言論のリベラルに"余白"を考える

小学一年生の時の話だ。当時の担任の教師が、学級を運営するにあたって絶対に放ってはいけない言葉というものを制定していたのを思い出す。その言葉は七つだった(この七という数字だけ何故か鮮明に覚えている)。死ね、キモい、ウザい、クサい、あと三つは忘れた。どれも小学生の頃から使わせるには邪悪で野蛮な言葉たちである。


誰かを傷つけその尊厳を否定するリスクの高い言葉であるという理由で全面的に禁止されたのだろう。子供を教室に預けている親からしても、なんと立派な教育を、と手を叩いて讃えられることだろう。


このような書き方で始めているということは、と、察しのよい人は気が付いているのかもしれないが、この先の文章で僕はこれを否定する。もちろん否定と言っても、前述の単語たちを積極的に使うようになるべきなどと言い出すつもりはない。規制は必要だ。しかし、言論の自由は昨今の情勢を見ていてもさらに統制されている傾向にある。誹謗中傷に賠償金が払われる時代など過去にあっただろうか。戦争反対と口に出すのも確かに刑罰の対象でありその頃から言論の自由はなかったと言っても良いが、しかし、平和ボケの中で一切の加害性を排除しようと試みるような言論統制は過去に類を見ない。


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この記事を書こうと思ったのは、ネットで石川優実氏の動向を追っていてのことだった。KuTooのこともほとんど何も知らないし興味はないからその内容に関しては黙秘を貫くが、簡単に言えばフェミとアンチフェミが頑張って戦っているという認識をしているくらいので世間体で文章を書いていく。Twitterの限られた140字という範囲の中で争い、所詮言葉は脳内の劣化だというのに、パンダの拡大画像を見て黒色が見えた途端「この生き物は真っ黒だ!」と言うかのようににすぐに飛びつき騒ぐ人種を心のどこかで僕はきっと見下している。この渦中に自ら飛び込む生き物の気持ちを、僕はきっと知ることはないだろう。


しかし、知ることはなく忌み嫌うにしても、人間らしくて微笑ましいな、くらいには思っておきたい自分も同時に存在するのだ。それは、いかなる場面においてもそうだ。どれだけ自分が足を踏み入れることのないだろう凶悪な行為だとしても、自分の生まれてきた環境が一歩違えばそれになっていた可能性に怯む癖が僕にはある。僕もきっと、100年前に生まれていれば、鬼畜米兵!などと叫びながらアメリカ兵をなぎ倒しに殺そうとしたことだろう。しかし時代は変わり、戦争を知らぬ世代でできあがった世の中は平和ボケをたどる一方だ。「自分はしないことをあいつはしている」というだけで気分がハイになってしまう価値観はどこまで膨張するのか楽しみだ。そんな世で「相手のことを考えて言葉遣いは選ぼう」などという、まさに平和ボケした国民にふさわしい童話の中のような決め台詞に、ある種の"おめでたさ"を感じるのだ。


このおめでたさを感じる心情の由来は、道徳観で言論が変わるということをわずかながらに信じているという点である。つまり、言葉を発する前に相手の立場に立ち、相手がどう感じるかを想像してから発話に踏み出すという手順を一応は踏んでおくことが善となるという前提に立っている。これは本当に善であるだろうか。どれだけ見積もっても、その善が50%を超えることはないと思うのだ。残りの50%はどろどろとした悪である。


何故かと言えば、第一に、予見は決して当たらないということである。当たり前だが、自分が良かれと思ってかけた言葉で相手を不快にさせる事実は誰もが知っていることだろう。結果は相手がどう感じるのかを観測してからしか判断できない。それなのに相手への負担を想像しただけで善だと語ることはいささか暴論だ。第二に、言論は道徳ではなく快感によってコントロールされていると思うからだ。僕は、我々は言葉を快感を基準に発しているという持論を持っている。言って気持ちよくなるなら言うし、気持ちよくならないなら言わない。会話の全てのタイミングにおいて相手の心情を考慮している人間などこの世にいるだろうか? 全ての源は快感なのだ。誹謗中傷と言われる行為をする人間にとって、普段の鬱憤にかまけて下劣な言葉を誰かに浴びせることが快感になっているのと同じように、自分のことを誹謗中傷をしない人間だと意思表明する人間にとって、自分は道徳観の成った生き物であると誰かに示すことが快感になっているのである。言論が形になるときそれは全て快感がベースだ。道徳観ではない。


