に転がり落ちたいだけの人生だと思われることはもうはるか前に諦めました。他人の気持ちなど、自分にはコントロールできないので。


しかしはっきり分かっていることも同時にあります。それは、近日の鬱は二か月僅かたりとも職が続かなかったことへの絶望ではあったとしても、即ち、自分が働けないことへの絶望ではあったとしても、自分が誰も助けられないことへの絶望では決してなかったということです。


自分には誰かを助ける力がある、と思っているわけではありません。もしかしたら自分の力などこの世のどこにも響かないという可能性には常に怯えているわけですし、しかし、誰かを助けられる余地ならなんとかあるはずです。だってこれだけ何回も闇落ちして自殺手前まで踏み込んだので、同じような境遇の人であればそこらの人間よりもはるかに共感性は高いと思います(もちろんその共感性が凶器になりうることも同時に知っていますが)。そしてその共感性の解答は、この先いつか、かつてのクジラの竜田揚げのように突如やってくるのでしょう。自分の今の行動が未来に何にもならない可能性はあります。でもそれは、あの時に店主がクジラの竜田揚げをくれなかった可能性もあると考えるのと同じくらい無意味な事であって、何かの巡りあわせで出会った今のこの瞬間に感謝して翌日の朝日を迎える、そんな人生をただ淡々と歩くことにのみにしか、まだ生きる意味は見出せません。


多くの人が参入できている社会というものに、自分はまだ片足も突入していません。前の記事のベン図の場外に自分は位置しており、言うなれば「働いてもおらず、誰かを助けることを夢見ている人」とでもなるのでしょうか。


だからもしも、働く人に何かの違和感を覚えるのであれば「普段どんな人を助けてるんですか」とでも聞いてみればいいと思います。「どんな仕事をしているのか」と聞けば意気揚々と今の職の重要性や地位を語る人に限って「どんな人を助けているのか」と聞くと「へ?」みたいな顔をするものです。そこに優劣はないのですが、しかし、例えば専業主婦だって「どんな仕事をしているのか」と聞けば口をつぐむでしょうが「どんな人を助けているのか」と聞けば「夫です」と即答するでしょう。助け方と働き方、その勾配という、社会の視線が混じる滝のような凍える水の中を流されずにそこに居続けるというだけで十分偉いし、力強いし、逞しいはずです。