能力と運の狭間へ堕ちる【後編】

続きです。

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前編ではほとんど自分の過去しか書いていなくて、読み返してなんやねんって思わずつぶやいた。自分って意外と過去語りしかしていないし、きっとそれほど今に進歩がない人生なのかもしれない。残念。


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さて、能力主義と運主義において優劣はない、では済ませられない、それは福祉という点を語る上において、というようなことを書いて前回の記事を締めた。その説明をしないといけない。


話は飛び、アメリカの話になる。


アメリカだけではなく世界において、現在平均寿命というものは長くなっている傾向にある。医療の進歩等がその理由だろうが、その例外が、アメリカの白人労働者階級、いわゆるホワイトワーキングクラスと言われる人たちだ。研究によれば、このホワイトワーキングクラスと呼ばれる人たちだけは、首吊りや自身への銃射撃等の方法で自ら命を絶つ方法を選択することによる――これが絶望死と名付けられる――寿命の縮小が統計として示されている。


ではそうした労働者階級は何に絶望しているのかと聞かれるとき――それはもちろん自分のような平和な国のお坊が語るにはいささか想像の届かぬ机上論となるわけだが――その絶望の対象が、生まれながらの格差に向いていることは明らかではないだろうかと思う。アメリカ人は三分の二が非大卒というデータがある。しかし様々な要因で大学を出られない人たちを努力不足によるものとして片づけられがちな空気感というものがアメリカにはある(らしい)。だからヨーロッパ諸国に比べればアメリカでは福祉というものの行き届きが不足している。努力不足なんだからお前自身で何とかしろ、ということだ。


そのような国で育った時、自らの身分、家柄、人種等の意志では変えることのできない属性を恨む方向に心理が動くのは不思議なことではない。しかしここで問題なのは、かつて長い間差別の視線に晒されてきた黒人よりも、”白人の”労働者階級にのみ寿命の縮小が認められているということだ。白人は、どれほど身分が低くとも黒人よりはマシ、というような空気感に長いこと晒されてきた。だから白人ならば黒人で生まれるよりも幾分か恵まれているだろうということであり、それは即ち、白人という属性を「黒人よりはマシ、努力で何とか出来るもの」として捉え、黒人という属性を「生まれの運が悪いから仕方のないもの」として捉える歴史が始まったのである。だから、例えば黒人の階級に対し福祉を施すようなリベラルな政策が布教するにつれ、白人の労働者階級が今度は常に窮地に立たされてきているというわけだ。一番問題なのは、努力でどうしようもない人たちにその福祉が行き届かないことだ。


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このホワイトワーキングクラスの話は、決して他人事ではない。日本でも、大卒者と非大卒者の格差があることは目に見えているし、では非大卒であることの全てが本人の責任かと言われればもちろんそんなこともない。このホワイトワーキングクラスの話を分かりやすく言うのなら、「男子校出身の男子大学生がモテないことよりも、共学出身の男子大学生がモテないことのほうがキツい」みたいなものだ。モテないという事実が単に辛いという時代は終わり、モテないという事実を周りの視線が「仕方のないもの」としてジャッジしてくれるかどうかが大切な時代に突入してしまってきているわけだ。そんな時代で、能力と運はどっちも大事だ、なんて、そんな生温い結論で誰が救われるだろうか。むしろ、そんな生温い結論が蔓延ったからこそのホワイトワーキングクラスの絶望死なのかもしれない。


しかし残念ながら、運だけの社会、能力だけの社会が存在し得ないこともまた残酷な事実なのである。前者の中にいれば努力することの意義が消えるし、後者の中にいれば、生まれながらの状況でいきなりふるい落とされる人たちがあふれ出る。それはどちらも地獄であり、かといってその両方が顕在する社会はどうかと見てみれば、能力と運のどちらに傾くかという人により異なる思想の勾配のおかげで絶望死なんて状況が発生してしまったわけだ。我々はいったいどこに行けばいいのだろう、と甚だ懐疑的にさせる。「運と能力のどちらも認めたうえで、人を差別せず寛容になる社会を目指す」などという結論を出すのならそれもまた甘い。人を差別せずに寛容になれるかどうか、それは「人に差別をせず寛容になること」を教えてくれる人が周りにいるという、本人にはどうしようもない環境があったうえで初めて実現できることなのだから、それ自体にも運が絡むという反駁を、我々は真っ向から否定することなどできないのである。


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ということで、ここで詰んだような気配がむんむんと漂ってくるわけだ。もう自分たちにはどうしようもないじゃないかという結論になり、結局それが一番的を得ている。そう、自分たちにはどうしようもできない。せいぜいできるのは、このような主義主張ができ、明日生きているということを懐疑的に捉えずに済んでいる今の状況がどれほどの奇跡の上に立っているのかということに毎朝拝みつくしてでも感謝することくらいだろう。


しかしもう一つあると思っている。それは「格差をなくす」と意欲することの暴力性を知ることである。


格差をなくすとはつまり、生まれながらにして代えられない要因の障壁をなるべく減らしていこうという動きに他ならない。それはなんと耳障りの良いスローガンであることだろう。しかし、その暴力性に、我々は目を瞑って来たのではないか。


例えば発達障害の子供が教室にいる時、これでは不公平だと思い教育のペースを揃えるとする。すると教育の機会が公平になり、きっと教室の教育水準は上昇することだろう。しかしそれでも、その公平な教育についてこられない子供が新しく出てきた時、その子供の窮地の事態はさらに悪化するだけなのだ。「あの発達障害の子でもついていける授業に、自分がついていけていない……」というふうに。そしてその子もきっと、周りの目からまだ認知されていない”運”の要素が絡んでいるのだ。これは言い方が悪いのかもしれないが、自分の特質が”障害”だと認められていることはもしかしたらこれ以上に幸福な事なのかもしれない。誰かの「仕方ない」を救い上げることは、誰かの「仕方ない」を地獄に突き落とすことでもあるのだ。クラスの平均点が上がれば、それだけ、点数の低い子の偏差値は――自分の点数が一点たりとも落ちていなくとも――どんどん落ちていく。その全てに手を差し伸べることなど到底不可能なのに、今目の前にいる不幸な人間に同情して手を差し伸べることの恐ろしさ、それはつまり、差し伸べた自分の手が新たなホワイトワーキングクラスを生み出すのではないかという恐怖、それと対峙せずに人助けなど、到底人類には早いのではないかとすら感じるのである。



ここまでつらつらと書いておきながら、初めの問いに対して一歩も答えなど出せていないのは明らかだろう。運と能力の狭間に、人々は無力に堕ちるしかない。無力であることを認め、今の人助けが誰かを殺すことを分かっていながら、それでも、助けるのだ。それしかできないから。それをやめてはいけないから。



こうした歴史に学ぶからこそ、そういった恐怖に無頓着で自分のことを優しいと豪語せんばかりの態度を見ると、やはりどうしてもげんなりしてしまうわけだ。