己が自殺を思いとどまること、他人の自殺を止めること

自殺の計画を本気で立てたのは三回目だった。


一度目は去年の春だった。ちょうどコロナが蔓延し出し、国民がやっと危機意識を持ち出す雰囲気が出てきた頃だ。精神科で渡された抗うつ薬の副作用がきつすぎて、部活の引退試合に出られないことが決まった時だった。もうこの先に何を考えてもいいか分からなくなり、この体、そしてこの心ごとこの世から無くなることに無限の救済の意味を見出した。電源コードだけ持って、家で死んだら色んな人に迷惑だと思って山に出ようとしたけれど、靴が上手く履けなくて、何に動揺してるのだろうと思っていたらおかしくなってきてやめた。未遂ですらない、ただの企図だ。


二度目は今年の春、卒業の月だった。大学の卒業は決まったが進路もなく、しかも、部活の後輩や親の態度でさらに病み、もういいやと思った。卒業式の翌日の事だった。単位をとりきっただけなのに鬼の首でもとったように晴れやかな顔をする人々の舞台に混じるのが無理だった。イライラしすぎて、身近な人が誰も不自然に死なないおかげでお前らは悠長に卒業ごときでハイになれるのだとそこらにいる人間から説教してやりたかった。自分でも狂ってると思う。僕は春になると頭がおかしくなるのだ。今度も首を吊ろうと思った。場所は家だった。でも、頸動脈ではなく気管を締めてしまったから思ったより苦しくて、なのになんで助かったのかあまり覚えてない。確か、ベッドに足をかけたんだと思う。


三度目は昨日だった。どうしてか、今死なないといけないという気持ちになった。春じゃないのに自分でも驚いた。苦しいのは嫌だったので、電源コードを剥いて胸と背中に貼り、感電で死のうと思った。もし失敗しても後遺症もほぼ残らないらしいし。寝てる時がいいと思ったから、タイマーまでセットして、丁寧に誘電体の10円玉まで挟んで遺書も書いて、でも寝られなかった。


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痛いのがいやだ。あとは、死後に腐敗した体を誰かに掃除させるのが嫌だ。それだけの理由が、体をこの世に留めた気がする。感電で死ねばその両方がマシだから、もし本当に死ぬ時は、感電で死ぬと思う。その代わり、成功率は低いらしいけど。



抑うつ気分から回復した時に振り返ると、我ながら狂ってるな、とは思うのだけれど、生きててよかった、死ななくてよかった、と思ったことはない。もしあの時に死んでいたら、それはそれでよかったと思う。死ぬことは一種の治療なのだ。現時点の苦しみを消すという点から見れば死を積極的に選択することは合理的で、本当に個人のためを思えばそれが一番なのかもしれない。周りの人が悲しむから、という理由で自殺を止めようとすることほど愚かなことは無いと思っている。こっちは悲しみたくないからお前が苦しみながら生きろと言っているのと同じだ。口では君は一人ぼっちではないと言いながら、しかし君のそばにいるのは自分ではない、それが無限に重なる末の孤独や自殺なのであり、自殺者を救うためではなく己の美化のためにかけている声がいちばん残酷だ。


だから、仮にこれを読んでいる誰かが死にたいと思っていて、その時、それを止めることは自分にはできない。生きたままだとさらなる苦痛を味わうのであれば、ここで死んでおくことは本当の意味で救済になるかもしれない。間違えてはいけないのは、世の人々は"社会の秩序"のためにあなたに死ぬなと言っているのであって、"あなた1人の現状"のために死ぬなと言っているわけではないということ。悪いのはあなたが死ぬことではなく、あなたが死んでもいいと言葉にすることなのだ。


しかし僕は同時に思うのだ。自殺を思いとどまる方法だけならなんとか共有できる、と。


上に書いた僕の経歴が「思いとどまった」エピソードだとはあまり思えないけれど、しかし僕はこのブログからも分かるように、何かを感じた時にはそれを言語化し、それにより納得しなければ次に進めない人間なので、つまり、自殺を思いとどまったのであれば、なぜ思いとどまったのか、なぜ生きる必要があったのかを考え自らを納得させる必要があった。しかしこれは難しい。死にたい時の自分の気持ちも本当であり、しかし無闇矢鱈に命を放り出したい訳でもないのも確かだ。なのに、なぜ自殺を思いとどまったのだろう。死にたくないからなのだろうか。ではなぜ自殺を企図したのだろう。表層は死を望んでいて、心の深奥では生を望んでいるということだろうか。はたまた、その逆だろうか.......。



死ぬ時に痛いこと、僕を好きだと言ってくれる少ない人を傷つけること、先程書いたように、遺体を誰かに処理させることになること、そのどれもが嫌なのだけれど、しかしそれらは、死にたいと本気で思った肉体を現世に引き戻すには動機として軽いのだ。いちばん根本の理由ではない気がする。根本にあるのは、そうした五感で感じ取れる事柄ではなく、もっと無意識的に心臓の奥に眠る、概念のような存在ではないか。そう思って、何とか必死に捻りだそうとした。そうして僕は、ひとつの答えにたどり着いたのだ。



