それでも彼らは”老害”になる―部活動と再現性―

大学を卒業し、部活にも顔を出さなくなってかなり時が過ぎたように思う。顔を出さなくなった、と言っても、コロナの制限で物理的に顔を出せないわけだが、そんな中かつての同級生と会う機会があり、久しぶりに部活の話をした。時代の背景上、OBと現役の交流なんかほとんどなくなっているご時世なので、その両者の間の壁は次第に厚くなるばかりなのだが、その同期もやはりそのことを嘆かわしく思っている様子、俺が後輩にできることは何か、などと言っていた。熱い同期で、The体育会、みたいな人間でもある。


が、そんな一面と同時に、少し老害予備軍の一面が垣間見えるような気もするわけだ。「俺の期待をお前らは超えない」みたいな発言を聞くと、部活の主人公はあくまで今の現役なんだがなあ、みたいな気持ちにさせる。もちろん何かを聞いて判断するのは今の現役なので僕がどうこう思うことにあまり価値はないのだけれど、自分の出身団体にどうあって欲しいのかということを考える時、「老害」というキーワードは切っても離せない重要なテーマであると感じるのだ。


老害とはどんな人間を指すかとまず考えると、やはり現役から嫌われるOBというイメージ。では何を嫌っているかと言えば、一つ目に、今の時代にとって再現性のない内容を押し付けてくること、という風に考えられる。つまり、「あなたがあなたの時代にそれで成功したというのは十分理解できますが、しかし時代も個人の性格も違う我々にとってそれが当てはまることを疑いもせずに押し付けてこないでください」みたいなことを現役は思うということ。それから二つ目は、我々が既に分かっていることを偉そうに説いてくる、なんてケースもある。「なんで勝てないんだ!」なんて怒られたところで、勝ちたいと思いながらも負けてしまったわけなので、我々が既に心で把握できていることを叱られてもただただうざいだけなのである。


なのでOB側はOB側として、自分の成功体験を分別することが必要だ。例えば馬車馬の時代に運送業界で成功した人が、鉄道の時代に馬車馬のメリットをいくら説いたところで誰の心にも響かないだろうが、成功体験の中で今の時代に何が再現できるかを分別できる人間ならば、「今の時代に馬車馬は流行らないが、いかに速い運送方法を思いつくかのメソッドであれば今の時代にも共通して役に立つ」というような合理的な思考ができるため、それを後輩に伝えることができる。それでも老害と思われるのならもう仕方ないみたいなところがあって、素直に人の意見が聞けない現役側に問題のスポットが浴びせられることになるだろう。



ではここで一つの疑問が投げかけられる。再現性があるということは、現役にとって手放しで喜べることなのか、ということ。



今僕は、老害老害たる所以は「再現性のないことを押し付けてくること」と定義していて、では再現性のないことがなぜ現役に嫌われるのかと言えば、それは単に「現役の実力向上につながらない」からである。全ては「今の現役の実力の向上という観点から見て是か非か」という論点で話しているから、現役にとって再現性のない話は無意味だと切り捨てられるわけだ。


しかしこの考えには落とし穴があることを認めねばならない。


一つ目は、再現性がないから無意味、は言えても、再現性があるから有意味、は言えないという点である。実力の向上という結果が見えるまで、どの選択肢が正解なのかは分からない。この道を選択したことで正解に至ったというのは全て、結果を見てからそう語るしかない事由なのである。つまり、再現性があるということはそれだけ正解に繋がらない道に手に染めてしまう危険が増えるということを表すわけだ。


部活とは全く関係のない話で例を出すと、例えばオウム真理教。宗徒がなぜ今から見れば愚かな策にはまったかと言えば、それは巧みな言葉の操りにより、「修練の末に我々も麻原になれる」という再現性を人に意識させてしまったためである。しかしその信仰の先にあれほど残虐な事件が待っているということを、まだまともな判断ができるうちの宗徒は知る由がなかったわけだ。だからこそ躊躇いが少ないうちにそうしたことに手を染められてしまう。これほど大きな話題は大げさかもしれないが、しかし与えられた再現性のある選択肢にこれほどの危険性が孕んでいないことを、我々は証明することができないことを、私たちはもっと恐れてもいいのかもしれない。


