他人の幸せが許せない人

オリンピックの反対派閥に、次のような理屈を訴える人がいます。


子供の運動会、部活動の地区大会、行きたかったライブ、また他の様々な式典が中止されているのにオリンピックだけは出来るというのは分からないという言い分です。言ってしまえば、我々が我慢しているのだからお前らも我慢しろ、と言っているのにほとんど変わりありません。


これ結構おかしいことだなーと、僕は思います。



一つ。我々が行動を自粛するか否かの判断は全て、感染者を増やし医療現場を圧迫することのないように、というのが一番の目的のはずです。当然、私たちが行動を自粛すれば感染のリスクは減り、外を出回るほど感染のリスクは上昇します。ですからこの本来の目的に沿うのであれば我々の行動は常に「外を出回らずに今は必要最低限のこと以外は自粛しておく」一択なのです。日本人の悪い所と言われるものでしょうか、自分の行動の可否の基準は本来、他者の行動ではありません。自分の行動によりどのようなリターンがあるか、それのみです、本来は。


二つ。我々が我慢しているのでお前らも我慢しろ、と言う人たちは、例えばアフリカの人たちに「君たちも貧しくなれ」と言われて従うでしょうか。我々の我慢に合わせろという言論が成立した瞬間に、この世で最も我慢している人、並びに不幸な人間を選定し、その人間に足並みを揃えないといけないという意味不明なロジックが誕生します。



僕はオリンピックはどちらかと言うと賛成でした。仮にオリンピックが中止になるとしても選手生命の限られているアスリートの勝負場を奪うことにはもっと慎重になるべきだっただろうし、オリンピックによって国益が上がるのなら、それで救われる人も多々いることでしょう。

(ただ緊急事態宣言による損失がその国益を上回れば意味がないということを分かっているのか、そもそもオリンピック開催はアメリカの圧力で日本の意志はどこにあるのか、などなど、懐疑な部分は多々存在する。)



しかしそれが、不幸な人間がいるのにお前らは、みたいなロジックで反対されることにはどうしても違和感が残ってしまうわけです。


こうした言い分が誕生する背景には、大きく二つの要因が存在するものと思っています。



一つ目は、人間は自分が苦しい時に他人の幸せを願うことができなくなるという性質。自分が苦しい時、人間は基本的に他者にも同じものを求めます。どうしてかは分かりませんが、それが多くの人間の自然な感情であると思います。上に僕が書いているように、自分が我慢しているのでお前も我慢しろ、は途端におかしい論理だと気がついてもおかしくはないはずなのですが、論理よりも情に傾く人であればあるほど、それに気が付かずにオリンピックを非難するでしょう。



二つ目は、多くの人の中に、自分は他人の不幸を踏み台にしているという自覚がないこと。妬みという感情は、自分より優れた何かを見て、その優れた何かが自分に対して意図的な攻撃をしていないにもかかわらず、そこに存在するだけで自分が否定されているような気持ちになるという感覚です。オリンピック関係者も、「お前らは自粛ばっかで可哀そうだなww」とか言ってはいないし、(建前上は)大勢の自粛や協力のもと開催できているというもののはずなので、それを上述の理由で反対するのは妬みにあてはまります。つまり妬みとは、不本意ながらも他者が自分の不幸を踏み台にしていると捉えられる状態のことであり、やはりこう書くだけでも不健康な感情だなあ、なんて思うわけですが、そうした妬みを感じやすい人たちって、自分が他人の不幸を踏み台にしているという感覚があまりないと思うんですよね。


今の社会、小さな成功のどれをとっても他人の不幸を巻き込んでいます。大学入試に合格すればそれは不合格者トップのひとの大学の入学機会を奪っているわけですし、勝負をすれば必ず敗者はどこかで誕生します。そうしたものを踏み台にして自分たちが成功を重ねてきているという自覚があるのなら妬みというものは自然と消えてくるのではないかと思うのです。自分が持っていない何かを持っている人が羨ましくなった時、「ああ、でも他の分野で俺も誰かの幸せ奪ってるからな」と思えるかどうかで、嫉妬の増幅の振れ幅は変えられるのではないかと思っています。


ちょっと話がそれると、小山田圭吾にの批判が免れないのも、障碍者にあそこまでのいじめは絶対に自分はしないという自覚のある人間が多いからだと思います。確かに多くの人はそこまで無惨なことをしないと思うのですが、しかし、学校という閉鎖空間での立ち位置というような、どうしても抗いがたい時代の中を生きていることは我々も同じだ、というように、他人の行動の僅かなワンピースでも自分に当てはめ、では同じ状況で自分が同じようなことをしていないだろうか、などと少しでも内省できるのならばここまで批判が膨れ上がる必要もなかったのではないかというような気がしてしまうわけです。今過去を振り返れば、もしくは大人から見れば素っ頓狂なことを咎め矯正し、許してくれた様々な人のおかげで今の自分がいるということが自覚できていれば、それが例え殺人だとしても、まるでお前は生まれてこない方が良かったとまで言わんばかりの批判にまではならないと思うのです。



やはりどの騒動をとっても、自分が絶対にそれを行わないという確信を疑うことのできない人がネット論争の中心にいるような気はします。自分が絶対にしない事であればあるほど簡単に石を投げ込めるのが人間というもの。あとは自分の成功と他人の失敗の原因は本人の努力に帰属されやすいという人間の性質も関わっていそうです。「お前のその失敗はお前の自由意志で回避できただろ!」と、その人の人生に思いを馳せたこともない人たちが口々に言うわけです。



自殺なんかもまさにそう。この世の終わりを本気で考えたことのない人たちが「頑張れば生きられる」とか言うわけです。馬鹿馬鹿しい。



でもここでふと気が付くわけです。この世の終わりを本気で考えたことのない人たち、と今表現した自分こそがまさに妬みの権化であり、やはりどんなにロジックで切りつめても最後に切り捨てられない人間の情は必ずどこかには残ります。それはやはり、優しく受け止めておかないといけない。



確か島本理生さんのエッセイかなんかで、「生きていくうえで必要なものを否定するのは不健康だ」みたいなことが書かれていて、その通りだなあと。妬みにも、上手く付き合っていかないといけません。オリンピックに反対する一部の人たちはどうも上手く付き合えている気がしなくて、しかし、では何が上手い付き合い方なのかと言われても、それをまだ僕たちは知らないわけです。