自殺という手段から、僕は薄さを感じ取っていたのではないだろうか、と。自殺は現時点での苦しみの全てを救済するが、救済と呼ぶにはどうしても薄いのだ。



その薄さとは即ち、盲目にならねば見えぬ幻想で救われようとしている事への愚かさである。だってそうだろう。何もかも上手くいかぬ人生、早く消えてしまえと願って自殺を試みる割には、自殺もこれまでの人生と同様に上手くいかない可能性には完全に目を瞑っているのだ。自殺だって人生と同様に、成功は実力と運で勝ち取るものである。失敗すれば後遺症で寝たきりでになり次の自殺の企図もできぬまま苦しみ続けるかもしれない。なのに自殺だけは上手くいくと思いこみ、今死ぬ事が正義だと思い込むことでしか救われないというその形が、死ぬ以外に道のない絶望の行く末としてはどうしても薄いのである。


自殺とはリスキーな挑戦であることには変わりない。しかもそのデータの統計などない。実際に死んだ人間の声だって聞けない。未遂に終わった人の言葉も、そのほとんどが声なき声だろう。実行に移した人のどれほどが成功し、どれだけの人がどれだけの思いをしたか、そんな参考元などなにもない分野に身を賭けるくらいなら、受験でも就活でもはたまたいじめに立ち向かうでも、自殺よりは遥かにフェアで、かつ先人の声ははるかにそこらに転がっていると思うのだ。


問題は、自殺という行為そのものは絶望によるものだとしても、その絶望を希望として捉えないと自殺は実行されないということである。死ねば救われる、と、死なねばならぬ絶望は希望へと変わるから命が投げ出されるのだ。師に従えば極楽浄土へ行けると信じることと変わらない。本当は10%でしか実現されない救済が、それしかない状況では100%の面をして我々の目の前に現れるだけだ。その10%を100%と信じ込んで自殺を実行することに、体の奥底では薄さを感じていたのではないだろうか。本当にその絶望は絶望か?と。希望に転換できる絶望は本当に絶望か? もっと我々は絶望に絶望しないといけないのではないか? 死ななければならない絶望に絶望しながら生きて、自ら命を絶つことなくその絶望を抱え込んだ末にしか本物の絶望は現れないのではないか? もちろん、死ぬ前にきっと全てわかるなんて安易なことは言わない。分からぬものは分からぬままだろう。しかし絶望とは本来、絶望しながら寿命を全うしなければならないこの運命そのものなのだ。絶望すればその命を絶つことで解放されると考えた瞬間それは希望であり、絶望ではない。こうして常に絶望を見続けてブログを書いている身として、自殺をあたかも絶望の頂点に君臨するかのような物言いをすることは、本来禁忌なのである。


しかしだからと言って、他人の自殺に対し、それが安易で薄い選択だったのではないかとは決して思わない。僕が自分の自殺を振り返ってそれが薄い選択肢だったと思うのは、それがあくまで"手段"としての自殺だったからだ。自分はこの世から消えるためだとか苦しみを消すためだとか、よくは覚えていないけれど、その何かの実現のために手段として自殺を選択したから薄いのだ。しかし他の自殺もそうだとは思えない。今本当に悶えるほどの苦しい最中にいるのなら、すでに殺された精神と共に、最後に肉体をこの世から切り離すという行為自体が目的となるほどの苦しみを前に、それは手段として薄いのではないかと声をかけることなどしたくない。したくないというか、おぞましくて到底できない。それはきっとあの時の友人がそうだったのだと思う。夜な夜な送られてくる脅迫まがいの文章を前にして手段としての自殺の善悪を議論するほど残酷なことはなかったと思うのだ。結局、まだ自分はその善悪を議論できるほどに幸せで余裕なのだ。その余裕を無理に絶望から希望に転換する前に、絶望を希望とすることに早々絶望して生きるほうが、絶望の本物に辿り着くことをやめない方が、僕がこの先も紡ぐであろう言葉の数々は遥かに多くの人々の胸を打ち続けられるのではないかと思う。それが希望となるのなら、死を選ぶ希望よりも何となく救済として太い気がした。太いというか、強いというか、まだ戦える。



だから自分の自殺だけなら、僕は今後も何とか踏みとどまれるような気がしている。もちろんその自分の正解を他者に当てはめたりなどしてはいけない。自分のこの救済が誰かを救うなど、そんな傲慢なことは今は到底考えられない。ただ、この救済の太さを少しでも分かり合えるのなら、この文章に辿り着いたあなたがもしも救済の薄さに自殺を思い留まったとしたのなら、僕はあなたと酒が飲みたい。その酒に、今まで燦燦と光り輝いてきた命の光を見たい。今日もその光を消さなくて偉い、と。もちろん、それを消してしまっても良かったと思う。もしその光が消えていたとしても、その光を死ぬまでともし続けたことは間違いなく誰にも誇ってよいことなのだ。しかしその光が出会うまで僕は文章を書き続けることをやめないだろう。この世のどこかに、いつか、届けられる日が来たらいい。