優しくなれる、幸せな人たち。

この世には、優しくなれる人たちと、優しくなれない人たちがいる。


僕は優しくなれる人だ。他の大勢も、ほとんどが、優しくなれる人たちで構成されている。


他人に優しくあることは美徳である。困った人がいれば助け、自分が困った時に助けてもらえる、それはさぞかし壮観な景色の待っている理想郷であることだろう。


そんな世の中で、こんな文言が生まれるのも納得だ。


―――――様々な障がいのあるアスリートたちが創意工夫を凝らして限界に挑むパラリンピックは、多様性を認め、誰もが個性や能力を発揮し活躍できる公正な機会が与えられている場です。―――――


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何かの不満があるわけではない。体に障害があったとしても、それでも公平に戦える場があるべきだ。なんと素晴らしい考え方だろう。これを忘れて再び差別と侮辱にまみれた時代に戻ってはいけないと、我々が脳みそに刻み付けるために必要な式典なのだろう。


そこまではいいとしても、でもどうしてか腹が立つ。


きっとそれは、きっと身体に何も不自由の抱えたことのない人間たちがその両手をはち切れんばかりに大きく広げ、共に平等に幸せに生きていこうなんて最大に口角の上がったその表情で語りかけ、そしてそうすることで世界平和の一歩を自分が担っていることを一切疑ってなどいないのだろうと思わせる、そんな幸せな世界に対する厭世である。


生まれつきによる先天的な理由か、事故などによる後天的な理由か、そのどちらにせよ、他者との体に違いがあることで公式の健全なスポーツの機会が奪われる、そんなことがあってはならないなど、至極当り前のことなのだ。パラリンピックの開催、バリアフリー、公共福祉。時代が進むにつれて現れてくる、共生を謳うそんな言葉がどんどんと現れてくるうちに、我々はどこか自らを優しい生物だと勘違いしていないだろうか。過去に多くあった差別、人権侵害、それらを執り行うことがただ醜く愚かなことであるだけで、それをしないということは決して褒められるべきでも何でもないことだ。身体障碍者の権利を剝奪しない、そんなことを優しさと思える幸せ、何と有難い世の中だろう。



似たことを、前に書いた。

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だとしたら、問題の本質はLGBTを理解できているかどうかだろうか? そうではなく、LGBTを放置できるかどうかではないかと思うのだ。

存在自体なら誰もが理解できるし、しかしその人の中の感情となると誰もが理解できない。だとしたら理解するという概念を一度諦め、放置できるかどうかに焦点を当てるべきではないかと感じた。

自分はLGBTではないが、しかしその立場からして考えたときに、理解増進法などと政治的な枠組みで捉えられることと、理解など求めないのでとりあえず何も言わずに放っておいてもらうことのどちらが嬉しいかと言われれば、それはきっと後者に寄るのではないだろうかと今まで記事を読んだりした中では思うのである。

どうやらマジョリティは、マイノリティを目にした時、「理解してあげなければ」と考える節がある。理解しないことで冷酷な人間になるのが怖いのか知らないが、”あなたの事情が分かっている”という状況に一直線に向かうことが多様性を実現することだと疑わない。

そうではなく、LGBTを放置できるかどうかではないかと思うのだ。


それに対し、放置という言葉はあまりに無慈悲な言葉のように感じられる。言ってしまえば、あなたのことは知りません、勝手に生きなさい。そう言っているのと同じなのだから。


そのどちらが善で悪なのかという議論は、今ここではしない。正直そんなことはどうでもよいし、本人が有難いという方を選ばせればよい。しかし、自分の想像し得ない何かの特質が目に止まった途端、その機序など考えることなしに思考停止して「理解しよう!」「相手の気持ちを想像しよう!」などと言うことで優しさを感じられるほど幸せなところまで進化してしまった我々人類に、文句を連ねたくなる瞬間が僕にはあるのだ。



理解しよう。

精一杯、想像しよう。



私たちが、自分の胸を優しさでいっぱいに詰めて、何とか相手に歩み寄ろうと思ってかけたそんな言葉の数々。



知ってるよ。自分たちの感情を君たちマジョリティが理解するには、「努力」が必要だってこと。

そうだよな、俺たちの考え、想像しないと分からないもんな。



健常者の善意とは大きくかけ離れ、曲解された末に当人に届くということを、我々は知る由がない。健常者同士、言葉などにしなくとも感覚で分かり合え、少しでも言葉にしようものなら「あーそれそれ!」と笑顔で語らい合えるようなそんな特質が自分とあなたにはないのだということ、それを突きつけるだけの言葉に我々の善意を受け取れと言うのなら、それはあまりに甚だしく傲慢だ。



優しくなれるとはなんて幸せだろう。自分のことを優しいと思った瞬間、それはこの世界の大多数に所属することを約束する証明書のような存在になり、この日本という国が、この地球という惑星が、自分の故郷のように思えてくる。それがいかに幸せなのかということは………きっと、健常者が大切な何かを失ったときに初めて分かるのだろう。



最近分かってきたことがある。


書くことを自分がやめられないのはなぜなのか。


それはきっとこの世に溢れる、脱臭できない汚物をなんとかこの世に提示しないと自我が保てないからだ。この世の多くの人々は、器用に脱臭ができる生き物たちだ。何か障壁が現れればそれは自分のための試練なのだなどとポジティブに捉え、それだけならよいのだが、それを他者に課そうとする。自分の成功体験は他者にも当てはまると信じて疑わないその表情。きっと「だってみんな人間であることは変わらないじゃないか」なんて鼻を広げて言うのだろう。鼻を広げ外界と多く取り換えるその空気は、体に入る前と後では見違えるように色が変わっている。自分色に、最も自分が落ち着くようなその色に染め上げられ、それに太刀打ちできない我々は、その空気のあたらない場所にせっせと逃げ込むしかない。理解なんてしなくていい。脱臭できない自分の異臭が自分の中にとどまり続けるしかない人たちを、「そうか」とただ頷くだけでそのへんに放置して欲しい。


「死にたい」と言えば、「生きろ」。

「死にたい」と言えば、「それはダメなことだ」。


いいよなあ。一瞬で黒を脱臭し、清い白に染め上げられるその感性、少し俺にも分けてくれないか。




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なんて考える人がいるということ。


それを知っておくだけで少しは、生きやすくなるのでは、と思う。


この何とも言い難い厭世観に、自分の体もわずかに重なる。自分の命をつなぎとめているのは、こうした厭世観に重ならない部分の自分の体なのです。