能力と運の狭間へ堕ちる【前編】

今思い返すと恐ろしいことだったな、と思うことがある。


その記憶は、自分の小学校時代までさかのぼる。自分は当時、全くも相反する概念を支持する環境に同時に所属していた。それは能力主義の学習塾と、運主義の小学校という二者である。


前者、学習塾は、このブログで自分の過去を書くことは多いため何度も話に登場してきたはずだが、要約してしまえば中学受験用の塾であるため、その閉鎖空間の中では良い成績を常にキープすることが自分の小さな世界の中の地位に直結した。幸い自分は、入塾時から最上のクラスより一度も落ちることなく、模試を受ければその成績は必ず志望校A判定で返ってきた。そんな環境に身を置き続けた自分が能力主義的な考えをするようになったのは、きっと全く不自然なことではなかっただろう。何より重要なのは自分の成績、地位の確保であって、それは決してチームの輪でもなければ、ましてやお気楽な平等主義でもなかった。


そして面白いのは、この自分の主義は、今振り返ったときに、確実に、学習塾側に後押しされていたように感じているということだ。というのも、所属していた学習塾のスローガンは、『でてこい、未来のリーダーたち』だったのである。隠すこともない、はなから学習塾自身が、将来のリーダーを作ることを目的にその学習塾を運営していると公言しているようなものだったのだ。きっと今でも検索すれば、当時まだ幼い大橋のぞみが勉強する姿の下に当スローガンが書かれている画像がヒットするだろう。それを見て彷彿とさせるのは、世界人民はみな平等だというような主張ではなく、お前らは世界人民を”引っ張る側”に回れという暗黙の命令のようなものでもあり、「順位」という概念なしに成立しない思考は幼少期からしっかりと植え付けられていたようにも感じる。


一方、小学校では、それとは真反対の教育が行われていたように感じる。印象に残っているのは、運動会の応援かなんかのテーマソングだった。その歌詞を、何故か今でも覚えている。

「一等賞は誰だ 誰でもいいさ 頑張るのが一番」

鳥肌が立つくらい、気持ちの悪い歌詞だったと思う。かけっこあたりがメジャー種目だと思うが、つまりかけっこを、どれだけ足が速いかで順位をつけるのではなく、どれだけ頑張ったかで順位をつけようということに他ならない。先ほど取り上げた学習塾が、成績をキープできずに世間を引っ張る側に居続けられないことに危機感を感じさせる仕組みだったように、この運動会は、頑張れないことに危機感を感じさせる仕組みになっていたのだ。


まとめれば、学習塾は生まれつきの能力の差ではなく今発揮し得る努力にスポットを置き、その努力で上にのし上がれという能力重視の考えであったのに対し、学校は、人はみな違うのだから運動も学習も発達に速度の違いはあり、だったらその順位ではなく個人が”自分なりに”頑張ったという事実に目を向けようという、言うなれば生まれつきの運重視の考えであっただろう。


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さて、この二者の優劣の話は一旦後回しにしてもいいだろう。今取り上げておきたいのは、後者のようなお気楽平等主義を掲げた小学校は、「成績やかけっこの順位は本当はどうでもいいんだ!」という、生まれながらに持ち得ている能力の差を否定する立場であったからこそ、僕は罪悪感なしに否定してこられたという事実なのである。


どういうことかと言えば、自分なりに頑張るのが大事などというお気楽主義のぬるま湯に浸っているから”こそ”お前らはそんなに頭が悪いのではないか、と、幼き自分が周囲に対して思えてしまったことなのである。例えば小学校は小学校で「いい成績をとれ!」というような主義の渦中に身を投じ、周りの同級生もそれを目指して必死に学習する姿を自分が見たりしていれば、それでも成績が振るわない人種もいるのだと理解できたかもしれない(もちろんこれは空想で、幼き生意気少年ならそれはお前らの努力が足りないからではないかなどと思い始めるかもしれないのだが)。しかし大人が積極的に「努力しても届かない世界、あるよ!」と言って子供を格差から逃がそうとしているのだから、その格差を自分の手で埋めようなどと思わない子供が量産されるだけではないかと当時の自分は思っており、つまり、小学校の平等主義は自分から見れば、能力主義の自分をしっかりと正当化する格好のエサでしかなかったのである。


しかし、こうした考えは、私立中学に入学し、そのあとも様々な世界を知ることとで順に是正されていくわけである。それは、東大生を子にもつ家庭の平均年収は1300万とか、努力遺伝子というものの存在が認められており頑張れるかどうかですら遺伝的関係が存在するとか、そういう事実を知るにつれて、今の自分の境遇がそれらに歯向かわなかったという奇跡のような運命のもと初めて成り立ったのだと知ることだ。これらの要因は、子供の手では変えられない完全な運の領域である。最近はやっている言葉を借りるならそれはガチャの世界であり、それなしに自分が成立していないことを知らぬ人間は、幼き自分がそうであったように、本当に脆い人間なのだ。


ここでいう能力と運、その比重が今の自分にはどれくらいのように感じられているかと言えば、1対99くらいだ。自分の成功とはほとんどが運だと思っている。周りの神輿に徹底的に担ぎ上げられたうえで今の自分が存在していると思っているし、もちろんその神輿の上で最後にちょこっとムーブを起こしたのは自分だが、そのムーブすら、そのムーブができる人間だったというだけでそれは運なのだ。


この比重は人により感覚に違いがあるだろう。自分は自分の能力でここまでのし上がってきたと考える人ほど他人の失敗は当人の努力不足だと考えるだろうし、自分は運が良かっただけだと考える人ほど、努力では追い付かない天井に対して無力な考え方をするようになるだろう。この対立する二者間の感覚にはグラデーションがあってよく、そのどちらにも優劣などないはずで………と言いたいところなのだが、それでは話が終わらないので、このように記事に書かねばならなくなった次第である。


優劣がない、という結論は、人々を幸せにしない。もちろん全人類を幸せにする結論などないのだが、しかし優劣がないという当たり前の結論で話を締めるのはナンセンスすぎる。その優劣の話を持ち出さねばならないのは、この世において”福祉”というテーマは半永久的に考えねばならないものだからだ。


【後編へ】

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