早く楽になりたい

もう就職してしまいたい、と、大学を出てもう半年ほどになるのだが、そんなことをもう百回は考えたと思う。早く就職してしまいたい。目の前の社会のサイクルに、とっとと参加してしまいたい。


僕は彼が憎い。死にたいと思ったときにそれを実行できてしまった彼が憎い。僕だって全然この世からいなくなりたいのだ。なのにそれを許す人がこの世のどこにもいない。少し車道に出て自転車を走らせても車は気を遣うように避けるし、橋の上をふらふらと歩いても、高い柵の間には体が通り抜けられるほどの隙間はない。残念ながらこの国ではなんとなくでは死ねない。気が付くと生きている。それを幸せだと感じられる人間に生まれ変わりたい。


でも生まれ変わることなどできないから、僕は自慰行為で時間を潰すしかない。不幸という名の自慰。社会のサイクルを高いところから見下ろせるような、そんな展望台みたいなところに一人登って、みんな社会に躍起になっているなあなんて呆然と眺めながら、自分はその一員にはなれないのだろうと自分の凝り固まった人生を嘆く。その気持ちの端くれだけを文章にしてきた。かれこれ五作の小説を書いた。でも、それがいつしか誰かを喜ばせる様子が想像できない。


自分の文章など、どれだけ頑張って書いたところでたいして誰も求めていないというのなら、もう今のうちに死んでおきたい。今まで数々の著作に影響を受けた。死刑、安楽死、自殺、それら命をテーマにした魂のこもった文章を読んだとき、激しく感銘を受けて、自分もいつしか、その感動を与える側に立ってみたいと思って生きてきた。そこに向かい走ることのみが、今自分が生きていることの恩返しを実行する唯一の手段であり、今まで自分が生きてきたことを辛うじて正当化する唯一の手段でもあった。


でもそれは、地球を指で押し続けていつか惑星が動くのではと期待することくらい、愚かなことなのかもしれない。冗談ぬきで、確率はこれくらいなのかもしれない。もしかしたら、地球が動くかなんかはどうでも良くて、地球を動かそうと本気で思えている自分に酔いたいだけなのかもしれない。そんなことに周りが言う"貴重な二十代"を費やして、地球はそのうち動くのかもしれないと本気で信仰できてしまう前に、自分は一度引き返しておいた方がいいかもしれないと思うのだ。


おとなしくどこか自分の持ち味がそこそこに発揮できるところに就職して、もちろん高望みなどしない。生活が破綻しない程度に稼げて、鬱にならない程度に人と会話できて、一日二時間くらいの残業なら我慢して。そして、人と協力して共同の目標に向かって、輪を大切にしながら社会の秩序に貢献する。なんて素晴らしい生き方だろうか。誰もが手を叩いて讃える生き方をしてしまいたい。もう、誰も見向きもしない自慰行為はやめてしまいたい。


でもそれがやめられないのは、贖罪の念が心から完全に消える日などこないからだ。自分の人生が苦しければ苦しいほど、本当はもっと生きたかった命を目の前で手放した自分にはそれくらいがちょうどいいのだと思えるからやめられないのだ。あの時もう少しまともな判断ができていれば、今頃建築関連の仕事を探し就活でもしていたはずだ。それを手放しよく分からない学部に移籍したかと思えば心理学から医学への転向を志し、しかしそれでも正当性を感じられずに仕事もせず文章だけ書いている生活になった。恨めしい。苦しめば苦しむほどあの時大事な何かを手放した自分が正当化されるこの人生が惨めで虚しくて仕方ない。


自分の生活の正体をある程度知っている人間から順に、楽な生活だとか責任がないとか本気でやっているように見えないとか言われてきた。僕には不思議だったけど、でも、ああそうか、とすんなり納得もできた。大学を出てしっかりと真面目に働いてきた人間には、僕の生活が、本当に楽をしているように見えるのだ。当たり前だ。自分は自分を崖の手前まで追いやってなんとか命を感じているような状態だけれど、それは、他の誰かから見れば、責任を放棄し自由気ままに遊び惚けるだけの社会サイクルから脱離した不届き者なのだ。そんな人間の言葉は、社会のどこの誰の心に響く?


馬鹿馬鹿しいのはそちらの方なのだ。どこの出版社だって、学歴の高いエリートばかり集め、どうしたら数字が出せるか、それが全ての世の中で中身の伴わないインフルエンサーの言葉だけを売り上げ、そんな一人一人に問い詰めてしまいたい。確かに芸術とは所詮娯楽だ。しかし、だとしたら真の娯楽とは何だ? 遊ぶとは何だ? あはは面白いと一時思えればそれだけで遊びか? 誰かの魂に触れ、それに触れる前の自分には戻りたくないと心底思わせることが本当の遊びじゃないか? さっきから本当の遊びと言っているが、本当の、とは何だ? 自分が本物だと思えればそれが本当か? 社会の一般感覚にある程度は迎合することが本当の条件か?


どこまでも終わりのない道を歩むことにこそ娯楽は隠れているのではないかと思う。そこからは目を背け、他人より一円でも多く稼ぎ、どこそこの会社のランクの方が高いとか、そんなことに躍起になって何になる? 誰かを助けるということに大きさという概念はない。自分が今まで困ってきた瞬間と同じ数だけ、この世には仕事が残っているはずだ。困るとは何か、助けるとは何か、それを本気で考えたことのある人間は、この世にどれくらい残っている?


その助けるに、想像もできないほどの夢を見ている。きっと未来永劫目の前に現れないだろう架空の透明人間を助けたいと志したせいで、自分の手で救える人などこの世にいなかったと気が付き、地球を指で押すことに憧れすぎて目の前の誰かの小さな背中を押すことに喜びを感じられなくなるどうしようもないクソ人間になり果てる前に、とっとと就職でもして、社会の歯車になってその個性ごと集団に埋没してしまいたい。誰かの生きたかった今日を生きている罪悪感から早く解放されたい。もっともっと、生まれたことを喜んでしまいたい。そうなるための、今自分の目の前にある一番楽な逃げ道は多分就職なのだ。今目の前で困っている人を助けてしまいたい。それで相手の少しでも喜ぶ顔を見て、自分も生きていて良かったと思ってしまいたい。



もしもそれが、死神が自分の体をさらった後の来世の体だというのなら全然それでもいい。どれだけ輪廻転生を繰り返しても無理だというのなら、もうこの瞬間で自分の意識は断ち切ってしまいたい。いつ空気を吸えるかも分からないのに水面下に潜り続けられるほど僕はタフじゃない。



幸せになってしまいたい。でもその方が地獄だ。幸せになった時にこんな自分が幸せになってよかったのかと問い続ける苦しみより、一生幸せになれない自分の人生を呪う苦しみの方が、恐らくマシなのだ。



もう、終わりにしたいし、幸せになりたい。