二つ目は、ある一つの結果の原因帰属を、意識して取った行動の中にあると断定することは出来ないという点である。これは言葉で説明するのが大変困難な事なのだが、今の段階で言葉で共有できる行動のほかにも、決して言葉にできない感覚等がパフォーマンスに影響しており、その効果を我々は正確に説明できないことが多々ある。しかし一つの結果が出たときにそれを我々は「○○をした自分たちの努力のおかげ」と帰属する傾向にある(原因帰属のバイアス)。しかしそれは信仰の域を出ず、事実とはかけ離れていることがあるかもしれないよね、という話だ。


つまり例えば、AとBという選択肢で迷った末にAを選び、それで成功したとする。そのとき人々はAを選んだおかげで成功した、と考えがちだが、実は我々の意識には上っていなかったCという要因が成功に寄与しており、AかBかという選択は意味があまりなかったというようなことは重々あり得る。だから例えばOBが「AよりBがいいはずだ!」などと現役に言うわけだが、仮にこの助言に再現性がなかったとしても、再現性がないことを知っていたことにより生まれる無意識な要因が成功に寄与する可能性など山ほどある。言ってしまえば、どんなに有害と思われるような助言でもそれがあったおかげで成功が掴めたなんて転ぶことはある、というしょうもない結論だ。



以上をまとめると、以下のようになる。


再現性あり

実力向上に是と捉えられる。が、再現性があるせいで行動に移してしまうというデメリットがあり、さらに、それが我々が意識できる事柄であるせいで、意識にのぼらない他の事由が無視されやすくなる傾向がある

再現性なし

実力向上に非と捉えられる。が、再現性がないせいで行動に移すことがなく、ただのコンテンツとして楽しませる力を十分に持つ。そして、コンテンツとして楽しむことができ、行動には移さなくて良いと自信を持って考えられるからこそそれが無意識の面でメンタルに良い影響をもたらすことがある。

例えば、「昭和の頃の俺たちは毎日10キロランニングしていたのだからお前らもやれ」と言われるとき、我々の多くは反発する。そんな昭和の根性論を令和に持ち込むなと言いたくなる。しかし50くらいのおじさま方が「俺たちの頃は毎日10キロも走ってたねー、わはは」と話して楽しんでいる分には、今の時代の我々も「そんなことがあったんですか!」と酒を片手に楽しんで話が聞ける。そうした先人の苦労の伝統のもとで今の部活があるなんて知れば、もしかしたらそれが新たなモチベーションになるのかもしれない。


しかし、「毎日部活終わりに10分の筋トレをしてから帰れ」と言われるとき、それくらいなら我々にもできるかもしれない、と思わせる(即ち、再現性を与えてしまう)。出来そうだと思わせるということは、それをやらないことによる罪悪感を喚起させるということでもある。別に必要ないと思うのなら10分の筋トレもしなくてよいのだが、「できないからしない」と思っておくことと「できるけどやらない」と思うことには天と地ほどの差があると感じることがある。後者の方が、一つの選択肢に絞るまでの尻込みの要素は確実に増えているだろう。もちろん、取捨選択はいずれ行わねばならず、うじうじしていたって仕方がないのは事実なのだが。



こうして考えたとき、老害の要素に再現性の有無は実は関係ないのではないか、なんて気もする。言ってしまえば、やはり自らが主人公と言わんばかりのOBがいつの時代も老害なのだ。自分の成功体験が他者に当てはまると信じて疑わず、自分の期待を超えられるかどうか、自分の予想通りに動けるかどうかを他者に対しての価値判断の基準にする人物。これほど恐ろしいモンスターはいないように感じる。期待するのは勝手だが、その見返りをOBが求めるのは違うように思う。


しかしいくつの年になったって考えが幼稚なOBは一人くらいはいるわけで、しかも彼らは自らの如何が幼稚なのかも理解できていない。それはもちろん全人類に当てはまることである。ああ、こんな俺は幼稚だったと気が付く瞬間は誰にでもあるのだ。だから我々が幼稚なのは仕方ないとして、大事なのはそうしたいかなる中途の瞬間においても、今その団体を構成する人員が一番の主人公だということは忘れないようにしておくということだ。