だから、道徳観で言葉を選ぼうなどという主張で、誹謗中傷がなくなるはずなどないのである。それ以前に誹謗中傷とは何かが分かっていないし、誹謗中傷はそもそも悪なのかが分かっていない。でもそんなことはどうでもいい。大事なのは、「自分のムキになれる題材が転がり込んできたら誰しもハイになっちゃうよね、分かるぅ⤴」くらいの快感で自分をメタ的に捉えておくことだ。快感が言葉のベースで、人間である限りその例外はないと思っておけば、自分が真っ先におぞましいと思う生き物への醜態を口にし言葉になった瞬間、その嫌悪の言葉のベースには自分の快感も含まれているという事実が自分にも等しく襲い掛かるはずなので、その一方的な批判とやらは加速せずにすむのではないかと思うのだ。どれだけ敵だと思っている生き物も、遺伝子レベルでは99.9%以上同じなのだ。嫌いな人間の99.9%は自分も持っていると分かっていた方がはるかに健康だ。


このように考えておくことが、僕にとっての"余白"である。我々はいつ何時も、何かを話すことを制限されてはならない。それは絶対だ。もちろん僕は、どんな誹謗中傷をしても構わないなどと思わない。しかし、例えば木村花さんのケースで言えば、彼女のテラスハウスでの行動が本当におぞましく気持ちの悪いものとして目に映った人には「死ね」「消えろ」という発言ができるということ、これくらいの余白は常に認めておいた方がいいのではないかと思うのだ。他にもいろんな例があるだろう。例えば、50歳くらいの議員が「15歳の女子と性交をしたいと思ったとして」みたいな発言をして炎上の末に職を下りることがあった。僕にはそれが分からない。発言では妊娠などしない。素直な性的嗜好を語ることを封殺する世の動きのどこに余白があろうか。この世の誰も傷つけない発言はこの世にあるだろうか。誰かが傷つくのならその一切は禁止するべきなのだろうか。


僕はこのように余白を感じられない世界に窮屈さを感じる。「死ね」は言ってはいけない、ということが大事なのではない。本当に尊いのは「死ね」と言うと悲しい顔をする人が経験上多いように思う、だから自然と言う回数が減った、なのだ。前者は道徳観をベースにしていて、後者は快感をベースにしているのが分かるだろう。何度もしつこいが言論のベースは快感であり、そしてさらに言えば、快感のベースは経験なのだ。間違ったこと、空気に会わぬことを喋りまくった末に人というのは出来上がっていく。あの頃の俺ら、しょうもなかったよなあ!くらいに笑えるのがちょうどいい。それは誰もが分かっているはずだ。しかし不幸なのは、本当にたまに、経験の浅い人間が「死ね」と言ってしまったことで本当に死んでしまう人が出てくることなのだ。そうなった瞬間に平和ボケ国民たちは血眼になって叫び出すのだ。「話が違う!」と。言葉とは誰かの快感をなぞるように生まれてきただけで、誰かの快感は誰かの快感を虐げることで助長されると分かりきっているはずなのに、平和ボケした国民にはそれが分からないのだ。とりあえず死なないことが当たり前の国では、死なないことは何よりも第一の至上命題なのだ。その前提から見直すべきではないだろうか。言葉は我々が使いこなすにはまだまだ野蛮なツールだ。道徳観で統制などできやしない。そう思うのは残忍と思われるかもしれないが、しかしそうした一種の諦めともとれる"余白"を生きてこれてきたというだけで、我々は実に逞しい生き物だとも思うのだ。


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だから小学生のあの時をふと振り返っては思うのだ。


ネットでたまたま見つかっただけのただの赤の他人の言葉に熱心に噛みつくことのできてしまう人間の心に余白がないということ、その余白のなさを生んだのは、経験と快感を無視した道徳教育だったのかもしれない、と。「言ってはいけない」と「傷つけるかもしれない」を、経験と快感の芽生える前の年頃から体に染みこませてしまったこと、それは余白のない道徳からまず学んでしまっているということで、それこそが一番に、言論のベースは道徳観であり道徳観で言論は良い方向に向かうなどというおめでたい考えを今日もどこかで加速させ続けているのかもしれない。