反出生主義と安楽死―「生まれてこないべき」と「今死ぬべき」の境界―

たまにTwitterでこんなプロフィールを見かけることがある。


安楽死」は当然の権利、反出生主義者


それを見るとき、僕にはどうしても違和感が拭えない。安楽死と反出生主義は対立概念ではないかと僕は考えているからだ。



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どちらも、生きることを望まない人間のために考えられたものであることは間違いない。しかし決定的に違うものがあるだろう。それは何かといえば、それを全面的に認めた場合にこの世に新たに加算される不幸をどこまで考慮できているかという点で大きく異なるものがあると思うからだ。


反出生主義を実現した場合に達成されるのは不幸な命の減算であり、それに伴うデメリットである「幸せになれるかもしれない命が消えること」はこの世に存在している誰かの苦しみを増やすものではない、というのが反出生主義を最も合理的たらしめている意見だ。つまり反出生主義は、この世の今を生きる誰をも苦しめないという前提をなるべく崩さぬうえで、この後に生まれ得る不幸な命をもとから無かったことにしたいという主張そのものである。しかし安楽死は果たしてそうだろうか。もちろん、今も限界以上の闘病生活の中、苦しみ悶えながら死ぬのを待たねばならぬのかと日々苦しむ人は安楽死で救われるだろう(救われた、と思う主体を消すことに等しいためそれが哲学的に真かという議論は置いておく)。しかしそれでさらにそれ以上の不幸がこの世に加算されるという意識だけは忘れないでいて欲しい。それは「まだあなたは死なないのハラスメント」である。死ぬ権利が認められるということは、死ぬという選択肢が常に目の前にあるということであり、即ち上述の患者の状態を「死ぬことが認められないので死なない」から「死ぬことが認められているのに死なない」へとスイッチオフすることに等しいのである。果たしてこれはどれだけの人の不幸を加算するだろうか。ここまで書けば多くの人は気が付くだろう。日本人には早い。


かつて大学での研究で多くの自死遺族の話を聞いてきたが、年配の方になればなるほどその多くの人が「自分のような存在は迷惑だから早く死んだ方がいい」と語った。それは自死遺族に限らぬ話だろう。かつて僕が感銘を受けた著書である『生き心地のよい町―この自殺率の低さには理由がある―』のなかでも、今までしっかりと働き税も納めてきた身だというのに年金で暮らす自らを若者の荷物の極道ものだと語る老女の話が登場する。日本ではまさに"わびさび"の文化が発達してきたからこそ、本心を隠し、それにより常に誰かから迷惑だと思われているのではないかという不安と戦う生き物であろう。その生き物に、今死ぬことができるという選択肢が与えられることにもっと恐怖心を持って欲しいと感じる。安楽死という制度を認めるということは、上に書いたような老女を、さらに「死のうと思えば死ねるのに、まだ生きている私は迷惑かしら」と思わせることにつながるのである。この老女に対し、早く死んでしまえばいいのにと思っていた人はおそらくいないだろう。しかしそれでも、日本の文化という形のない閉鎖空間を長く生き抜いてきた人の価値観をさらにひっ迫させるものが安楽死という制度なのだと思う。日本にとっては、選べないという前提自体がかくも幸せな選択肢になっているのである。


上述の著書に関しては以下を参考

www.mattsun.work
www.mattsun.work



それに対し、反出生主義は、この世に生まれ得る生を止めるという理論なので、この世の価値観をなるべくひっ迫しないという点で、安楽死よりもはるかに合理的なのではないか、と今の僕は考えている。もちろん反論はある。例えば一つ目に、出生を夢にしている(つまり子供を持ちたいと思っている)今の人々を苦しめるではないかという点。しかしこれは反出生主義自体が答えを出している。出生が夢だから、という理由で産むこと自体が全面的に親のエゴであり、親のエゴで子供が生まれてくるから不幸な命が減らないのだという風に、出産が夢と語った瞬間にそれ自体が反出生主義のエサとなるのだ。二つ目に、では仮に反出生主義を認めて人類が緩やかに絶滅に向かう時、ほとんどが高齢者になり流通の成り立たなくなった世界の不幸の加算をどう説明するかである。これは難しい。というか答えはない。これから生まれてくる子供の不幸を減らすための苦しみだといって納得するしかないだろう。結局、すでに生まれた人間ならばその苦しみの中何とか希望を見出してやっていこう、しかしこれから子供をさらに増やすのは違うよね、というのが反出生主義の核心なのだから、この先の見えない不幸を減算するための現人類の不幸は全面的に肯定されてしかるべきである。




このように考えたとき、反出生主義と安楽死というものは、前者は存在しない命のために我々が苦しみを負う概念なのに対し、後者は、この世の僅かな不幸の減算を目的に日本の価値観に苦しみを付加する概念だと僕はどうしても考えてしまうのだ。実際、反出生主義の祖であるベネターも、反出生主義を全面的に肯定しながらも自殺は断固として否定しており「人類は緩やかに絶滅していくことが最も望ましい」としている。だからこの記事で一番初めに書いたように「反出生主義かつ安楽死賛成」というような人間を見る時、僕は「あなたは誰を大事にしたいのだ?」という気持ちになる。さらに言い方を変えれば、全てを無に帰してしまいたいというただ一人の欲望の権化にも見えてしまうわけだ。僕は安楽死反対かつ反出生主義の立場だ。しかし逆でもいいのかもしれない。つまり、出生を全面的に認めて安楽死を認める。それはつまり入り口を開ける代わりに出口も用意するということだ。僕のような立場ならば、入り口と出口は塞いでこの密室の中で何とかやっていこう、というようなことになるだろう。しかし一番残酷なのは、入り口はないのに出口だけがあることだ。いつでも出られる部屋、日本人はそこに閉じ込められて、意気揚々とストレスフリーで過ごせるだろうか。他者の隠れた意思を何とか読み取って生きる日本人我々には、この部屋からは出られないのだから仕方ないよねと、そこの前提だけは崩してやらぬ方がはるかに幸せではないかと僕は考えるのだ。



結論、安楽死には断固反対である。今すぐにでもこの痛みから解き放たれたいと苦しむ人々には申し訳ないが、でもこの国の価値観のためにはそうするしかない。法があろうとも救えないわずかな人々をふるいにかけて我々が生きているのだと感謝しながら生きるしかない。そのわずかな人に明日の自分がなる可能性は山ほどあるが、その可能性よりも、そのわずかな人を救うために安楽死を認めろと声高に叫ぶ人間を見るほうが僕にとっては恐ろしい。一人の人間を救うために他の十人を地獄に落とす、その行為の方がどうしても利己的に思えてしまう。


一方、反出生主義には50%の賛成である。現実的な中で一番理想なのは、朝ご飯はパン派かご飯派かくらいの均等な割合で国民が分散することではないかと思う。産むことはあくまで権利だ。だとしたら産まない権利もある。日本は幸せな国だ。ここで生まれた人間はなんやかんや幸せな人生になる。でもだからと言って、お前も子供産めば幸せになるのに、というような言論に繰り出されることが恐怖でしかない。こっちがいつそっちを否定した!という話だ。ワクチンも子供も全部そう。産みたい人、打ちたい人がすればいい。それを絶対に否定しないから、そっちもこっちを否定しないで欲しい、ただそれだけなのである。