思わせ、名乗らせ、腐らせる

バイト先の常連さんに、絵を描いている人がいます。先日、本当に少しだけですが話をさせてもらいました。作品を生み出すことを生業としている人の話を聞く機会が今までの自分にはほとんどなかったので、貴重な経験でした。


京都のとある大学を出た後は筆のみでなんとかやり続け、そしてちょうど最近、個展の日程を終えたとのこと。僕は見ることができませんでしたが、その方が描
かれたものがプリントされたハガキなんかはもらうことができて、まるで写真かと思わせるような鮮やかな色どりに目を奪われました。


生計を立てるのはやはり苦労するようで、実家で暮らしながらなんとかやっているようです。筆を全く握らないまま何か月も過ごすこともあったとか。そんな状況を、このように言っていました。「だらだらと続けるままに、40手前にまでなってしまった」と。


だらだらと、ですか。


僕は、そうは思わないんですけど……………。



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自分が何かを言える立場ではないですが、僕も今年に入ってからすでに50万字ほどの文章を書いてきたので、自分の感性を何とか文字(上の方は絵になりますが)に起こしそれに向き合う生活がどのようなものか、その片鱗を想像することは出来ます。苦しい時ももちろんあります。書く前に頭で想像するものはどれだけ素晴らしかったとしても、文字を連ねるうちにその魅力は瞬く間に失われてゆき、それを書き終わるころには、ではこんな文章が誰の役に立つのだろうかと自問自答せざるを得なくなります。このブログももちろんその例外ではありません。ほとんどの記事は、こんなこと書かなきゃよかったと思いながらも公開ボタンを押しています。


しかしそこで書き連ねた文字のほとんどは、無の時間から生み出されていることがほとんどです。こんなことなら書くのなんてやめてしまえと何度も筆を投げ出し、しかしそれで休んでいるうちにさらに自分の存在を疑った果てに見つかった何かを言葉にしないと耐えられなくなった挙句に気が付くと再び原稿のもとに戻っています。そんなルーティンを繰り返す日々は虚しいながらも、しかしそれを手放すと自分が自分でなくなる恐怖から、それにしがみつきます。


絵と文章ではそのジャンルは違えど、きっとその方もこれに似たような生活を「だらだらと続けるままに」と表現されたのではないかと思います。


とは言うものの、では「だらだらと」ではなく「てきぱきと」創作が行われたとして、事態は今より完全に良くなるかと言えばそうではありません。自分の細かなメンタルなどの状態はすぐに手先に表れます。今はだめだと思ったら休むことが必要で、一回手に付けたものを悩んだ末に手放すこともあります。自分も見せてもらったその絵がもし「てきぱきと」創作されたものだったら、僕はそれほど感動を与えられなかったのではないか、とも思います。


そしてそれは作者が一番によく分かっていることでもあるでしょう。悶々と悩み続けた末に作品を完成させる行程が一筋縄ではいかなかったからこそ、私たちはそこに潜む人間らしい魅力を信じられるのだろうとも感じます。


とすれば、自分が自分の生活に対してそれを「だらだらと」と表現するのは不可解な話のように思います。例えばその言い回しが「ゆっくりと」とか「丁寧に」とかであれば話は別ですが、「だらだらと」という表現にはそれらにはない”怠惰”の意味合いが間違いなく含まれています。”適当に”とか”楽をして”とか、そんな言葉がよく似合う副詞です。いくら謙遜だとしても、有名企業に働く人は自分のことをきっと「だらだらと」とは形容しないでしょう。自分は社会の一員になれているというお墨付きを他者からもらえているか、という自覚の差はこうした言葉遣いに如実に表れます。


ですからここで「だらだらと」という表現になったという事実は、それまできっとその人が、「就職するわけでもなく自分のやりたいことばかりやって」といったような、そんな視線に晒されてきたことを示すのではないかと思います。そうでなければ「だらだらと」という表現は似つかわしくありません。見えない何かと常に戦う生活は「じっくりと」とか、そんな言葉で形容されて欲しかったという思いが自分にはあります。


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ここでおもしろいのは、他人が「おまえはだらだらと」と言うならまだしも、そうではないということが一番に分かっているはずの自分がそのように名乗っているという点です。


「だらだらと」を他者から与えられる前に自分があらかじめ自分の中に持っておくことで、「自分は社会から出る杭であることをちゃんと自覚していますよ、ごめんなさいね」ということを提示しておかないといけない世の中に今はなってしまったんですね、たぶん。で、そうした考えが蔓延ると「社会から出る杭になることは良くないのだ」という価値観がさらに増長させられるので、「だらだらと」がさらに生きづらい世の中になる。完全な悪循環が見えています。さらに面倒なのは、社会から出る杭になることは良くないという価値観が蔓延るほど、それを叩く者は社会の正義の使者になることができてしまうので、社会から出る杭を叩くのを正義の行使だと思って罪悪感なしに叩けてしまうことですよね。正義を疑わずに他者を打ちのめすことに麻薬のような中毒性があることは、今のネット界を見ていれば一目瞭然でしょう。


幸い、僕のバイト先にはそのような空気が僅かたりともないため非常に救われています。今まで僕はエリート揃いの環境で育ってきたため、やはりそのような視線に自分も晒されることが多かったように思います。何度もくどいですが、やはり京大を卒業して本当に楽になりました。


自分も、そうした環境で生きてゆければいいと思うとともに、「思わせ名乗らせ腐らせる」の悪循環を断ち切れる価値観に日本人が辿り着くのはまだまだ先であるような気がします。自分も、自分がこのループに入らないために人間関係は徹底的に選択しています。やはり、腐るのが怖いので。人生のモラトリアム期に立っており、自分が何者かを疑うことをやめられない自分にとって、「だらだらと」「適当に」「なあなあで」みたいな言葉が存在しない場所で生きてゆくことが、最も重要な至上命題となっているわけです。